定期的に、年に数回盛り上がる話題である。なのでわたしもときどき書く(笑)。前にも似たようなこと書いてるかもしれない、ボードゲームのマナーについて。
典型的なモノは「長考禁止」などがあるわけだけど。
じっさいの話、長考しすぎて座の興を削ぐケースというのはある。逆に、長考すんなといいつのる人のほうが興ざめという場合もまたあるので、どちらがとは一概にいえない。
なぜこの問題がしょっちゅうとりあげられるのか。
なにが問題かというと。
まず「遊び」が成立するための条件というものがある。それは、プレイヤー全員が遊びを共有していることだ。
またかお前はという感じだけど『ルールズ・オブ・プレイ』や『ホモ・ルーデンス』から引くなら
魔法円を形成している要素の中に、たとえば「長考禁止」が含まれているのなら、長考は
しかし、このことはルールブックに書いていない。
つまり、ゲームを規定するルールは「遊び」を規定していない。そして、遊びの魔法円を規定するのは、参加者以外ではありえない。
ルールにのっとり、ルールが規定する勝利を目指すために考えることは、本当に悪だろうか。他になんのルールもないのであれば、これはプレイヤーに当然認められる権利ではないか。
じっさい考える対象がそこにあり、考えたほうが勝利が近づく事実がある。極端な話「考えるな」というのはゲームの否定かもしれない。
というわけで、ここに矛盾がありうる。ゲームと遊びとの間の溝だ。
これが、結論。
えーと、いろいろ議論があるけど、結論はずっと前から決まってるんですよ。
「遊びとゲームの違い」
ちょっと線を引く。
問題になるケースというのはそもそも矛盾があるので、完全な解決はできない。しかしそれでも策を探るなら、
考えられる可能性としてはそんな感じ?
まず A は論外だ。
まあ、じっさいにはこれが多いだろうし、それでいい場合のほうが多いだろうけど。とはいえこういう議論としては、これは思考停止であり、この立場をとることはできない。
じっさいに問題が発生するまではこれでいい、というところか。
B もちょっと無理だ。プレイヤー全員というのは何人いるかわからない。何万人かもしれない。そのすべてをひとりひとり説得する必要があることになり、もちろん不可能なんである。
ただ、ゲーム会の主催者がルールを定めるというのは可能だろう。できれば明確で明文化されたものがいいかもしれない。これをどのように定め運用するかというのはいろいろ難しいだろうけど、やっているサークルもある。
C はかなり正義に近い気がする。たとえば長考が発生し座の興が削がれてしまったなら、それは遊びのツールとして問題がある。そのゲームにバグがあったといういいかたもできる。
とはいえ、メンバー次第というところは多分にある。あるゲームがこちらのサークルでは盛り上がり、別のサークルでは嫌われるということはある。「その場でそのゲームを出したことが問題」ということになるだろうか。
もしも、それほどボードゲームに慣れていないプレイヤーが多いのなら、そこにフリークゲームを出すのは間違いかもしれない。
「参加者の顔を見てゲームを選ぶ」
「問題が発生しないゲームを選ぶ」
どのゲームを選ぶのかというのは、また別の技術があるだろうけど。多かれ少なかれ、みんなやっていることではある。
また別解として、不足しているルールを自分たちで補うというものがある。アグリコラにチェスクロックを導入して成功している事例を聞いているが、ああいうものだ。
アグリコラは長時間ゲームだが、その「長時間かかること」「長考が発生してしまうこと」それ自体をバグ、つまりルールの不足と考え「時間制限」を導入する。手間がかかるが、その手間を投入したいほどのゲームがあるのなら、いい方法だと思う。
そう考えるなら、 D は C の裏表だ。メンバーとゲームが合わない場合があるのなら、ゲームに合わせてメンバーを変えればいい。
この方法も考慮に値するように思う。現在の日本のゲーム会は「集まってボードゲームをやりましょう!」で成立している場合が多い。「このゲームをやるから集まりましょう!」ではないのである。
最近では「ドミニオンをやろう」とか「アグリコラをやろう」などで集まるイベントをよく目にする。ボードゲームは幅が広すぎ、ひとくくりにして人を集めることに無理があるのかもしれない。
まあそれだと、ドミニオンだけあればずっと遊べてしまうので、市場に金が回らないという話はあるけど……。そういうのは、ユーザが考えなくてもいい。
マナーの話だった。
だいたいわかると思うが、マナーというもの全般にわたしは懐疑的だ。上の話にも、正しいマナーで遊ぶべきだなどという内容はないつもり。
おそらく、上でいう B が「マナー」を主張する立場にあたるのかもしれない。しかし、書いたとおり、プレイヤー全員に徹底というのは不可能である。
この話に関してはそもそも矛盾があるのだから、どれが正しいということはない。充分なサンプル数のデータが出てくるまでは。
あるとすれば「これが正しいと断定する意見は間違い」とかかなあ。
というあたりかと思っている。
ただ注意したいのは、個人の感想は別だというところ。個人が長考に遇いなにかを感じたというのなら、それは事実だ。それをいうこと自体は、否定されるべきものではないと思う。
まつざわ -2011/06/07 01:15
明文化されたルールの不足を、マナーで補うのは一般的な話ですが。
仕様書の不備を常識的判断で補え、という良くある話が想起されるので、個人的にはルールが悪いと叫びたい派です。
てらしま -2011/06/07 12:18
わたしも、非論理的な常識に泣かされる仕事してる影響ってのはあると思いますw
なかた -2011/06/10 22:09
「ルールを守る」というのは、その前提として「公正さを守る」というメタルールに囲まれているよね。これは単なるマナーの話じゃない。どんなにルールを修正しようが、そのメタルールについて見向きもしない人には通用しない。
でまあ「マナー」というのは個々人が勝手に思ってるメタルールのうち、共有されているかどうか怪しい部分を強制したいがために喧伝されてるあたりだよねー、などと思ってたり。
てらしま -2011/06/10 23:27
そうですねー。そのメタルールに関しては、守らないと遊べないレベルのものがたくさんありますね。そういうのも表現を変えてマナーといわれてることもあって、マナーってのはいろんなレイヤーの話が混じってるとかはあります。
いろいろ混乱してて、そこに政治や宗教が好きな人がいるんだろうなとかは思いますねえ。
まつざわ -2011/06/14 00:44
雀牌の表面を指で削っちゃいけませんとか、対戦相手を狙撃してはいけませんとか、いちいちルール記述できませんしね。
※ムダヅモ無き改革は、考察の上で良いテストケースと主張してみる。