2004.9.3 てらしま
昔『アフターマン』という本があった。あれをわたしが読んだのはいつだったか。中学生のころだと思う。
人類が滅びた後、数億年間の地球の生命を想像してみよう、という、とてもかっこいい内容の本である。ペンギンが巨大化してクジラのようになっているとか、ドブネズミたちは強靭な生命力で生き残って、さまざまに分岐して進化し、ついにはゾウみたいなのになったりとか、そういう話が、イラストつきで検証された本だ。
当時のわたしは多少腑に落ちないものを感じながらも、その本にいたく感銘を受けた。そういう感触が残っている。わたしのSF原体験、の一つではあったのではないかと、今になってみれば思う。
ところで、こうした体験を持つ人はわたしだけではないらしい。というのは、いろいろとウェブを眺めていると、アフターマン復刊(したのだ)についての話題がけっこう出ていることから思うのだが、やはりあの「人類が滅びた後」というのがなんとも衝撃的で、普段は考える必要もない未来のことを人間が想像するということのかっこよさ、認識の枠を大きく揺さぶられることの不快な快感というか、そういうものに影響を受けていた人は多かったようである。
『FUTURE IS WILD』は、現代流にもう一度、アフターマンを再構成してみよう、という本である。
たしかに、アフターマンよりも検証が細かくなっている。まず各時代の地球の地形や気候を想定し、そこから、条件に合う生物を考えていく。このダイナミズムはアフターマンよりもおもしろくなっている。
そして、もっとも違う点は、この本では完全に人間から離れたというところだ。アフターマンはあくまでアフターマンであって「人間後の世界」であった。しかしこの本は『FUTURE IS WILD』(未来は野蛮?)である。WILDなのであって、そこには人間の希望が関与する必要がなくなっている。
人間は人間が滅びた後も人間が信じる世界が続いてほしいと願う。人間が信じる世界とは、人間が獲得した知性や文化である。
『アフターマン』では、ドブネズミから紆余曲折を経て進化した知的哺乳類が、群れの中でのコミュニケーション手段として表情(特に笑顔)を獲得し、微笑みに満ちた豊かな世界を作っていくだろう、というところが最終章だった。
ちょっと不満があった。けっきょく哺乳類だし、収斂進化という言葉があるとはいえ、人間と同じように二足歩行をし、脳の容積を肥大化させた生物が結論ではいまいちだなあと、当時わたしは感じたのだ。いや、まだたぶん中学生だったわたしがそこまで考えたかというと疑問だが、どこか腑に落ちないというような、オチのない落語を聞かされたような感覚を持った。けっきょくまた人間かよと。
しかしこの本は違う。現代の、世界的な支配思想の変化も影響しているだろう(つまりそれほど人間に期待できなくなっている)し、前回よりも金がかかっていそうなこの本、いろいろ調べた結果、より大胆な予測をたてられたのかもしれない。なにしろこの本の最後に登場するのは、イカの子孫なのである。
イカだ。海に棲むあのイカが、地上を闊歩するのだ。
他にも、空を飛ぶサカナとか、ジャンプするカタツムリとか、くだらない、いや興味深いものがいろいろ登場する。このダイナミックさは完全にアフターマンを越えていて、とりあえずおもしろくなっていると思う。ちょっとおもしろすぎなのだが。
しかし、だからといってこの本の内容を信じるわけではない。それができないくらいには、私自身、純粋さをなくしてしまった。むしろ、信じてはいけないと思う。
たとえば、この本ではやけに現代の海生生物の子孫が登場する。それはなぜかと考えてみればいい。
むろん、ショッキングさを演出するためだろう。人間にとってサカナの類というのは、心情的にかなりかけ離れた存在で、それが人間が滅びた後の世界を支配するというのは、話としてショッキングだからだ。
学者が多数集まって、真剣に検証して各時代の環境に合った生物を考え出してできたのがこの本だ。それは確かだろう。だがそれは、地殻の移動や気候の変化から想定される決定論で、イカが地上に上がるだろうことが導き出されたということではない。とりあえずどこかの段階でイカが地上に上がるというストーリーラインができあがり、それについて検証してみた、というのが正解だろうと思う。
本は気候の話から理屈を積み上げていくが、実は逆だと思う。つまりSF小説の手法である。まずおもしろい話があり、そこに理屈をつけていくのだ。
それがよくわかるのが、一億年後の世界に登場する「オーシャンファントム」である。群体生活(多数の同種の生物が集まり、個々が役割分担することで一つの個体のようになる)するクラゲで、現代のものよりも多様な器官を発達させて巨大化している。海上には風を受けて移動するための帆があり、海面下には獲物を捕らえるための触手があり、という具合だ。これらはもともと一つ一つが別の個体のクラゲなのだが、神経をつなげて、まるで一つの巨大な生物のようになっている。
そういう生物なのだが、これは見る人が見ればすぐにわかる。『遥かなる地球の歌』などアーサー・C・クラーク作品に、ほとんど同じものが登場しているのだ。
クラークの予言能力がそれだけ精密だったというよりは、これは、クラーク作品がそれだけ魅力的だったというべきだろう。
そうしたところが、悪いとはもちろんいわない。これでいいのである。少なくとも、アフターマンにあった不満はなくなっているではないか。
「二億年後の地上を支配するのはなんとイカの子孫!」といわれた方が「哺乳類がまた人間に似た生物を生んだ」といわれるよりも納得できる。二億年という時間のスケールに、その方が合致しているように思えるからだ。この場合、現実がどうであっても関係ない。読者として、その方が納得のいくストーリーなのである。
