じつにマヌケな話なんですけども。
見てのとおり最近活動してなくてですね。それでこのサイトもずっと放置されていたわけです。で先月、気がついたら見れなくなってしまいました。
原因はドメインの有効期限切れでした。クレジットカードの有効期限が切れてることを忘れてて、未払いで止まっちゃったんですね。
けっきょく再取得も叶わず。いやはや大変なポカであります。
そのようなわけで、今後はこちらのURLで活動しようと思います。ご愛顧いただいてる方々にはご迷惑をおかけし申し訳ありません。
もともと更新のないサイトだし、どうってこともなさそうだけど。
完売というのはめでたいことではなく、出展者のミスとわたしは考えておりますいやほんと申し訳ありません。ちょっと持ち込み数が足りていませんでした。
ショップ委託などをちょっと考えようかと思います。あとデータもこのサイトに公開しちゃう予定ですので、もしよろしければそちらも利用してやってください。
なにはともあれおつかれさまでした。今回も盛況で、皆さん楽しそうでとてもよかったです。
てらしま -2016/12/11 21:38
ボードをPDFでダウンロードできるようにしました。もしよろしければ。
世界の狭いボードゲーム界隈では、ちょっと悪いレビューをウェブに書くとすぐに作者にエゴサーチされる。しかもそれがたいてい知り合いの知り合いくらいの人だったりするわけです。
特に国産ゲームの場合。こりゃもうしかたないんだけど。
さらに、たまにその作者が反論してきたりもする。
さらに、批評は自由だろという再反論があったりもする。
これ本当は議論がすり変わってるんだけどね、けどまあ両者とも気持ちはわかるわけじゃないですか。
それでもう、めんどうだから感想をいわないみたいな空気がじっさいにあって。めんどくさい。
そういうのが、とてももったいないと思うわけです。
自分の立場は何度もいってるけど、誰がなにをいってもかまわないというもの。レビューは好きにすりゃいいし作家からの反論もあって当然。そして、そういう言葉がオープンな場所に残ったら、それは全部貴重な財産だと思う。
ただこれは大きな立場でいってる話で。自分個人の話でいうなら、めんどうだからいわないことは現にあるし。
そもそも批評ってなんですか、と訊かれて、答えられる人は少ないと思う。つまりなにを書くべきか書かれるべきかがわかっていない。
そういう状態で、でも誰もが批評家になれてしまうここはインターネット。勢い、表現が誤解を招くものになってしまうことはとても多い。
例えば、批評は説教じゃないわけです。人に読ませるために書いているものではあっても、誰かを説得するためのものではないだろう。
具体的にいうと、
「これはつまらないのでオススメしません」
例えばこれ。よく見る文だけどこれ、作品自体じゃなく読み手に向けての表現になっている。つまり少し批評から外れはじめてると思うのだ。
こういうのが作家からどう見えるかというと。作品の内容に関係なくレビュアー対読者の関係だけで評価が決まっちゃってるように見える。少しおもしろくない。
べつに、書いた人には大した意図はないんだろうけど、ちょっとした表現の問題で。
こういう齟齬が、けっこうある気がする。
こんな表現の逸脱がどうして起こるかというと。要は「批評」がなにを語ればいいのかが、書き手の中で決まってないんだろうと。
本題。
「批評」はけっきょくよくわからないし難しい。ならもういっそ、あきらめたらどうだろうか。
「攻略」なら、ゲーム自体のことだけを考えることができるんじゃないか。
などと考えてた。
んーどうだろうな攻略を嫌がる人もいるけど。
なかなかブログ更新できなくて先週の話なんですが。
グループSNEのボードゲームコンテストというのがありました。
これにじつは応募していたんですが、
なんと、拙作『ソラシノビ』が入選したんです。すごい。びっくり。
このコンテスト、募集から〆切まで1ヶ月と短く、正直急いで作りました。でも、そんな中でもしっかりおもしろいものを作れたなあと自負していて、そういうところは、同人でいろいろ作ってきた経験が活きたなーと思うんです。つまり、いつも拙作の開発に協力してくれているみなさんと、遊んでいただいた方々のおかげなんです。ほんとに。感謝です。
