Board Game Design Advent Calendar 2015の6日目です。最近更新が滞りがちなサイトになってるのでこういう企画は大変ありがたいですね。
今回は、ゲームにすごく必要な要素「選択」についていろいろ考えてみたいと思います。
ゲームになにが必要かというといろいろあるわけだけど、ともかくゲームというのは選択するものだということには疑いがないだろう。たぶん。
プレイヤーはなんらかの選択をするのだ。そしてその選択によって、勝ったり負けたりする。
今回話したいのは、選択の意味とはなんなのかということだ。ゲームルールによりある選択肢が与えられたとして、その選択にはどれくらいの意味があるだろうか。そういうことを考えてみたい。
話を整理するため、極端に簡単な例を考えていきたい。しかしこのアプローチにはちょっと問題があって。ゲームというのは、あまり簡単だと成立しないのだ。必然的に、簡単すぎてゲームになっていない例から話すことになる。この文章のほとんどの部分は、そうした成立していないゲームについての話になるだろう。アンチパターン集かチェックリストみたいになる。
かなり、当たり前の話ばかり書くことになると思うのだけど。しかし現実の話、ゲームデザインの作業においてはここに書いたようなことを常に考えチェックを繰り返している。そしてそういう基本を守ることはけっこう大変だったりもする。
あと注意点として。ここに書いたような基本的な理屈では、ゲームの感触としての「おもしろさ」は保証できない。基本を無視して作られた、つまりここに挙げたアンチパターンにはまっているゲームはたくさんある。海外で話題になり賞を獲り日本語版が作られたようなゲームであっても、まったく例外ではない。そういうゲームが、おもしろくないわけではないのだ。
ではなぜこんなことを考えるかというといろいろあるわけだけど、まあ一番はわたしの趣味だ。ゲームはそうあってほしいと、わたしが願っているという話。
あそうだ、あと、参考文献というわけではないのだけど『ルールズ・オブ・プレイ』には近いことが書いてあるので、あの本を読めばこの記事は読まなくてもいいかもしれません。
こんな選択肢があったとする。
ゲーム終了時に得点の高いプレイヤーが勝つとして。
この選択肢はもちろん、意味がない。なぜなら、自明にA)が有利だからだ。誰もがA)を選ぶだろうし、だから実質的に選択肢B)は存在しないのと同じになる。
A)はB)の上位選択肢ということになる。
さすがに例が簡単すぎる……のだけど、それはボードゲーマーにとっての話。コンピュータゲームやトレーディングカードゲームだと、上位互換はふつうに出てくるよなあと思う。もちろんあれで成立している理由はあるのだけど(課金額による差とか……)、そういうことは考えておかないと、意外とはまったりする。
これを選択肢と呼べないのは当たり前だ。もう少しアレンジしてみよう。
だいぶゲームらしくなった気になるけど、やっぱりまだダメだろう。A)を2回選べば2点。B)を1回、C)を1回と選んでも2点だ。AAとBCが等価値ならば、これはけっきょくどちらを選んでも同じということになる。
ただ、これくらいになるとちょっと考慮に値するような気がする。つまり、じっさい数秒ほどは考えさせられるようになったわけだし、ゲームっぽくなった気がするわけだ。この方向でもう少し複雑にしていけば、たぶんゲームとして成立するかもしれない。
ここまでに見てきた2つ、上位の選択肢と等価の選択肢という考え方はとても重要だと思う。ゲームの選択は、つねにこの2つの間でなければならない。上位でもなく、等価でもない。これをデザインすることが、ゲームを作るということだといってもいいだろう。
でもこれ、考えれば考えるほど、じつは難しい。ここまで見てきたような簡単な(確定で完全情報な)ルールでは、完全な実現はほぼ不可能だったりする。
実現するにはいくつか、既知の方法がある。列挙だけしておくけど。
このへんの話はこのサイトにある別の記事でも読んでもらうとして。
そういういくつかの方法を駆使して、選択をゲームにするのだ。
「等価の選択肢」の一部だが、結果につながらない選択というのもある。たとえば。
木材と石の使い道がなければ、A)とB)は等価だ。また等価であるだけでなく、意味がない。木材を獲得することと石を獲得することは、勝敗という結果につながらない。ただプレイヤーを混乱させるだけだ。
