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マリア様がみてる シリーズ
 読書

マリア様がみてる シリーズ
今野緒雪 集英社 コバルト文庫

2002.1.24 てらしま

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 実はものすごく感化されやすい性格だ。
 一つの作品にはまりこむと、その世界のことしか考えられなくなってしまう。こういうときというのは、自転車をこいでいて目の前にあるものが見えていなかったりするので、非常に危険だ。
 こうなる条件というのに作品の善し悪しが関わっているのかどうかというのはわからない。ただ少しも見るところのない作品に対してはまりこんでしまうことはないだろうと思ってはいる。
 この『マリア様がみてる』シリーズで、久しぶりにそういう状態に陥った。
 読み慣れない少女小説である。私は男なのだから、照れもある。だから始めは「たかが少女小説」と読み飛ばしていた。それが次第に「まあ僕はわりと好きだけど」になり、「おもしろいかもしれない」になった。そもそも、一日1冊を超えるペースで立て続けに9冊を読んだのだから、今さら言い逃れをしても無駄なのではある。
 少女小説である。それも、なにやら怪しげな隠語で「百合系」と呼ばれる世界だ。もっとも、百合だろうが薔薇だろうが、作品のおもしろさを決める上では関係ないのだなとは、このシリーズを読み進むうちに感じた。
 私立リリアン女学園という女子高がある。カトリックのお嬢さま学校で、女子校だから女の子しかいない。
 学園には「姉妹(フランス語を使って「スール」と読む)」という制度がある。上級生が下級生を一人指名し、姉として指導する、という制度だ。
「山百合会」と呼ばれる生徒会の幹部3人はそれぞれ「紅薔薇さま」「黄薔薇さま」「白薔薇さま」と呼ばれている。ちなみにそれぞれの読み方は「ロサ・キネンシス」、「ロサ・フェテイダ」、「ロサ・ギガンティア」だ。彼女たちの妹は特別に「薔薇のつぼみ」と呼ばれる。基本的に、つぼみは次期「薔薇さま」というワケである。
 で、主人公の祐巳は、学園祭も近づいたある日、ひょんなことから憧れの「紅薔薇のつぼみ(ちなみに「ロサ・キネンシス・アン・プウトン」と読む)」、小笠原祥子さまの妹になる。その顛末が第1巻。
 その先はいろいろな事件が起こったり起こらなかったりで、一巻につき一月ずつ時間が進んでいく。第1巻が10月の学園祭で、第7巻目となる最新刊では年度が明けて4月。主人公は2年生になり、薔薇さまたちは卒業して、つぼみたちがその後を継いだことになる。
 基本的にはスラップスティック。だがふざけてばかりというわけでもない。おちゃらけていたかと思えばまじめな話をし、まじめかと思えばふざける。このリズムとバランスが、私の好みに合っていた。
 このあたりはそれこそ好み次第だと思う。たまたま私が、この作品を読む上で幸運な星のもとに生まれたということだろう。だからそうでない人もいるかもしれない。
 まあそのおかげで、私はこの世界に入りこむことができた。
 主にはキャラクターの感情や成長を中心とした話だ。だから、ストーリーや設定といった要素は引き立て役でしかない。
 女子校という極めて特殊な環境と、それを日常として暮らす少女たち。「姉妹」や「薔薇さま」という仰々しい用語は、この特殊さを再認識するための小道具でしかなく、少女たちはこのデフォルメされた世界の中、憧れや友情を感じながら生活するのである。
 そして、それをあたたかく見守る「マリアさま」。
 実際、学校というのはひどく特殊な環境なのだと思う。そこでしか着ない制服を着て、同じ学校の生徒同士としかコミュニケーションがない。数百人から、最近ではせいぜい千人程度の人間が形成する、極めて小さく密度の濃い文化。だからそこでは、恐ろしく異形の進化を遂げた、有袋類のような社会が形成されていて不思議ではないのだ。
 そう考えると、『マリア様がみてる』の世界観というのは少しも異常とは思えなくなってくる。
 実際、初めのうちこそ、この設定から導き出される話を中心にしていたものの、次第にキャラクター対キャラクター、人間対人間の物語へと比重が遷っていき、一つの大きな節目となる卒業式『いとしき歳月』ではもはや、お嬢様学校の特殊さは少しも意識せずに読んだ。たぶん、ここから先のシリーズは彼女たちキャラクターがいるだけで支えていけるだろう。
 つまりなにが言いたいかといえば、確かにこの舞台設定は面白いが、しかしこれだけで話をするには、学校というのはもともとが特殊すぎる。この作品の面白さは設定の特殊さのみにあるのではなく、むしろそれ以外の、キャラクターやそれを描写するテンポのよい文章や、(おそらく思想や)そういうものの中にあるわけなのだ。
 ところで。
 女性の書く作品というのは、男性のものとは依って立っている論理学が違うのではないかと思うことがある。
 基本的に人間関係に話の中心がある、ということがひとつ。これは女流小説の大きな特徴だろうと私は考えている。
 そのためなのかどうか、男性よりも容赦がない。「うわあ、そこまでやるんだ」というところまで主人公が追いつめられてしまうのが、(少女小説、少女マンガを含む)女流の特徴だ。
 その裏返しで、女性の描く作品世界では、幸せなときというのはとても幸せそうなのである。
 男の世界がいつもどこか満たされず、アンドロメダ星雲を目指して旅立ってしまいがちなのとは、対照的と言えなくもない。
 主人公の周囲で時間は否応なく流れ、次々と変化は襲ってくるのだが(この変化というのも男性の世界では積極的に描かれないことが多い)、その中に幸せを見いだして生きていく主人公、というのは、実は女性の専売特許ではないだろうか。「明日は明日の風が吹く」のである。
 だから私は、半ば妄想気味にこう思うことにしている。
 きっと女性というのは、幸せの意味というのを知っているのだ。たぶん我々男性よりもずっと確かに。だからこのような作品を書けるのだろう。
 もっとも、女流だったらすべてがいいのではない。きちんと幸せを描ける作家というのは、そう多くいるわけでもないはずだ。
 変化を描き、その中で生きる主人公を描き、そこに幸せを見いだす。きわめて特殊な「学園」という題材は、とりあえず、このテーマのためにはとてもいい。


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