普段からゲームのアイデアが溜まっていました。それらの中でも、コストの面や開発にかかる手間の面などで難しそうなものは放置されています。いつもやっている同人活動ではやっぱり、できることに限りがあって。今回、そんなネタのひとつが役に立ったわけです。個人的にはそこがけっこううれしかったりします。
優秀作は商品化するという触れ込みのコンテストなので、そのうちみなさんの目に触れる機会もあるかもしれません。いいゲームができたと思っています。ご期待ください。
明日のコミケは出展しないんですが、GameDeepという本に寄稿してます。売り子も手伝ってると思います。
ゲームに関するいろいろな話を書いてる同人誌です。
今回はだいたいIngressの本みたいですが、わたしはコントラクトブリッジとカタンの話かなにか書いてます。
明日のGameDeepの新刊のようなもの 東W-29a GameDeep だいたいIngress本です pic.twitter.com/VfaWfO1csU
— 中田吉法 (@ynakata) August 12, 2015
気が向いたらなにかのついでにでも見にきてやってください。興味あれば、既刊も置いてあると思いますよ。
しかし暑そうだな……。
『王への請願』というゲームがある。非常にいいゲームで、昔けっこう流行った。最近日本語版が出て、また遊ぶ機会が増えている。
遊びやすくリプレイ欲求も高く、いろいろな場面で重宝するタイプのゲームだ。またゲーム史上でも、後にいくつかのフォロワーを生み、ひとつのパラダイムを作ったといっていいかもしれない。その魅力はいまも色あせていない。
この王への請願について、先日ちょっとおもしろい話を聞いた。6面ダイスの代わりに10面ダイスを使うとおもしろいというのだ。
背景から説明する必要があると思う。
『王への請願』は非常にいいゲームなのだけど、欠点があった。最適解がほぼ決まっているのだ。
サイコロをいくつか振りそれで役を作る。そういうゲームだ。
ツーペアとかストレートとか、そうしてできた役に応じ、能力を持ったカードを獲得する。カードを獲得すると、サイコロが増えたり、出目を操作する能力を獲得できたりする。サイコロは1個以上を確定すれば他を振りなおせるというルールもあり、このあたりはGREEDに似ている。
サイコロが増えれば、さらに獲得できるカードが増えていく。最終的には、7個ものサイコロを使わなければ獲得できない最上級カード「王」までたどりつく。
サイコロゲームゆえ気楽でプレイしやすいこともあり、一時期はかなりくりかえし遊んでいた。そうするうち、戦略が固定化していったのだ。
その戦略とは、とにかくサイコロを増やすこと。出目を操作する能力はもちろんあれば便利だけど、そんなことよりも、できるだけ早くサイコロを増やさないと勝負にならない。サイコロを増やす能力は、ほとんどがゾロ目を出すことで獲得できる。だから、全員がまずゾロ目を目指してサイコロを振る。そういうゲームになってしまった。カード獲得の順番もだいたい固定化してしまい、もはやほとんど考えるところがない。
考えどころがないのでは、これはもうゲームではない。ビンゴかなにかと変わらない。
ただ、それでも充分おもしろいのがこのゲームの罪深いところだ。なにしろサイコロだから、同じ展開にはならない。普通のゲームなら飽きてやめているだろうけど、このゲームの魅力はそれを許さない。考えどころがなくなっていても、やればちゃんと楽しい。そういう、なにか危険なところのあるゲームなのだった。
そういう事情が、まず前提としてある。
そんなことを思っていたのは自分だけではなかったらしく。先日twitterでこのゲームの話をしていたとき、こんなことをいわれた。
@terrasima うちでは普通にやりすぎて最近ではD10使ってやってます。
— やおや@資本家の犬 (@di_eight_ether) May 1, 2015
なにそれすごそう。
6面ダイスだったものを10面に変えるということは、役を作りづらくなるということだ。ごく単純な数学の問題で、確率がだいぶ違う。そうなれば、出目を操作する能力の必要性が上がる。一辺倒にサイコロを増やすだけでは勝てなくなるかもしれない。
なるほど……。なるほどたしかに、バランスがよくなるかもしれない。これはいいかもしれない。