そういう意味で、アフターマンよりも完成度を増しているといえる。ただし、やはりアフターマンを読んだときよりもショックは減じた。それはむろん、わたしがすでにアフターマンを読んでしまった後だからだ。今の中学生に『FUTURE IS WILD』を読ませてみたいと思う。
2004.9.3
イノセンス
山田正紀 徳間書店
人間は人形を作り、それを愛でる。その感情は人間が人間を愛することに通じるが、それよりもイノセンスな感情なのではないか。この映画ではそれをさらに進め、つまり、人形は人間よりもイノセンスに近いのではないかということになっている。
人間が感じる愛情やらなにやらから不純物を一切とりはらったらなにが残るのか。この映画は、なにも残らないかもしれないという。殻だけの、人形が残るのだ。人間性はイノセンスと関係がない。
だがそれと同時に、サイボーグであるバトーが去っていった素子を思う感情、というか「祈り」が残っている。これもまたイノセンスなのではないか。
とそういうような映画だった(のだと思う)。なにしろ余計な情報が40億円分もつぎこまれていて、中からテーマを拾い出すのは一苦労なのだが、たぶんそんな感じになるのではないかと思う。しかも、これも内容からではなくタイトルから推察した考察だ。
さて、しかしこれは攻殻機動隊でもある。
この世界には「ゴースト」というものがある。データとしての記憶や情報処理の中にある魂のようなものなのだが、まだはっきりと解明されてはいない、そういう存在のことだ。
これは脳までを機械化した人間が、しかしまだ人間であることを確保するための、つまり人間性がすべて解明されてしまわないために唯一残っていた小道具だったわけだが、さて、そこに人形がからんでくるとはどういうことか。
映画ではあまり、そのことについてくわしくは語られない。ゴーストは人形を愛でるのか。アンドロイドは電気羊の夢を見るか、である。
あの映画には、人間性を失った人間たちの、おぞましくも憎めない活動が描かれていた。
それは祭りの場面に表れている。あそこにはなぜか、人の姿が非常に希薄だ。いても、人形と区別がつかない描かれ方をされている。人形が笑いながら人形を作り、祭りをする。しかし人形の祭りは空虚で、華やかなのに賑やかさがない。
一番の問題は、そうした表現が、魂のない映像の空虚さと区別がつかないというところだが。
祭りは神に捧げられるものだ。人間はほとんど人形になっても祈りを忘れられず、どこかが歪んだ愚かしい祭りという形でイノセンスを表現している。むろん、あの祭りは素子に捧げられたものだったわけだ。
それはそのまま、魂を失った映画に残されたものを表現しているように思われたり。でもそういう喪失感は、考えてみれば押井守がずっと試みてきたことだ。あの映画はひどく怪しげなシロモノだったが、実は失敗作ではなかったのかもしれない(うーん、どうだろう)。
ここにはもうゴーストの存在は必要なくなっている。人間性を肯定するための装置は、かえって邪魔になっているのだ。人間は人間でなくなってもイノセンスを残すのだから。
……でもまあ、実はそんなことはどうでもいい。そんな怪しげな映画に40億円がつかわれた、そういうことがあったってことである。
で、この本である。
映画のノベライズというか、あの映画の前夜の物語である。
バトーはバセットハウンドを飼っている。その犬が、失踪した。バトーは、サイボーグである自分には魂がなく、だから犬が離れていったのではないかという不安を感じながら、犬を捜す。そのうち、どうやら、犬は誘拐されたらしいという話になる。
イノセンス、つまりあらゆる雑多な要素をすべて排除したあとになお残るものはどこにあるのか。犬を愛する心にはそれがあるのか。
この小説では「ゴースト」という言葉はあえて使われず、かわりに「ソウル」が使われる。それはつまり、攻殻機動隊の否定であり、攻殻機動隊にイノセンスはなかったということだろうと思う。
きっと映画の監督である押井守もそう感じていたに違いなく、その意味では映画のノベライズとして正しい小説だった。
そういえばもともとの原作者だった士郎正宗は、イノセンスになど興味を示していないように感じる。人間が機械と融合し、ネットの海に身を沈める。『攻殻機動隊2』ではその巨大な複雑さの中から、生物の次の進化が見えてくる。マンガの視点はあくまで、複雑さ(エントロピー)を体現する素子にあり、ここで、押井守-山田正紀と士郎正宗との間に大きな齟齬があるのだろう。原作と似ても似つかない世界が生まれてくるのは当然なのだ。
余談になるが、攻殻機動隊2のこの結論というのはSFとして非常におもしろいと思う。ちょうどよい比較として、グレッグ・ベアが書いたスタートレック小説『コロナ』というのがあるのだが、ここでは、恒星生物が人間とのコミュニケーションをとおして得た結論が「生命の目的はエントロピーの増大に抵抗すること」となっていた。これはもう、スタートレック小説に登場させてしまうには惜しいくらい、非常にいい言葉なのである。これまでSFに描かれてきたテーマの大半をいい表してしまっている言葉なんじゃないかとさえ思う。
しかし士郎正宗は、それとはまったく逆の考え方を持っている。エントロピーを効率よく増大させることこそが生命の意義であり、進化とは、さらに効率のよいエントロピー増大装置を発明することなのだ。いやはや、これだけでも攻殻機動隊がSF史中の重要な位置を占める権利を持っているといえると思う。
しかし、この思想はちょっとエキゾチックすぎたんだろう。押井守と山田正紀には反対されてしまったということか。
でつまり、おもしろかったかというと、まあまあ。あの映画をちゃんと理解してノベライズを書いちゃったあたりは、山田正紀にしかできなかったことかもしれないと思う。たしかに『攻殻』のノベルではなく『イノセンス』のノベライズだったのだ。この点は評価するべきだろう。