2001.12.17 てらしま
喫茶店でバイトしながら大学に通う主人公。その喫茶店には美しいアンドロイドのウェイトレスがいるのだが、まあこれには「まほろさん」あたりをイメージすればいいのだろう(事実、作者の頭にもあれがあったのに違いない、と私は想像している)。だがもう少し、上品で落ちついた世界観ではある。
近頃マンガや小説をも席巻している、美少女ゲームみたいな世界観を想像していたのだが、そうでもなくて安心(?)した。登場する「美少女」的キャラクターはアンドロイドのウェイトレスだけで、主人公が理不尽にモテモテ、ということでもない。
公園や学校には清掃ロボットがいたりと、普通にロボットが存在している世界のようだ。ウェイトレスロボットはそのうちの一つで、はっきりとは語られていないが、どうやら販売されているらしい。普段は閑散として、客がほとんどいない喫茶店でも買うことができるのだから、すでにかなり普及している。
しかし、このロボットたちがいかにして社会に受け入れられていったかとか二足歩行の困難さとか、そういう問題には触れず、唯一SF的な話題で登場したのは「フレーム問題」だけだった。つまり、ロボットというよりもその頭脳であるAIの方が主題なのだ。
ほのぼのとした青春モノを目指した、という雰囲気は伝わってくる。そこにAIが登場するということは、主人公がAIが持つ純粋な精神に触れることで、自分の本当の気持ちに気づくとかなんとか、そういう効果を狙ったものなのだろう。
『2010年』のHAL9000のセリフ「私も夢を見ますか?」には感動を禁じ得なかった。それは、SFに登場するAIは人間が一から作り上げたものであり、俗世間の垢にまみれていない純粋な存在として描かれることが多いためだ。
現実に登場したとき、AIが本当にそうした性質を持っているかどうかはわからない。しかしともかく、物語ではこういう使い方をされるし、そうしなければAIが登場する意味は半減してしまうだろう。
そんなことを三雲岳人が考えたのかどうかはわからない。「ヒューゴー賞を穫りたい」と言ってしまった作家のこと、それくらいのことは計算したかもしれない。いかにも世俗的な、近年の流行におもねったかのような素材をあえて選んでみる、この挑戦の姿勢は買えるかも。