ちかごろ、twitterや各所のブログでよくとりあげられている話題だ。
発端はこのへん。
タイトルは運ゲーの話っぽいが、じつのところそうじゃないだろう。
我々ボードゲーマーが好きなアレとかアレとかを、自分の周囲の誰かに奨めたとき、あまり気に入ってもらえなかった。あるいは、自分の周囲の誰かとゲームすることを考えたとき、UNOとか桃太郎電鉄とかならできそうだけどプエルトリコはできないだろう。そういう話だと思う。
で、他にもいろんなブログで、そんな話題がとりあげられている。
ブロガーのこういうのは流行なので、わたしもできるだけ乗ることにしている(笑)。
とはいえ、なにを書いたものかな。
運ゲーの話じゃないと書いたけど。マニアが好むゲームとマニア以外が好むゲームに傾向があるのなら、それはそれで興味深いわけで。
「一般人は運ゲーが好きだ」
これはよくいわれることだ。そしてじっさいそんな気もする。
でも本当だろうか?
これを語るにはまず、運ゲーを定義しなければならないが……、これがじつは難しい。
わたしがよく引き合いに出すのが、サンファンとプエルトリコだ。
サンファンは、プエルトリコをカードゲームにしたというゲーム。これが出た当初、プエルトリコのファンたちの一部は、サンファンを「運ゲーだ」といった。
さてしかし、ここにひとつのデータがある。オンラインでさまざまなボードゲームを遊べるサイト、 BrettspielWelt のランキングだ。
ここで、プレイヤー人数4人の場合の、サンファンとプエルトリコのランキング上位を見てみよう。すると奇妙なことがわかる。
プエルトリコのランキング1位は、勝率70%弱(すばらしい成績だ)、しかし、運ゲーのはずのサンファンの上位は、勝率80%だ。
(2011年8月11日現在)
運ゲーじゃないじゃん!?
そう、じつはサンファンは運ゲーではない。むしろ、プエルトリコよりも強く腕の差が出るゲームだ。
理由はある。
サイコロを振る、カードを山から引く、などの行為は、たしかに運がからむ。だから、こうした要素があると運ゲー指数が上がる。一般的に。
しかし、ゲームには別の要素がある。「他のプレイヤーの行動」だ。
こういう話はもう何度もこのサイトに書いているけど。
サイコロと同じく、他のプレイヤーの行動もゲームに影響を与える。他のプレイヤーの何気ない一手が、あなたを敗北させるかもしれない。
そして、サイコロと同じく予想できない。相手の目的や性格を考慮しないなら、他のプレイヤーは、サイコロとまったく同じランダムだ。
いわゆる「運のないゲーム」は、運の代わりに、いわゆるインタラクションに依存している。インタラクションへの依存度が高ければ、それはつまり、運に左右されるゲームに他ならない。
「運のない」ゲームは、サイコロやカードの引きなどの「運」をシステムが用意してくれていない。つまり、すべてをインタラクションに依存している。
インタラクションは運と同等だ。だから、インタラクションに依存すれば運ゲーよりも運ゲーになるのである。
わりと論理的に。プエルトリコは、サンファンよりも運ゲーだ。
と、そのへんの細かい話はともかく。
ここでは「運ゲー」という言葉をあえて「運で勝敗が左右されるゲーム」という意味でつかった。しかしそうではないのだ。現に、その定義では上のデータを説明できない。
一般にいわれる「運ゲー」は「運で勝敗が左右されるゲーム」ではない。
などの話があるのだけどここでいいたいのは、運ゲーの定義が難しいということ。かなり大きな幅がありうるということ。
なので、その話はおいておこうか。ここまで書いといてなんだけど。
別の方向からやりなおす。
流行ってなんだろう。人気ってなんだろう。
わたしとしてはこれは、ごく単純に「市場規模」についての話でいいと思っている。市場規模が拡がっている間は流行、である。
さて、ボードゲームの市場規模はいま拡がっている。流行しているのだ。といったらまた話が終わってしまうのだけど。
市場のモデルを考える。
ここでは『「ヒットする」のゲームデザイン』という本から話を引こう。
この本、もちろんコンピュータゲームの本なのだけど、分析的な語りっぷりがけっこうおもしろい(ちょっとデータが足りず、語りが先行してるきらいはあるが)。
この本に書かれているいくつかのモデルのひとつ。世界最大のゲームパブリッシャーである Electric Arts が採用してるモデルのひとつだということなのだけど。
コンピュータゲームのユーザを、3つに分ける。
ハードコアゲーマーは、いわゆるオタク。さまざまな情報を積極的に収集し、数は少ないが、一人一人が大量のゲームを買う。
クールゲーマーの多くはハードコアゲーマーの友人を持ち、情報に触れる機会を持っている。