もう一つ例を挙げる。ブラフゲームで、よくこんなルールがある。
これにはいくつもの実例がある。宣言が本当か嘘かを判断させ、結果に応じなにかが起こるようなルールがこの後につづくわけだけど、そもそもこの宣言に意味があるのかというのは考えたほうがいい。
相手プレイヤーの選択が、宣言をまったく無視しても変わらない場合、この宣言という選択は結果につながらなかったことになる。
もっとも、このルールを採用しているゲーム、例えばゴキブリポーカーなどはものすごい人気があるし、こうした操作は単純に楽しいんだろうなというところもある。最初に書いた、ゲームの感触としてのおもしろさとは話が別というのはこのあたりのことだ。ゴキブリポーカーの選択に意味があるかというと相当に怪しいのだけど、そんな話とは関係なく、多くの人が感じる楽しさはある。
結果が選択を打ち消してしまうようなルールはないほうがいい。
例えば、テレビのクイズ番組の笑い話のような例。
けっきょく最終問題の結果で勝負が決まるのであれば、それまでの問題の結果には意味がなかったことになる。
といってもこの例、じっさいには、お互いに正解した場合に差がつくから、意味がないわけでもなかったりする。そういう意味では最悪というわけでもない。
最も悪い例はこんなものだろう。
それまでの結果を完全にキャンセルするルールだ。ここまで極端なものは少ないとしても、近い例は多数ある。いつでも逆転できる可能性を残すためにこんなルールが考案されるわけだけど。
この例は、選択が複数回おこなわれる場合に発生するものだ。ゲームはふつう、選択を何度もおこなうことで成り立つ。ゲームとは意味のある選択の連なりのことだ。
その連なりの中で、ひとつひとつの選択が意味を持つということは、ある選択が次の選択に影響を及ぼすということを意味する。そうして常にゲームは連続している必要がある。
そのすべての選択が有効であるべきで、キャンセルされるようなことはないほうがいい。理想的にはだけど。
プレイヤーの選択は尊重されなければならないし、それを無効にしてはならない。これは個人的にはかなり大事なことだと思っている。ゲームは遊びだ。遊びは主体的に参加するもので、その結果はプレイヤーのものだ。そこを崩したら、たぶんなにか大事なものがなくなっていると思う。
ゲームの選択は、主にゲームに勝つためにおこなう。ゲームに勝つというその目標が失われてしまったら、もはや選択の意味はない。
いわゆる「逆転」の話だ。ゲームはできるだけ、つねに逆転の可能性が残っているほうがいい。
ただしそれは、上に挙げた「選択のキャンセル」が発生しない範囲内での話だ。選択がキャンセルされるくらいなら、逆転できなくなる方がいい。逆転できなくなったのはまだプレイヤーの意思の結果といえるからだ。
逆転可能性を残すことと、選択のキャンセルを引き起こさないこと。この2つは、しょっちゅう二律背反を引き起こす。
選択の一つ一つに意味を持たせるということは、例えば「拡大再生産」をさせるということだ。しかし、拡大再生産はなにしろ拡大していくのだから、序盤についたちょっとした差がどんどん開いていくことになる。逆転できないゲームはそのようにして発生するのだけど。
ここにはゲームデザイン上の罠がある。たとえばテストプレイヤーから「逆転できない」という意見が出たとき、それを修正することが本当に正しいのか。「選択のキャンセル」の防止とどちらを優先するかを選ばなければならない場面はある。どこかに着地点を見出さなければならないのだけど、テストプレイヤーの意見を聞き入れすぎると、おそらくは逆転可能性が優先されてしまう。選択のキャンセルが発生してしまうのだ。
解決策の一つは乱数を入れることだ。これはじっさい有効なのだけど、しかしあまりお勧めしない。たしかにつねに可能性を残すことができるのだけど、じっさいにはその効果はあまり期待できない場合が多いからだ。
例えば、次のようなゲームがあったとする。
このゲームで1点を先行されたとき、逆転できる可能性はどれくらいあるだろうか。
まず、次のターンから相手のサイコロはすべて偶数が出続けなければならない。そしてその間に自分が2回成功することが勝利の条件だ。
