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屍鬼
 読書

屍鬼
小野不由美 新潮社

2001.11.21 てらしま

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 長かった。とにかく一番の感想がそれだ、というのもあんまりだとは思うけど、三千枚というボリュームは思っていた以上にすごかったのだ。それに私は、「長い」という、それ自体にも価値はあると思っている。
 三千枚といったら、普通の文庫本にしたら六~七冊分ほどだろうか。ライトノベルの文庫なら十冊分になるかもしれない。
 それだけの長さを使えば、たとえば十二国記なら一巻から四巻くらいまでの話がすっぽりと収まるわけで、これはもう長大な大河ファンタジーがひとつやれてしまう長さなのである。ある国に王子が生まれ、やがて王が崩御し、その機に乗じて叛乱を企てようとする重臣の陰謀を退けつつ外部から音もなく迫る脅威にも備えを固め、麗しい姫にも出会い、最後には近隣諸国を統一する、とこれくらいの話はできる長さだ。
 ところがこの本は、そうやって引き延ばすのではなく、話そのものは複雑なものを用意せずに、翻ってその細部をとことん描いていく。
 人工千三百人ほどという山間の外場村に、ある時から死が蔓延し始める。始めは誰にも気づかれず、次第次第に被害は拡大していく。それをなんとか食いとめようとする、医者の敏夫と僧侶の静信は、村で起こっていることの背後に言い伝えの「鬼」を垣間見る。
 とこうしてあらすじを紹介しても、この本に対してはあまり意味がないという気がする。なにしろ登場人物はたぶん百人以上もいて、そのそれぞれが、細かく構築された村の人間関係の中を動き回るのだ。筋に関係ないと言って彼らの存在を切り捨てることはできないのだし、そうしてしまってはこの本の真価を捨てることにもなる。
 重要なのは筋よりもこの世界を体感すること、そして「読む」という行為そのものなのではないだろうか。
 一つ一つのことがらから目を逸らすことなく枚数をかけ、構築されたリアリティは大したもの。実際に外場という村がどこかに存在したとしても読者は誰も驚かないだろう。
 一方、普通は小説では気にしないようなリアリティまで、これだけの枚数の中では浮き彫りになってしまう。たとえば村のどこかで人が死に、その葬式があったからといって、どれだけの村人がそれを気にしているだろう。普通の小説では、その程度のことは都合よく処理されてしまうのだろうが、この本ではそうはいかない。
 とっとと敵の存在に気づいて、さあ戦おう、となってしまうのが並の小説だろう。だがこの本では、敵はいるのかいないのか、一体なにが起こっているのか、わからないまま死人だけが増えていく描写が、まあなんとも長々と続く。
 誰がなにを知っていて、なにを思い、考えているのか。そこがなければこの話は成立しない。そうやって、登場人物の一人一人がおざなりにされることなく描かれていく。
 そのための問題点もある。誰が誰なのか、多すぎてときどき混乱してしまうこともその一つだし、登場するすべての村人の心情に納得のいく描写が割り振られたわけでもない。
 普通は物語のご都合主義の中に顕れてこない問題までが、この本では表出してしまっているのだと思う。
 この過程は、3DCGのリアリティを追求しているうちに視覚や認知の不思議に行きあたる、情報科学の問題に似ている。問題をごまかして創られたバーチャルアイドルの表情には虚ろな違和感がつきまとうが、この本ではそこをごまかそうとしない。
 たくさんの登場人物を、誰も見捨てずに絡み合いながら動かす中では、テンポよい痛快な活劇は望めない。小説という表現形態には限界もあるだろう。バーチャルアイドルの虚ろさが垣間見える瞬間も、中にはある。
 そうした問題点は確かにあるだろう。だが、そうならそれも仕方がないのではないかと思わせるだけの迫力もまたあるのだ。
 いわばこれは物語というよりも、外場という一つのバーチャル村を舞台とした、シミュレーションだ。そしてなおこの小説に物語性を感じるとしたら、それはきっと読者が自身の目で外場村を眺め、綴った物語なのではないだろうか。
 三千枚は長い。だがそれで村のすべてが描き出せるはずもない。そこをうやむやにしてよしとはせず、完成できないことがわかりながらも足掻いてみせた、小野不由美という作家にとってこの小説は、どんな意味を持っていたのか、そんな余計なことまで考えてしまいながら、ともかく面白くなければ読めない長さだった。


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