2001.7.19 てらしま
始めに断っておきたいのだが、この作品は稀代の名作だ。本当にすばらしい小説なのである。これは私自身の見解として、こんなに面白い作品には滅多にお目にかかれるものではない。
「ライフキング」というゲームがある。子供たちはみなこのゲームに夢中になっていて、攻略法についての噂は、虚実ないまぜに、毎日全国の子供たちの間でやりとりされており、それが巨大なネットワークを構成している。
そこにいつか、一つの伝説が発生する。ライフキングは現実だ。世界は破滅へ向かっている。それに、大人たちは気づいていない。世界を救う鍵は、ゲームの中にある……。
物語は、虚実が定かでないその伝説を巡るものだ。
もちろん、話の下敷きにあるのは『ドラゴンクエスト』を筆頭とするファミコンブームである。あの時代、この物語はまさに現実のものだった。幻のエンディングも、裏技も、裏面も、ネットワークの内部にいた子供たちにとって、すべてが現実そのもので、人間の死や世界の行方などとも、そうしたことはまったく同等のレベルの話だった。
なにを隠そう、私もまさに、その時代に直撃する世代の人間である。だから、幸運にも、この本に描かれる世界のことは実感として理解できる。
そんな私にとってもこの本は面白い。しかし、だ。
理解できるからこそどこか、認めたくない、という妙な感覚があるのである。
「大人なんかに僕たちの気持ちはわからない」と言っては言い過ぎだが、それに似た感覚だ。
事実、私の目から見るとこの作者がどこか誤解している(なにを?というと難しいが、私たちの世代の感覚を、だろうか)ふしが見えるのだが、これも、私が無意識に、私にとっての「大人」である人間を拒絶しようとしているのかもしれない。
他人にあまり核心をつかれすぎると、それを受け入れづらいものだと思う。この小説で私が感じたものも、たぶんそれだろう。
この物語は私たちの物語なのである。
例えば、具体的な話の一つとして、「テレビゲームの是非」の問題がある。今でもそうだが、親たちはいつも、自分に理解できないテレビゲームの存在を悪と断じ続けてきた。
もちろん『ノーライフキング』でもこの話題はとりあげられている。ここでのいとうせいこうの意見はどうやら「テレビゲーム肯定」に傾いているようだ。それは終盤、いとうせいこう自身のドッペルゲンガーとおぼしき人物がとる行動から明らかである(少しわからないところもあるのだが)。
しかし、当事者である私たちは、ここに反感を持ってしまうのである。
少し大袈裟に言えば、テレビゲームは私たちの人生の一部だ。血の中に流れているヘモグロビンと同等の、今さら否定することは不可能な存在。それはつまり、あまり他人に是非を断じられたくはない種類のことなのである。
親の目を逃れ、一日に四時間以上もテレビゲームをやり続けた世代にとって、これは実に重大な問題だ。
だから、物語は今でも続いているはずなのだし、そこには少しでも結論めいたものがあってはならない。私たちテレビゲーム世代の、これは願いなのである。祈り、と言ったっていい。
「現代における通過儀礼の物語だ」とか、「都市伝説」がどうだとか、そういう言葉でこの小説を語ることはもちろん可能だろう。しかし、私はそれをやりたくないし、人にやってほしくもない。それがすばらしい作品であるほど、なおさらのこと。
もちろんいとうせいこうという作家にも、この物語を語らないでいてほしかった。それが矛盾に満ちたジレンマであるにせよ、だ。