この確率を計算すると、10%ほどになる。思ったより低いと思うかどうかは人によるだろうが、ここでいいたいのは、ある事象が連続して起こる確率は累乗の計算になるということだ。1/2のチャレンジであっても、逆転するためにはそれが連続で起こらなければならない。差が大きいほど、確率は急速に小さくなり、すぐにほぼゼロといっていい値になる。
プレイヤー人数が増えると、この問題はより深刻化する。上の例でプレイヤーが3人になると、0-1-1から逆転勝利する確率は2%ほどまで下がる。4人なら、0.4%。たった1点の差でこれでは、もはやゲームルールとして有意な大きさとはいえない気がする。
単純に乱数を加えただけで逆転可能になったとはいえない、という話だと思う。けっきょくトップの優位は変わっていない。
もちろん使い方次第だ。お勧めしないとは書いたが、検証して有効なら導入していいと思う。
こんな計算をすべてのプレイヤーがするわけではないという話もある。確率が極小でも、可能性がないよりはマシという考え方もある。
あるいは、そもそもゲームに選択肢が足りていないのかもしれない。戦略の幅、勝利までの複数のルートを用意できていないとき、そのルールを細かくいじってもゲームはよくならない。そんなときは、抜本的になにかを足す必要があるだろう。
ここまで書いてきたような、不要な選択を省くという考え方は、そういう点でも有効だ。ゲームに問題がありなにかを追加するときは、ボトルネックを捜さなければならない。そのためには不要な選択肢を刈り落としてあったほうがいい。
またもちろん、追加した選択が充分な意味を持っていなければならないし、それを検証できなければならないわけだ。
ここまで、選択自体の意味について考えてきた。今度は少し視点を変え、ゲームに加えた要素が選択にどれくらい影響を与えているかという話。
「意味のない選択」に挙げた、使わない木材と石を選ばせるという選択は、選択が結果につながらない。この場合、木材と石という要素はこのゲームに必要ないことになる。なぜなら、選択に意味を与えていないからだ。こういう要素は省きたい。
「目標の喪失」に書いた乱数の話も同じだ。逆転できないからゲームに乱数を足したとして、それが選択に意味を与えただろうか。けっきょくプレイヤーがやることに違いはなかったりしないだろうか。
きのうのStudio GGさんの記事にも登場した言葉で、ゲーム木というのがある。ルールに要素を追加した結果ゲーム木のかたちが変わったなら、その要素は選択に意味をもたらしたといえるだろう。逆にもしそうでないのならば、その要素は省くことができるのだ。
例えば、わかりやすい例はイベントカードだろう。カードを引き、そこに書かれた内容を解決する。その結果、誰かが有利になったり不利になったりする。
イベントカードの追加により、ゲーム展開の幅は少しだけ広がったかもしれない。しかし考えたいのは、ゲーム木のかたちが変わったかどうかだ。イベントの結果により選択を変えることはあるだろうけど、選択肢のかたちは変わっていないのではないか。
逆に、恐ろしく複雑で要素が多いゲームであっても、一つ一つの要素がゲーム木のかたちに寄与しているなら問題ないということだ。それはたぶんゲーマー向けの重厚な戦略ゲームと呼べるものになっているだろう。
特にドイツ流のボードゲームでは、この考え方は大事になる。
簡単だけど、選択の意味を失わせるアンチパターンを列挙した。自分はこんなことを、ゲームを作るときも遊ぶときも常に考えている。
選択の結果勝敗が決まるという、そのことを深く考えれば誰でも辿りつける話ばかりだった。そういう意味ではすごく基本的な話だ。
最初にも書いたとおり、ここに書いた話がいわゆる「おもしろさ」に関係しているとは限らない。人気があるとか、売れるとか、そういう話ともたぶんまったく関係ない。そういう意味では、単なるゲームデザイナーのこだわりとか美学とか、そういう範疇に収まる話かもしれない。
でもそういうこだわりがない作品って、どこをどう遊んだらいいかわからないと思う。
こだわりの傾向がジャンルを形成しているという面もある。ここに書いたアンチパターンの中には、それが解決されていなくてもゲームと呼べるものはあるかもしれない。ソシャゲなら別にそれでOKだったりもするだろう。でもいわゆる「ボードゲーム」と呼べるものにするためには、少なくとも半分以上を解決してやらなければならないだろう。