Board Game Design Advent Calendar 2016 にわたしもなにか書きたかったんですが、気がついたら枠が埋まってしまってました。なので勝手に書こうと思います。つまりなんの関係もないブログ記事です。
ボードゲームデザインについての記事というといろんな切り口がありまして、じっさい上のアドベントカレンダーにもいろんな人がいろんなことを書いていておもしろいわけです。
そんな中わたしが書くことはなんなのかというと、それは自分の興味の方向とか、自分自身の人間の性質に左右されることになります。たとえば自分はグラフィックデザイナーではないので、デザインの話はあまりできない。といっても、いままでまったくやってこなかったわけでもないし、ゲームとしてのアイコンのあり方とか配置のしかたとかについてなら小一時間語れるのだけど、それはやっぱり、自分がブログに書くんだという当事者意識にならないわけです。
じゃあお前はなにを語るのかといったときに、やっぱり職人気質というか、まあ本業も職人(プログラマ)なんですけど、つまり会議室ではなく現場でなにをどのようにしたら課題を解決できるかという具体的な手法が一番好きなんですね。そのへんはやっぱり、企画屋気質の人は具体ではなく構想から語るし、営業気質の人はキャッチフレーズから押し出してくるわけだけど、自分みたいなやつのやり方というのはとにかく具体的で正しいやり方を知ることだし、それを積み上げることでいいものが作れると信じちゃってるわけです。まあ自然とそういう話になりますね。
というわけで、でもなんでもなくそんな自分語りはどうでもいいんだけど、今回は最近考えていたボードゲームにおけるマップの話です。
ボードゲームにマップは必要ない。これはあくまで自分の中だけの理論なのだけど、わりと十数年前から考えていたのだ。
ボードゲームを作ろうとしたとき、まずボードになにを書くか。マップを書く、というのは、ふつうの直感で自然に思いつくデザインだ。もちろんすべてのデザイナーが通る道というわけではないのだけど、まあ半分くらいのデザイナーはこれをやるだろう。
だがこのやり方は、ドイツゲームの世界ではとっくに何世代も前のものになっている。
『プエルトリコ』にはマップがない。それっぽいマス目の書かれたボードはあるが、あれは建物やプランテーションなどのタイルを置くための個人ボードで、タイルをどこに配置しようと関係ない。ここで話しているマップというのは、位置に意味のあるボードという意味だ。位置に意味がないのなら、それは単に倉庫であってマップではない。プエルトリコの個人ボードはマップではない。
さっき「何世代も前」と書いてしまった。これだとなにやら変遷があったみたいな印象になっちゃうのだけど、わりとそんなこともなく。まあすごく長いスパンで見たらあるかもしれないけど、ドイツ式ボードゲームという文脈においてはそんなに目に見える傾向があるわけではない。たぶん。プエルトリコよりももっと前、例えば『フィレンツェの匠』にだってマップはないのだ。かなり前から、マップを使わないゲームは存在している。
ただわたしは、マップ不要論という私論を、特にプエルトリコの頃から抱え続けている。
それはつまりこういうことだ。わたしはかつて、ボードゲームとはマップを歩くものだと思っていた。しかしプエルトリコを見たとき、マップが不要になったのだという感動があった。
マップがなくてもゲームは成立する。この認識は、自分にとっては、ドイツ式ボードゲームを理解する上で大きな助けになったのはたしか。
マップは位置情報をゲームに表現するための道具だ。では位置情報はゲームになにをもたらすかというと、いろいろある。
プレイヤーはコマをマップに置いたり移動させたりする。それはつまり、マップのマスをプレイヤーが選択するということだ。マップはなにしろマス目なので、多量の選択肢を提供することができる。例えば囲碁の1手目は55択だ。
マップは表現できる情報量が多い。ゲームの複雑な状態を表示することに長けている。また、なにしろ情報量が多いので、表現に言語を使う必要がない。使うとしても最小限の言葉で充分だ。プレイヤーに対し自然に、ゲームの状態を表示することができる。
情報量にも関わるのだけど、マップは世界観を表現することもできる。海があったり山があったりといった風景をゲーム上に描き出すことができる。またそういった地形がなくても、たとえばボード上に軍団のコマが並んで睨み合っているというだけで、それはもう風景として成立するし、世界観が浮かび上がってくる。囲碁や将棋の、ボードに描き出された世界の豊潤さはどうだろう。あれがマップの一番の力ではないかと思う。
たぶん、陸上生物はまず平面として世界を認識している。マップは直感的な道具だ。人間にとって、というか動物にとって本能的なインタフェースだ。
機能としてはそんなところだろうか。
欠点はどうだろう。
ゲームデザインではわりとたいていのことがそうなのだけど、利点を裏返せば欠点になる。選択肢の多さはゲームを冗長にしプレイ時間を長くしてしまう。表現力の高さは無駄が多いという意味でもあり、情報が散漫になる。直感的であるというのは裏返せば、直感から外れた機能は実現できないということ。マップを使うと決めた時点で、ある程度ゲームデザインの範囲が狭まってしまう。
ゲームデザインの記事としては、そうした機能を考えてつかおう!ということになるのだけど。でも自分がいま興味あるのはそこではなく。
わたしのいう「数世代前の」ゲームは、果たしてそうした機能を考慮して作られていただろうか。たぶん違うと思うのだ。ただ動物の本能に従いゲームを作れば、マップは自然と登場してしまう。機能を考えるよりも前にマップは存在しうるし、じっさいそうだっただろう。
いまこうしてマップが持つ機能について考察できているということは、マップを使わないゲームの存在があったということだ。人間は学習によって動物の本能から離れることができる。マップを使うゲームと使わないゲームがあり、それらを比較することではじめて、マップというツールの特徴が見える。