そんなわけで、10面ダイスを12個、買ってきた。
週末にさっそくやってみた。
感触としては、かなりいいのではないか。
ゲームの最序盤から、決定的な違いに戸惑うことになる。「農夫」が、取れない。
6面ダイスバージョンでは、第1手目の絶対のセオリーがこの農夫だった。なにしろサイコロはパワーだ。サイコロが増えることは正義。そして、農夫はもっとも獲得しやすいサイコロなのだ。より高い役ができていたとしても、他のプレイヤーの妨害のため農夫から取る、そういう戦略が横行していた。
しかし10面になると、そもそも農夫が取れない。狙っても取れる気がしない。
結果「下女」と「哲学者」の評価が大きく上がる。というより、農夫を狙うリスクが高すぎて、下女や哲学者の役があるときにそれを崩せない。
初手以外もだいぶ変わった。6面ダイスの場合、操作系能力は使わないか「天文学者」を1枚とる程度だった(天文学者をいつ取るか、それとも取らないかという選択は、それでも少し残っていたのだ)。これが10面ダイスになると、操作系能力の価値がだいぶ上がる。操作系の能力がないと、役を作っていくことができない。最終決戦の結果がゾロ目3個なんてこともわりと起こる。
6面ダイスでは、操作系能力は1枚使うくらいがせいぜいだったのだけど、10面バージョンでは最低2枚は欲しい。3枚あってもいいかもしれない。
では、いつ操作系カードを取るのか。もしかしたら、サイコロを増やせる状況でもあえて操作系を取っていく必要があるかもしれない。
サイコロを増やすか、操作系能力を取るか。そういうジレンマが生まれたということだ。これはたぶん、もともとのゲームデザインの意図に近づいたんじゃないかと思う。より『王への請願』らしいゲームになったとさえいえるんじゃないか。
ちなみに、いくつかルールを変えた箇所がある。書いておこう。
自分が遊んだときはこんなルールでやったのだけど。なにしろ勝手ルールなのだから、これが正しいわけでもなんでもない。じっさい、この遊び方を教えてくれたやおや氏のルールとも少し違っていたりする。
10面ダイスを使う改変は非常によかったのだけど、問題ももちろんある。こんなデタラメをやっているんだから当たり前だ。
7以上の出目でダイスを出すカードがない。というのはそのひとつ。出目指定でサイコロが増える能力では、最高の「司祭」が6だ。
ただ、これはこれで「女王」がより強くなったところがいいという面もある。
ダイス目を操作する能力も、いくつかのカードはもう少し強化する必要があるはずだ。たとえば「下女」の能力は、1~3ではなく1~5であるべきかもしれない。「女官」の能力は、1固定ではなく1~2のほうがいいかもしれない。
このあたりは、ルールを変更してしまったがために起きた不整合だ。本当なら調整するべきだろう。でもまあ、そこまでやったら新しいゲームを作るのと変わらないし、フェアリールールを逸脱してしまうかな。
そういう不具合とは別に、(たぶん)本来的なゲームバランスに近づいたために浮き彫りになった、ゲーム自体の欠点というのもあった。
操作系カードを1~2枚多く取るということは、数ラウンド長くなるということだ。ゲームにかかる時間が少し長くなる。
加えて、いままでよりも多様な能力を使うことになるため、考慮時間も伸びる。もともと、ダウンタイムはこのゲームの欠点だったのだけど、それがさらに顕著になる。
このゲームはいままで、ゲームデザインの意図よりも短いゲームとして遊ばれていたと思う。それが本来のかたちに戻ったら、今度は重くなりすぎる。このあたりは興味深い。
あと、やっぱりサイコロゲーだなと改めて思った。10面ダイスは6面ダイスよりも思いどおりにいかず、どうにもならない不運が発生しやすくなる。一方、確率は減っているものの、うまくいってしまえば勝てるのは同じ。結果の幅が広くなっている。
このあたり、運ゲー感がさらに増しているかもしれないと思う。
そういう問題はあるので。もしこれを読んでやってみたいと思った方がいたら、自己責任でお願いします。
こうまでして遊びたいかとはすごく思うけど(笑)。
可能性を強く感じるのになにか足りない、おもしろいけどなんかもったいない、そういう印象があるゲームだった。でもそんな物足りなさの一部が、10面ダイスを使うことで解消してしまったのだ。
