2003.8.31 てらしま
既刊の評
Kishin-姫神-Ⅰ・Ⅱ
Kishin-姫神-Ⅲ
3巻から顕著に現れてきたことなのだが、キャラクターがみんな「自分らしくない」行動をとるのである。しかも、みんなそれを自覚している。まあ重要なところでそれをやるなら見せ場にもなるんだろうが、そればっかりやられてしまうと、嫌いな言葉だが、キャラが立たない。
登場人物が多いこともあり、そのあたりが最大の弱点だと思うわけだが、つまりキャラクターものと思わなければわりと好きな話なのだ。
日巫女が作った神の世を人の手に渡すという話である。それを、日本にやっと起こり始めた国を統一して大和国を起こすという、まあ歴史になぞらえて見せる。主人公の台与(トヤ)は人として最初の王になるべき存在というわけで、史料に残る事実に精神世界の出来事をなぞらえるやりかたは、読者として嫌いではない。
そういう方面の描写は、シリーズを通してけっこう面白かった。存在するのかどうか現代人の我々には怪しいが、神代に生きる当時の人々には現実だったという位置づけになる神々の超能力だが、そういうものにもわりと存在感があり、まあありえないんだけどありそうと思わせる一線の中を越えていない。
神々とはいうが、彼らはけっきょく人として描かれている。それこそがこのシリーズの要点だ。
でも神さまなので、登場人物たちは山海の自然とつながっていかなければならない。古代日本の国土風景は登場人物が立つ場所というだけではなく、彼らそのものでもなければならない。おそらく、そういうあいまいさを目指した小説だったはずである。
だから、キャラクターの行動は物語と切り離して考えられるものではない。そのキャラクターが立っていないというのは致命的といえる。特にね、最終巻で重要な役割を演ずる多紀理などはいけない。神さまにはとても見えないふつーの女性だし、感情移入が一番できない人だった。
そういう登場人物が多く登場してしまうわけで、つまり弱点が大きいわけで、文句なく面白いということはちょっとできないんだが「古事記の世界を題材とした伝奇ファンタジー」というものの魅力に支えられているという感じだろうか。けっきょく私はこの言葉に引っぱられて5冊買ったわけだし。
最後まで、読む価値がないと思わせてしまうラインは越えなかった。ここは評価すべき点。たくさんの登場人物を出しながら、曖昧な精神世界と史実を重ねて見せなければならない、もとより難しいスタイルへの挑戦である。これを成し遂げてしまえる作家というのは、私は何人も思いつけない。
正確にスタージョンの法則(世の作品の9割はクズである)をなぞっていると思われるヤングアダルト文庫の世界では、「当たり」に分類していい。それはたしかだよ、うん。けっきょく私は楽しんだし、神代と人の世の狭間という世界は魅力的だった。描かれない部分を想像で補うことはできるし、それをさせるくらいの喚起力はあったわけだ。