それが、自分の場合プエルトリコだった。
例えばゲームの設計書を書くとき、まずなにを書くだろうか。それはもう、ゲームのイメージ図だろうと思う。パワーポイントの図を駆使して、プレイ中のゲームのイメージ図を書くんじゃないかと思う。
設計書を書いたら次はじっさいのゲームとして実装していくわけなのだけど。この手順でゲームを作った場合、これは「表現指向」とでもいうべきスタイルの開発手法ということになるのではないか。最初に思いついた見た目のイメージがあり、それに機能をつけていく。だからルールよりイメージが優先になるだろう。
これとは逆の開発手法がありうる。つまり、設計時にはまずプレイヤーの選択肢を決める。イメージはその後だ。こちらの場合、表現よりもルールが優先になる。「ルール指向」とでも呼んでおこう。
マップを使うゲームというのは、主に表現指向によって作られるのではないか。と思う。ルールの前にまず表現したい世界があるのなら、マップは有用なツールになるだろう。
「ルール指向」側がプエルトリコだ。プエルトリコの役割タイルはルールへのインタフェースそのものだ。言葉が書かれたタイル。むき出しの選択肢そのもの。プエルトリコはまちがいなく、ルール指向で作られたゲームだった。
表現指向ではなくルール指向でゲームを作ってもいいんだ、と、たぶん当時のわたしが思った。ドイツ式のそうしたやり方が、とてもクールだと思った。これはたぶん、ゲームを作るより優れた手法だろうと思ったし、だからあれ以後、わたしの中に、マップ不要論が形成されていったのだ。
ドイツ式ゲームのそれ以後の流れはご存知のとおり。ワーカープレイスメントが生まれ、さらにルールをむき出しにした、無骨で洗練されたゲームが増えていった。
ゲームにマップはいらない。その考えは、わたしの中にはすっかり定着していた。
しかし。
最近になって、そうでもないような気がしてきたのだ。
なんとなく違和感はあったのだけど、はっきり認識するようになったのは、テラミスティカあたりだっただろうか。
テラミスティカにはもちろんマップがある。いろいろと新しい要素は取り入れられているものの、あれこそ「数世代前の」雰囲気を持ったゲームだった。それが、いまこの時代に登場するのか?
外部の事情もある。以前と比べると、ドイツ以外の国から多数のゲームが発表されるようになった。それらのゲームはドイツ式の歴史を継いでいるものの、ドイツ式とは少し違うコンテクストから生まれてくる。文化の衝突だ。さまざまな文化を背景にしたゲームが入り乱れ混じり合い、ゲームは多様になった。
そうしてぐちゃぐちゃになったドイツ式ボードゲームは、こうなると、マップを使ったゲームが増える。前述したとおりやはりマップは本能的だから、経験の少ないゲームデザイナーほどマップを使う確率が高いのだと思う。
もちろんいまこの時代に出てきたのだから、同じマップのあるゲームでも過去のものとは違う。現代流に洗練されている。
マップの復権。
いや最初にも書いたとおり、マップを使わないゲームも使うゲームもずっとあるし、若干の傾向としてはありえても、明確に興亡があったというわけではない。根拠もないし、ただの自分の印象なんだけど、だが自分の中ではたしかに、そうした現象が起きていた。
ただこの段階ではまだ、ゲームデザインに影響を及ぼすほどの変化は起きていなかったと思う。テラミスティカは、マップは表現指向で、個人ボードがルール指向で作られたキメラだ、という理解をすることができた。
決定的な変化を感じたのは『イスタンブール』だ。
イスタンブールは、マップを歩きながら資源を集めたり宝石を集めたりするゲームだ。マップの各マスにはさまざまなアクションが書かれていて、そこに止まることでアクションを実行する。
これはもしかして、マップがあるけどルール指向で作られたゲームなのではないか。
まあじっさいの話、イスタンブールのようなルール指向マップゲームはいままでにだってあったんだけど。だがイスタンブールを見たとき、これはまちがいなく確信犯だとわかったのだ。
イスタンブールのマップは狭い。4☓4の16マスしかない。その中を歩き回る。1手番に2歩まで歩けるから、選択肢は最大で11。もちろん局面によって意味のないマスがあったりもするから、じっさいにはもう少し少ない。
この数。プエルトリコの役割タイルやワーカープレイスメントのプレイスの数に近い。ルール指向で開発された選択肢の数として理想的だし、そのようにデザインされたものだろう。ワーカープレイスメントにしろなんにしろ、ルール指向ゲームというのはだいたいこのへんを目指して作るものだと思う。
加えて、選択の変動や選択肢の価値のゆらぎも必要だ。ワーカープレイスメントでいう他人が選んだ選択肢を選べないとかそういうルールのことなのだけど、イスタンブールでは、それもマップ上に表現されている。なにしろ歩かなければならないのだから。
マック・ゲルツが使うロンデルというシステムがある。円形に配置されたアクションから1個を選ぶ。一度選んだら、次のターンに選べるのはいまいるマスから3マス先まで。というルールだ。ルール指向の極致ともいえるスマートなシステムだ。イスタンブールのマップはつまり、マップというより2次元ロンデルなのだった。
マップを使ってスマートなアクション選択システムを構築する、個人的にはイスタンブールをものすごく好きというわけでもないのだけど、あの手法にはまいった。
マップ不要論はもう過去のものかもな。そう思ったのだ。
上に書いたような話は最近自分が作るゲームにも反映されていて。近作『ムラオサ』と『クイン・ラン』でマップを使ったのはそのためだったりする。じつはこの2作、自分でかなり気に入っててですね。マップの復権ほんとにあるぞと。自分の中ではけっこう熱い話だ。
勝手に私論を掲げて勝手に否定する、よくわからない内容になったけどまあ気にしないでください。