遊星ゲームズ
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キュウリ味のペプシ、あるいはでじこの人生ゲーム
 日記

 twitterでこれまでに見かけた中で屈指の名言と思っているのが、これ。

アプリ開発者は、自分の作っているものが、キュウリ味のペプシよりユーザーを幸せにできるか、常に自問し続けることが大事だと思います。

- http://twitter.com/fladdict/status/18342789237

 ボードゲームにあてはめると、こうなる。

ゲームデザイナーは、自分の作っているものが、でじこの人生ゲームよりプレイヤーを幸せにできるか、常に自問し続けることが大事だと思います。

 PYTHON-OPOLYなどで置きかえてもいい。

 じっさいこれ、ものすごく大事なことだと思う。いや本気で。

 キュウリ味のペプシは、少なくともユーザを不幸にはしない。飲めば不幸になる人もいるかもしれないけど、それだって、キュウリ味とわかって飲んだのだ。不味かったとしても、話のネタにはなる。おそらく多くのユーザが、それくらいのつもりで飲むものだろう。
 キュウリ味のペプシに勝っているなら。少なくともユーザを不幸にはしない。これだけでも大変な価値があるんじゃないか。
 話のネタ、というのは強力な概念だ。キュウリ味のペプシはその点で、世の中のあらゆる無価値なものと、マイナスの価値を持つものを上回る。
 ボードゲームでキュウリ味のペプシに相当するものとして、でじこの人生ゲームというゲームを挙げることができる。
 でじこの人生ゲームは、なにしろベースからして人生ゲームだし、そこにてきとうにキャラクターをあてて、てきとうにカードの効果を書き、じつにてきとうに作られたゲームだ。バランスは完全に破綻しており、ゴールするころには半数以上のプレイヤーが破産している。
 そんなゲームでも。デ・ジ・キャラットと人生ゲームを知っていれば、話のネタにはできる。キュウリ味のペプシ同様である。

 たとえばの話。
 ゲームルールが機能しておらず、プレイ不可能なゲームがあったとする。
 これはもう、あきらかに、でじこの人生ゲーム以下だろう。人生ゲームはプレイ可能だからだ。
 プレイ可能だとしても。インタフェースが考慮されておらず、プレイが困難なほどわかりにくかったりとか。
 ゲームになっていない、という場合もある。たとえば、明らかにわかる「1番手必勝」とか。プレイヤーの選択に関わらずサイコロ次第とか。
 そういう、そもそも成立していないものでは、でじこの人生ゲームに勝てない。
 でじこの人生ゲームは、少なくともプレイ可能だ。ルーレットを回して、ゲラゲラ笑うこともできる。楽しみかたはあるのだ。ゲームとしてではないとしても。

 また、たとえば。
 既存の有名ゲームのクローンを作ったとしよう。ただ、そのままではなんだから、ちょっとした追加要素、例えば「キャラクターカード」かなにかを追加したとする。
 他のルールはそのままだ。さてこのゲーム、でじこの人生ゲームに勝っているだろうか?
 おそらくは、オリジナルの有名ゲームより優れたゲームにはなっていないだろう。追加することでゲームがよくなることはない。
 そして、わたしはオリジナルを知っている。わたしなら、でじこの人生ゲームを選ぶ。でじこがいるぶん、少しだけ、あちらに分がある。
 ただ、これはテーマにしたキャラクター次第かもしれない。デ・ジ・キャラットか、他のキャラクターかの違いだ。
 この場合は「でじこの人生ゲーム並み」くらいになっているのかもしれない。

 既存のゲームに、一箇所でも勝っているか? 畢竟、そういうことになるんじゃないかと思う。
 あらゆる面でカタンに負けているゲームがあったとしたら。プレイヤーにとっては、カタンをやればいいことになる。
 カタンのバリアントにはあまりいいものがなく、わりと現実にそんな事態になっている気もするけど……。
(そう思っていたら、傑作もあると聞いたけど)
 もちろん、違うゲームになっているならいい。既存のゲームと違うロジックがあり、機能しているのなら、それはきっとプレイする理由になる(追加しただけではだいたいダメだ)。
 既存のなにかの組み合わせだとしても、見たことのない組み合わせなら大丈夫。それはうまいニッチを探りあてたといえるだろう。
 だが、すべてあらゆる面で、あるひとつのゲームに負けているのだったら。そのゲームは、でじこの人生ゲームに劣るのだ。

 でじこの人生ゲーム(あるいはキュウリ味のペプシ)、意外と強敵だと思う。


キュウリ味のペプシ、あるいはでじこの人生ゲームを