とても興味深い実験と結果になったなと思う。
そうはいっても勝手ルールだしね、別にオススメするわけではないのだけど。
うちで忘年会的なやつ。雑な焼き肉をやったり『楽園追放』を流したりしつつボドゲもやってた。
最近お気に入りのゲーム。初めてやったとき、久しぶりの「これいいぞ」感があった。ローゼンベルクは『祈り、働け』くらいからあんまり興味なくなってたんだけど、こういうのも出てくるから油断できない。
この日は人が集まるまでの時間つぶしに2人で。2人は少しだけルールが違うんだけど、ちゃんと遊べた。
それにしてもこのゲーム、勝てない(笑)。
各ラウンド1枚の場札が出てくる。各プレイヤーは手札から1枚を伏せた後、公開する。3色のうち合計の数字が大きい色が勝利で、その色を出したプレイヤーは出したカードを得点にできる。さらに、その中で一番大きい数字を出したプレイヤーは場札も取れる。ただし赤いカードが出たら、場札と同じ色のカードが全部ゼロになってしまう。
そのための10枚の手札を、最初にドラフトで作る。というゲーム。
ちゃんと楽しめる。色に性格があるのもドラフトさせるためには必要なことで、なんというか、間違ってない感じ。ただやっぱり、ドラフトにはもう少しカードの多様さが必要かもなーと思う。これくらいならランダムで配っても大差ない。とはいえ、カードを把握できる利点はあるかな。
カードの数字が50まであって、カードの強さに序列を作ってるんだけど。そこはゲームシステムとまったく噛み合っていない。そういう、デザイン上怪しいところもけっこうあるんだけど。
ゲーム的に地味だけど成立はしている。絵がいいで買っても損にはならないかなーという感じ。
レジスタンス系ゲーム。箱に穴が空いていて、そこにチットを入れて投票する。投票箱を使うことでゲームマスターがいらなくなった人狼ともいえる。
小並感だけど、この箱いいなと思った。レジスタンスのカード出すあれより直感的だし。
裏切り者を炙り出すための情報源が、基本システム中に存在しないところが気になる。キャラクターの効果では情報出せるんだけど、情報がまったくないキャラクターも多い。
でもまあレジスタンスでも結局わからないし、そういうものかもしれないか……。
デッキゲーマーとしてはやっておきたかった。カードのかわりに巾着袋とコマを使うデッキゲーム。
巾着から引いたコマを使って、ボード上でアクションをやる。フィギュアの移動とか、フィギュアを増やすとか、攻撃とか。巾着から引いたコマによってできるアクションが違う。巾着にコマを投入することもできる。つまりデッキ構築。
おもしろかったしもう一度やりたいと思うんだけど、ゲームバランスは見るからにめちゃくちゃ(笑)。あとデッキ構築部分が、ほんとにこれでいいんかって感じで。これ、コマを増やしても生産力上がらないどころか逆に激しく下がっていくんだけど、大丈夫なのか……。
自分のやつ。やったことない人がいたので。
使用文明はペルシャ、ミノア、マヤ、カルタゴ。カルタゴを時間かけて育てて大人げなく勝利。途中で資金繰りのためにペルシャ買って売ったのが正着だった気がする。
まあてきとうにやるやつ。
道化師+手裏剣とか、いかにも弱そうなのとったわりにあと一歩で勝てそうだったんだけど、クソ硬くなった鎧屋にまくられた。惜しかった。
といってもそんなにやらなかったんだけど。
ゲムマ直後の木曜日に、いわゆる木ドミ(「木曜ドミニオンしない会」)で、ゲムマのゲームを少しだけ遊んだ。
あとは、拙作ワールドモンガーを遊んでいただいたりもしてた様子。
自分が買った奴もそれなりにあるので、機会を見てどんどん消化したい。
ゲームマーケット2014秋、明日です。楽しみですね。
当サイト「遊星ゲームズ」も、いつもながら出展します。最近サイト名変えたんですが、出展名は古い「遊星からのフリーキック」になります。
です。
お品書きは↓。
新作は『ワールドモンガー』とポストカードゲーム『12分クエスト』です。
12分クエストは、なにか買っていただいた方におまけてお渡ししますが、単品の場合は100円です。
そういえば『仮面の王』がベータ版のまま正式版を作れてないです。なのであいかわらずベータ版ですがもしご入用ならお声かけてください。
