2001.8.21 てらしま
小松左京を中心として、上の3人が対談をしている本。今回はとりあえず生命、文明、文化の話で、ゆくゆくはエネルギー問題、宇宙の話と続けていくつもりらしい。
タイトルにあるとおり、小松左京の持っている真の教養というものを対談を通して紹介しようという趣旨。いろいろな話に発展するのだけど、世間一般で認められている常識というものはそれほど確固としたものではないのだよ、というような話が主といえば主かなあ。
一つ紹介すると、「進化」の対義語はなにかという話で、一般には「退化」だと思われているけど実は違う、というものがある。退化というのは蛇の足がなくなっていったみたいなもののことをいうのであって、これは立派な適応。つまり進化の一形態のことだから、対義語というのとは全然違う。じゃあ対義語はなにか。進化というのは生命の種が増えることだ。だったらそれが減るのはなにかといったら、それは「絶滅」なのだ。言われてみると、確かにそれはその通りだなあ、と思うじゃないか。
つまりそういうのが教養というものだ、という話で、目から鱗とでもいおうか、なんとなくSFモノには居心地のいい思想が語られていく。
特に最終章、小松左京の究極のテーマとして「宇宙は物語を語るか」というものがある、という話を始めたあたりからは、一人の人間の信念と思想を語ったものとして、感動的ですらある。
高千穂遙が「人類はもうだめだ」みたいなことを言うと、それを「けしからん」と叱るという場面が何度か繰り返されるのだけど、そういう小松左京の前向きさ加減というのはクラークにも通じるもので、さらに脳天気にそれをやるとソウヤーの人間原理になる。まあこの本に言わせると、あのへんにはキリスト教思想が入っているからなあということになる。確かに、支配思想のない日本人だからこそ持てる平等な考え方というものがあると私は思うのだが、小松左京という人はそれを理想的な形で体現しているひとなんじゃないだろうか。
そういう、フォローすべき人物の考え方がわりとわかりやすく読めるという意味で、この本は面白いのだ。
ただ一つ、ごく個人的な不満がある。ここで書かれていることというのはたしかに本当の教養についてのことだろう。私自身はなにしろ、書かれていることがいちいちもっとも、と納得してしまった次第である。しかし、これらのことは同時に、SFがずっと訴え続けてきたところでもあるはずだ。
ならば、なぜこの本のタイトルは『教養』なのか。対談をしている人たちだってSFモノなのだから、ここは自信を持って『SF』となっていてほしかった。
もちろん、それではSFアウトサイダーたちにも訴える内容となりにくいし、その前に手にとってもらえないだろうという実状もあるワケで、本当はこの題名で仕方がないのだろうとは思う。だがそういういろいろなものをさっぴいた理想論として、小松左京の本心では『教養』は『SF』と読み替えられていてほしい、と思ってしまうのだ。