2002.3.25 てらしま
これはたぶん私の性癖なので理由はわからないのだが、お茶を飲む場面が出てくると途端にその作品が面白そうに見えてくる。
誰かがお茶を煎れて、お茶菓子などを摘みながら仲間たちと歓談する。サボテンの生えた荒野のまん中で、たき火を囲んでコーヒーでもいいし、喫茶店でパフェをつつきながらでもいいわけだが、とにかくなぜか、そんなシーンに弱い。
映画で、ショーン・コネりーの顔が出てくるだけで画面が引き締まる気がするというのと、似たようなものだろうか。サッカーなら、ロベルト・バッジォがボールを持っただけでなにかを期待してしまう、というようなものである。そういうファンタジーアに似たものを、「お茶を飲む場面」に感じてしまうのである。
この小説にも、そうした場面が出てくる。
幼なじみの超美形騎士サマに振り向いてほしい主人公は、「キレイになるっ!」ために魔法美容師のもとにおしかけ、弟子になる。そういう話なのだが、この師匠がなぜか十歳の眼鏡っ娘にしか見えない容姿をしていて、十時と三時にお茶を飲むのが習慣なのである。主人公は毎日、お茶を煎れ、スコーンを焼いてこの相手をしなければならないのだ。
これがなかったら、私はこの本を読んだかどうか……。
あらすじを見てしまうといかにもアレな感じなのだが、私のどーでもいいフェティシズムのことはおいても、小説自体はとても面白かった。
なにより、テンポのいい文章がいい。 文字の大きさや太さもしょっちゅうかわるし、なんというか、変なこだわりは感じられない文章だ。
基本的に全編が、元気な十六歳の女の子である主人公を追う視点で語られる。言わずもがなの心理描写などはあまりなく、小気味よく話が進んでいくので、ストレスなくページをめくれる。
主人公は幼なじみに振り向いてもらいたいという一心で、本当にそれしか考えていない。ところが彼の方はどうも感情が希薄な人物で、想いはなかなか通じない。師匠はどうやら本当に凄い魔法使いだけど、守銭奴で……。
と、主人公をとりまく状況も、すべてがわかりやすい。
ふつーに魔法があり、魔法使いは街にいる。そういう世界なのだが、話に登場するのはなぜか、「魔法美容師」と呼ばれる魔法使いばかり。世界観はあまり細部までは語られず、どこか大ざっぱなまま。しかしそれで充分だし、あまりまじめにやられても、こちらが白けてしまうだろう。
気楽で、テンポよく、わかりやすい。それが命。エンターテイメントなのだから、こんなに大事なこともないと思うのである。そこにもう一つ、自分にヒットするものがあればもっと楽しめる。私の場合はそれが、お茶のシーンだったと。