あと『テーブルゲームデザインの本』はコミケで出した5号があります。他の号も在庫あるぶんは持っていきます。
では会場でお会いしましょう。
なんとなくサイトの名前変えようと思ってあれしたけど、ゲームマーケット前にすることじゃなかったような気もしますね。
Magicmaker っていう、Steamのインディーゲームを最近やってて。これが大変おもしろいんだけど、別に話題作でもなんでもなく、むしろぜんぜんやってる人いない。それはまあいいんだけど。
いろんな効果を組み合わせて自分だけの魔法を作ろう! っていうゲーム。
たとえば壁に反射するとか、3方向に撃つとか、そういうのを3~4個組み合わせるとオリジナルの魔法ができあがる。
写真は、6方向に撃つやつと途中で5つに分かれるやつを組み合わせた状態。6×5は30。
これを光線にしてみるとこんな感じ。
あるいは、重力に従うようにして壁に反射させると、こうなる。
こういう調子で、好きなように魔法を作れる。
まあありそうなゲームだしじっさいいくつもあるので、このゲームが特別すごいというわけでもなかろうけど。ただ難易度とか自由度とか長さとか、そういうのが全体的に、自分の好みに合っていたのだろう。やっていてとても楽しい。
創発という言葉があって。ゲームの話ではよく出てくる言葉なんだけど、Wikipedia から引用すると
創発(そうはつ、英語:emergence)とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。
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ということらしい。つまり、言葉だけ有名な「バタフライ効果」とかのカオス理論の話だ。
単純なシステムから複雑な結果が生まれる、このことは、よいゲームの特徴として語られることが多かったりする。
便利な言葉なので、ビジネスとか芸術とかあたりの意識高い人たちが少しずれた使い方してたりしていて、だんだんバズワードに見えてくるのだけど。でもゲームの話ではとても大事なので、誤解を恐れず使うしかない。
あいまいになっちゃうことには理由があって。定義はあっても現象の特定が難しいのだ。たとえばゲームでいえば、ストーリーの分岐を選ぶだけのアドベンチャーゲームはどう考えても創発しないだろう。しかし、その選択で100個ある内部パラメータが変動するとしたらどうなのか。けっきょく結果は選択肢の数しかないのだから、プレイヤーから見たらなにも変わらないけど、創発しているといえないこともないのではないか。あるいは、文字で語られるストーリーがプレイヤーの内面になにか影響を与えるとしたら、それこそ選択肢などなくても創発があるのだと言い張ることもできる。じっさいそういう無理目の議論が、ゲーム界隈ではしょっちゅう語られていて、混乱を招いているところはあるよなあと思うけど。
というややこしい話はあるとした上で。 Magicmaker は創発のゲームだ。わたしが好きなのもまさにそこ。
組み合わせによってはとんでもなく強い魔法ができたりする。ボスも瞬殺できてしまったり、ハメパターンみたいなことも発生したりする。バグに見える振る舞いもけっこうある。
作り手がコントロールしきれていないと思う。でもそれでいい。魔法でなにができてしまってもかまわないと、覚悟してしまったゲームなのだ。インディーでしかありえない作り。そこが楽しい。
自分の場合、ゲームをおもしろいと感じるとき、創発があることは重要な要素になっている。これはいわゆる加点法の評価だ。
でもこれ、いわゆる「バランスが悪い」といわれたらそのとおりというしかないだろう。こちらは減点法の評価。
創発が強すぎるとバランスは崩れる。創発するということは、ゲームデザイナーが意図しない展開も起こりうるということで。「バランス」を求めるならないほうがいいという話になりかねない。欠点を埋めていく作り方では創発をスポイルしていくことになる。
作り手によりしっかりコントロールされた展開を望むプレイヤーも、もちろん多い。
この二律背反って、ゲームにはつねにつきまとっていて。たぶん、ゲーム関連のめんどくさい話の半分くらいはこれじゃないかなあ。みたいなことを、なんか考えた。