2004.8.5 てらしま
そういえば、というか自分で信じられないのだが、3巻をまだ読んでいなかったのである。2000年に発行され、今に至っても続刊が発表されていない(2巻から3巻の間にも8年ほど間があった)、当時そのことがすでに予想されたということが一つ。しかしそれ以上に、あまりにスケールの大きい話だけに、こちらが身構えてしまうというか、全身全霊でそういう気分になったときでないと読めないという気分があった。
ずいぶん時間がかかった。その間にわたしは、少女小説にはまったりホームページを作ったりといろいろな嗜好の変化を経験してきたわけなのだが、けっきょく、わたしという人間は小松左京を大きな原体験として生まれてきたのだと再認識した。
この上もなくスケールの大きな話である。この巻になって、話がついに、具体的に宇宙全体にまで及んできた。
スケールの大きい話というのはそれだけで魅力的だ。だが、スケールの大きさというのはただ単に宇宙船の大きさが1キロメートルだとかカメハメ波一発で地球を吹き飛ばせるとか、言葉で書いても表現できるものではない。人間の描写から始まり、人間が一つ一つ宇宙を見ていくことでしか表現できないと思う。
まあこの『虚無回廊』、登場する宇宙船のスケールは光年単位なのだが、そういう意味ではない。1巻の、人工知能、宇宙船の開発に関わる人間たちの描写に始まり、そうした人々の力がようやく宇宙に届いて、初めてこの物語が始まる、そういうものが必要だと思うのだ。
そういう意味で、わたしが知るもっとも大きなスケールの話の一つが、この『虚無回廊』である。
ちなみに、わたしの中でこれと双璧をなすのが『ファイブスター物語』だ。手法、メディア、表現の違いこそあれ、宇宙そのものを正面から描こうとしている姿勢には共通するものがある。
どちらも、話としておもしろいかというと微妙、だが一つ一つの描写の迫力だけでもうおもしろい。
ただ、描かれている描写のレベルはさすがに違う。特にこうした宇宙モノでは無視されてしまいがちな相対論や量子論など物理法則の制約からも逃げていない『虚無回廊』の方が、数歩上にいるのは確かだ。でもどちらも好きである。
宇宙を描くことは人間を描くことである。つまり、人間を描くことで宇宙を描くことができる。この東洋的な考え方が、しかしわたしのような日本人SFファンには真理と思える。
普通の話では、この問題からは目を背けている。当然だ、そんなことをいい始めたらきりがない。際限なく拡がっていく話を一つ一つ、文章をタイプするという地道な作業で表現していかなければならない。一人の人間のライフワーク、であることを要求されるタイプの話である。
いや、たぶん、ファイブスター物語にしても虚無回廊にしても、作者が生きている間に完結できるとは思えない。そういう話だからこそ、多少(大きな)瑕疵が見えたとしても、読者は「読まなければならない」と思ってしまう。
わたしにとってはまさに『虚無回廊』は読まなければならない物語だ。人間が読まなければならない物語、に近いところにあるとさえ思う。