マスマーケットカジュアルゲーマーは、この中でもっとも多いが、もっともゲームを知らない。クールゲーマーやテレビCMでゲームを知り、いま一番人気のゲームを買う。
このモデルでは、新しいゲームにまず触れるのはハードコアゲーマーだ。彼らが最初の伝道師となってより大きな市場にゲームを布教していく。
ゲームはそこから、クールゲーマー、マスマーケットカジュアルゲーマーと伝播していく。
まあこの本稿はボードゲームの話なので、大流行したボードゲームにあてはめてみると。
日本でドミニオンにまず触れたのは、個人輸入やメビウス便でゲームを買っている連中。彼らは間違いなくハードコアゲーマーだ。
彼らがブログなどで、これはおもしろいと大騒ぎした。
次に、彼らの友人がプレイした。当然だ、ボードゲームは複数人で遊ぶものだから。おそらくは、ハードコアゲーマーの自宅や各地のゲーム会でだろう。そしてハマった。買った人たちも多くいる。この段階が、クールゲーマーまで拡がったところ。
その後、それこそどこへいってもドミニオンがある状態になった。日本語版が発売され、普段それほどゲームを買わないプレイヤーがドミニオンを買った。ボードゲームの世界を知らなかったプレイヤーがドミニオン大会に顔を出すようになった。マスマーケットカジュアルゲーマーに拡がったのだ。
まあとりあえず、おおむね、上のモデルにしたがって動いたのではないか。
(マスマーケットへの抜け道としてTCGプレイヤーがいたり、少し特殊な要因はありそうな気もするけど)
モデルがどこまで正しいかは知らないが、とりあえず、一つのケースをそれなりに表現できたような気がする。
では、この現象を「引き起こす」ために必要な活動とはなんだったか。なにがこの現象を引き起こしたのか。
わたしの考えとしては。
「日本で最初にドミニオンをプレイしたプレイヤーがtwitterでつぶやいた一言」でもなければ「ドミニオンなんてつまらないといって炎上したブログ」でもない。ましてや、ゲームマーケットで販売されたドミニオン攻略本でもない。
たしかに、ハードコアゲーマーはゲーム普及のためのエヴァンジェリストとして機能するだろう。ドミニオンの場合は、現に機能したように見える。
しかし、どのハードコアゲーマーのどの活動が決定的だったか? どれもユーザを増やしたが、どの一つがなくてもユーザは増えたのではないか。
市場はマクロな現象だ。
「いや、ホビージャパンの日本語化は大きかった」そういう意見もあるだろう。たしかにそうだ。しかし、ホビージャパンがやらなければ他の誰かがやったのではないか。なにしろ、それだけのユーザがいるのだから。
流行するものは、それ自体の力で流行する。
市場というものを、わたしはそういう風にとらえている。
だから、ドミニオンが流行した理由は、
「ドミニオンに力があったから」
だ。
このモデルでいうと「運ゲーが好き」「おもしろいゲームを知らない」プレイヤーは、カジュアルゲーマー。だが、ドミニオンは予想以上に、彼らにも届いた。
じつのところけっこう複雑なゲームなのだけど。あとドミニオンは、ある程度までのレベルでは、経験が多いプレイヤーの勝率が絶対的に高い。経験に差があるなら、ほぼ100%経験者のほうが勝つといってもいい。「運ゲー」かというと、けっこうなグレーゾーンだ。
わたしは、一般人が戦略的なゲームを好まないというのは違うと思っている。また、マニアたちの布教次第でもない。パブリッシャーの生産部数などはさすがに要因の一つとなりうるが、それも、市場の圧力で達成されてしまうことだ。
流行はマクロな現象であり、個人の力は及ばない。流行する要因はゲーム自体の中にしかないのではないのか。
ようするにいいたいのはこれなんだけど。
布教しようとか、そんなことは考えなくてもいいと思っている。ドミニオンは、我々の布教などまったく関係なく、ボードゲーマーが一人もいないトレーディングカードゲーム会場で遊ばれていた。
また例えば、ゲームを知らないが数の多いマスマーケットカジュアルゲーマーにアピールするゲームとして「運ゲー」を選ぶようなことが、あったとしたら、それは少しリスクの高い方法論なのではないか。
たしかに彼らは運ゲーを好むかもしれない、そうなのだとしても、エヴァンジェリストであるハードコアゲーマーを介さずに大きく伝播させるのは難しいのではないか。少なくともドミニオンの例にならうのならば。
大きな話でいうならば、そういうところなのではないか。
個々人の状況や感情の話がこれとは別にあるのはもちろんだし、そっちが本題ならば、この記事はずいぶんと的の外れたことだけど(笑)。
「流行しないワケ」という表題だった。
わたしの答えは「流行できるゲームなら流行する」だ。