遊星ゲームズ
FrontPage | RSS


猫の地球儀
 読書

猫の地球儀
秋山瑞人 電撃文庫

2001.5.29 てらしま

amazon
 面白くはあった。
 なんだかそんな、歯にもののはさまったような物言いをしたくなる、面白さであった。
『トルク』と呼ばれる世界がある。これはどうやら、『地球儀』という惑星の軌道上に浮かぶ、円筒型スペースコロニーであるらしい。
『トルク』は、大昔に天使たちが造った。だが今、そこに住んでいるのは、猫たちである。猫たちは言葉も話せるし、それなりに社会も持って、このコロニーに暮らしている。そんな、メルヘンチックであったり未来SFであったりする、混乱してしまう世界だ。
 だがこのギャップ感覚が、心地よい。
『スカイウォーカー』と呼ばれる猫がいる。どうもこの『スカイウォーカー』、自分で宇宙船を造って、地球儀に行こうとしているらしい。しかし『大集会』にとっては、地球儀は死んだ魂の行く先であり、生きたままそこへ行こうとすることは異端となる。
 それで、大集会が派遣した『宣教部隊』に命を狙われることとなってしまう。
 だがそれでもスカイウォーカーは、地球儀へ行ってみたいのである。
 こうして大まかにあらすじを書いていても目が回ってきそうな、めくるめく設定である。だが、ことはこれだけにとどまらない。
『スパイラルダイブ』という、格闘技がある。これはなんと、猫がロボットを操って互いに戦うというものである。もちろん命を落とすことも多い、危険な格闘技だ。この競技のチャンピオンが、前述のスカイウォーカーに出会って……、という物語に発展していく。
 くらくらしてくる。どきどきしてくるではないか。どうしたって、期待したくなってしまうではないか。
 だから、ひょっとしたら私は、このめくるめく世界に期待をかけすぎたのではないかと思う。
 何か拍子抜けしたような、食い足りないような、困った読後感が残ってしまったのである。
 これはどうしたことだろう。
「多すぎる設定が、消化しきれていない」などと、知った風な言い方でも、まあ的を外してはいまいと思う。だが私が納得できない。
 何かもう少し、納得できる原因があるのではないかと思う。
 そんなことをいろいろと考えながら、ぱらぱらと読み返してみて、思い当たったことがある。
 例えばである。スカイウォーカーが「地球儀に行ってみたい」と言ったとき、我々SFファンであれば、なんの説明もなくとも、彼の気持ちは納得できてしまうだろう。
 同じことで、剣豪小説や少年漫画の文化に親しんだ我々だから、スパイラルダイバーが「俺より強い奴に会いにいく」というようなことを言ったとき、これもすんなり納得できてしまうのである。
 だが、そうでない人だっているのではないのか。
 登場するのは猫たちばかりである。猫たちは当たり前のように言葉を話し、当たり前のように生活している。これは私には、それほど違和感なく納得できた。だが、中には「なんで猫?」という疑問を抱く人だっているのではないのか?
 考えてみると、一事が万事、そんな調子なのである。
 読んでいるこちらが「認めない」とひとこと言った途端に、すべてが台無しになってしまうような、そんな危うさの上に物語全体が乗っているのである。
 だから、読み終わってもどこか納得がいかない。それは、自分が感じた感動が、すべて自分の内側に発生したもので、本に与えられたものではないような気がして、どこか醒めた気分のまま読み終わってしまうためである。
 しかし、とはいえ、私自身が楽しんだのは事実だ。
 結局、「面白くはあった」と言うしかないわけなのである。


.コメント

猫の地球儀を