ちかごろは、いわゆるインタラクションが薄いといわれるゲームが増えている。と思う。時代のせいなのかなんなのかしらないが、ともかくいまはそういうゲームのほうが受け入れられやすいんだろうか。
そのいっぽう「最近のゲームには戦いがない」となげく人もいる。好みにもいろいろあるんである。
ボードゲームをはじめたばかりの人はもちろん「ゲームってなんなのか?」ということを理解していない。
現代で一般にゲームといえば、それはコンピュータゲームのこと。コンピュータゲームはふつう一人遊びだ。インタラクションなどということは考えたこともない人のほうが、圧倒的に多いわけなのである。
その意味では、インタラクションが薄いゲームのほうがうけやすいというのは納得できる気もする。
遊びにはいろいろな種類がある。「ゲーム」はその中の一つだが、他にもある。
表意文字であるところの漢字は、そのあたりのニュアンスを伝えやすいので便利だ。
いくつか例を挙げると。
「競技」の「競」は、競う遊びだ。これはまさにインタラクションの世界。「ゲーム」の訳として近いものだろうと思う。
戯れるの「戯」には、こどもがふざける様子というニュアンスがある。たわむれるときは、どちらかといえば相手がいそうだ。いなくてもいいけど。だから、インタラクションがないわけでもない。
でもゲーム的な意味とは少しちがう。勝敗をあまり重視しないパーティーゲームが近いといえるのではないだろうか。
『ホモ・ルーデンス』(ホイジンガ)で、中国の遊びの概念を説明する節に登場するのは「玩」という文字。これは「玩具」「愛玩」などにつかわれる。
「戯」よりも内向的な、どちらかといえば相手を必要とせず、なにかをもてあそんだりじっくり観察したりする、というくらいのニュアンスだろうか。
パズルやコンピュータゲームなどのひとり遊びがあたりそうな気がする。
なにしろ言葉が分かれているのだから、これらは別のモノなのである。少なくとも漢字を使う民族にとっては。
ただし、ここで話しているのはボードゲームの話だ。ボードゲームはゲームである。あくまでゲームの定義としては「競」が入っていなければならない。
それは前提で、その上での話だが。
自分専用のボードを渡されて、他人の行動をあまり見なくてもプレイできるような。いわゆるインタラクションの薄いゲームには、「玩」の要素が含まれている。
コンピュータRPGで、自分のキャラクターが育つのを見るのは楽しい。これもまた遊びだけど、相手が必要ない。
むしろ相手とのかけひきなどが含まれると、「競」的なおもしろさが強くなり「玩」が薄くなる。
インタラクションが薄いゲームがうけているのであれば、それは「玩」に類する遊びが好きなプレイヤーが多いといえるのかもしれない。
そんな感じで。
そういうのをゲーム会の雰囲気にあてはめてみると、持ちこむゲームの選定基準になりうるのかもなと。思った。
ああでも、あまりそういう分類にとらわれると、広がりがなくなっちゃってよくない気もする。「気が進まないけどプエルトリコやってみたらハマった」というケースもありうるわけで。まあてきとうに。