2002.1.30 てらしま
オフサイドはなぜ反則なのか。
私の場合だが、少年時代に近所の公園でサッカーをやりながら、徐々にルールを憶えていったという時期がある。もちろん最初には「手を使ってはいけない」「ゴールにボールを入れたら1点」あたりを憶える。これはサッカーをサッカーたらしめている、サッカーのアイデンティティそのものといっていいルールなのであり、最初にこれがくるのは自然なことだろう。
その後、ゴールキーパーは手を使っていいのだとか、スローインとか、そういうルールに発展していく。こうした過程というのは、男の子ならば誰でも経験してきたことに違いない。
そしておそらく、その最後に憶えたルールが「オフサイド」だったのではないだろうか。
サッカー(本書でとりあげられているのはフットボール全般だが)は本能的なスポーツだ。野生を残していると言っても過言ではないと思う。そのルールの中にあって唯一、人造物の香り漂うのが、オフサイドである。ゴールに向かわなければならないのに前にボールを蹴ってはいけない。不自然。不条理。
子供心にこのルールを知ったとき。それまで持っていた幻想が崩され、純粋さが汚された気がした。「これが大人の世界か」と、苦い唾を吐き捨てたかもしれない。
オフサイドは確かに不条理なルールだ。なんらかの人間の意図が介在しているとしか思えない。
しかし、スポーツのルールはもともとすべて人間が作ったものなのだ。そこには当然、歴史があり意図があるはず。そうしたことが、少年ではなくなった今ならば理解できる。
よく知られているように、フットボールはイギリスで生まれた。
もともとは、一つの村が総出で行う祭りだった。村の北と南の端にゴールがあり、ボールを相手側のゴールに持っていった方が勝ち。ここでは手を使ってもいいし、馬や武器を使ってもよかった。
一点先取である。だから、どちらかがゴールに辿り着いてしまったらその時点でゲームは終了。しかしこのフットボールは、ゲームであると同時に祭りだった。その間は無礼講が許される、呑んだり喰ったり皆で騒ぐことができる時間なのである。
ゲームの終了は祭りの終了を意味した。すぐに終わってしまったら、それはつまらない。
得点が入りづらくするオフサイドというルールの源流には、祭りの時間を長引かせようとする当時の民衆の意図が反映されているのだ、と本書は主張する。
スポーツの背後には歴史があり、文化がある。そこから、フットボール全般にはオフサイドというルールが残された。それを自然と感じるか不条理と感じるかは、受けとる側の問題でしかなかった。
「サッカーは奇跡のスポーツだ」と村上龍が書いていた。サッカーは非常に得点の入りにくいスポーツである。だから、一つ一つの得点には奇跡の趣がある。
それもそのはず。フットボールの源流は、神に捧げる祭りだったのだから。意識されていたか否かはともかく、「フットボール祭り」に参加する民衆は、どこかで神の恵みと奇跡を求めてはいなかっただろうか。
ひとときでも日常を離れ、祭りに参加する民衆の思いは純粋なものだ。サッカーの純粋さは汚されてなどいない。むしろ過去の人々の思いを昇華し、偶然にしろ美しき「奇跡のスポーツ」となっている。
少年時代の私に、これを教えたい。彼は本書をどう受けとるだろうか。