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サンサーラ・ナーガ
 読書

サンサーラ・ナーガ
監督/原作:押井守 脚本/原作:伊藤和典 ビクター

2002.3.12 てらしま

 今さら、ゲームボーイアドバンス版をプレイした。いやまったく、本当に面白かった。
 もちろん、竜を育てるRPGである。
 主人公はHP150のまま成長せず竜だけが成長するとか、敵を倒したらそれを喰うとか、いろいろとヘンなシステムで話題になった。などはここに紹介する必要もない。
 主人公はある日、長老の宝だった竜の卵を盗み、村を出る。だがそれは、実はダチョウの卵だった!
 これがオープニング。システムだけでなく、ストーリーもだいぶヘンだ。
 それから、次々と現れるお使いイベントに奔走させられることになるのは普通のRPGと同じである。
 しかしここに、なぜか、どこか他のゲームとは違うプレイ感覚があった。
 これは一体なんだろう? と考えているうち、自分がこの主人公にかなり感情移入をしていることに気づいた。実のところ、これまでにプレイした他のゲームに、これほど共感した主人公はいなかったと思う。
 感情移入、であって、主人公=プレイヤーではないところが違う。ウィザードリィやドラクエ(初期)では、主人公は常に自分だった。ファイナルファンタジーなど、ストーリー性を重視とかなんとかがウリのゲームでは、主人公はストーリーを追うための存在で、感情移入の対象ではない(と思う)。
 言ってみれば、この両者の中間的な位置に、プレイヤーの心情が放りこまれてしまうのがサンサーラ・ナーガというゲームだという気がする。
 試しに、主人公が喋らないのがドラクエ、喋るのがFFとしてみると、サンサーラ・ナーガの主人公というのはちょっと微妙な位置にいることになる。基本的には喋らないのだが、ときどき、ストーリーの要所などで、ほんの一言だけ、喋るのである。
 プレイヤーの意図を離れて喋る以上、彼女(男女を選べるのだが、私は女性を選択した)は私ではなさそうだ。だがそのくせ、ふだん口を開かないときは私自身であるかのように振る舞う。
 かといって混乱するかといえばそんなこともないのである。
 竜を育てるゲームといいながら、なかなか卵は孵らない。孵ってからも、託児所に預けて餌を運んでやらねばならず、仲間になるまでにはけっこうな時間がかかる。
「めんどくさい」と感じながらこれをプレイするわけなのだが、このとき同時に持った感想は「竜使いって大変だなあ」。
 自分が大変なわけではないし、かといって他人ごとでもないのだが、プレイ中はこの感覚を自然に受け入れられていた。
 この微妙なバランスの出所はもう、監督の押井守に求めるしかない。考えてみると、押井守の映画というのはずっと、そうしたものを求めているようにも思う。
 常に一言足りないところでメッセージを終わらせ、冗談で笑って誤魔化してしまう。この方法論が意図するものは、「物語は観客のもの」とする信念ではないだろうか。
 映画の方では、これがやっと結実したのが『Avalon』だったと私は思う。しかし、私は知らなかったのだが、実はコンピュータゲームで、すでに実現の一つの形を見せていたわけだ。
 つまり、私のこのゲームに対する評価はそこまで高い。
 だが、『Avalon』は多くの人の賛同を得ることができなかった。押井守にしては誤魔化しをひかえ、かなりの真っ向勝負をしていたとは思うのだが、それでも「名作」とされるには舌足らずだったようだ。
 このサンサーラ・ナーガのストーリーにも、同じことがいえる。
 私は素晴らしいと思ったが、そうでない人がいても不思議ではないし、責められないと思う。
 そもそもである。人の宝物をかっぱらって竜使いになろうとする、アナーキズムにも似た主人公の行動に、動機はまったく与えられない。これはつまり、プレイヤーは、こんな彼女に初めから共感を覚える必要があるということ。社会的モラルをまっとうに備えた常識人には、なかなか難しいにちがいない。
 もっともゲームのことだから、必ずしもストーリーに注目する必要はないのだし、竜を育てるのが楽しいという立場があってもいい。しかし私が感動したのは竜使いのストーリーと、それをプレイヤーのものとすべく作られたシステムだった。虚構と現実の狭間にあるゲームというものの性質について、少し考えてしまいたくなる体験だったかもしれない。


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