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QED 百人一首の呪
 読書

QED 百人一首の呪
高田崇史 講談社ノベルス

2001.12.11 てらしま

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 大上段に構えたタイトルが以前から気になっていた。こんなタイトルのミステリを書け、と言われたら、私なら逃げ出す。
 よほどの意欲作なのか、と期待して読んでみたのだが、どうも肩すかしを喰ったようだ。タイトル『QED』から当然想起される、鮮やかな謎解きの部分はそれほど重要ではなく、百人一首にこめられた謎と怨念を解き明かす話の方が重心に近いようなのだ。
 私はミステリのジャンル内にいる人間ではない。そういう立場から、いろいろと言いたいことがある。
 そもそもミステリというのはどこが面白いのか。いや、私だって、ミステリを読んで満足することはあるのだし、面白さが理解できない、ということではない。しかしときどき、部外者には踏みこむことができなそうな、深い領域が垣間見えてしまうことがある。
 シャーロック・ホームズを彷彿とさせる変人探偵がいて、その目の前に謎がある。たとえばこの『QED』に、それ以外の要素があるだろうか?
 探偵に動機はいらない。殺人事件さえ必要ないのではないかと思える。ならば、ミステリとは一体なんなんだ。
 そんなことが気になってしまうのは、私がこの本に、若干の面白味を感じてしまったためだ。
 本書を読んだ私の感想としては、概ねは「理解できない」といっていい。謎があって、謎解きがある。それだけではないのか。人間心理とかそんな難しいことをいう以前に、これを小説でやる意味というのはどこにあるのかというのが、まずわからない。
 だが、百人一首に隠された謎を解き明かしていく部分には面白味がないわけではなかったし、だからこそ、不精者の私が最後まで読んだ。
 謎そのものが面白いのならば、小説である必要がない。コリン・ウィルソンでも読んでいる方がよほど楽しめるだろう。だが、この本が小説でなかったら、百人一首によほどの関心がない限り、読んでいられないだろう。それならば、やはりミステリ小説としての意味はあるのか。
 私はミステリの内部にいない代わり、SFの内部にはいると思っている。たとえばSFでは、宇宙への憧憬に説明の必要はない。それは当然、作者にも読者にも存在するはずのものだからだ。
 しかし、実はそれは、SFにしかわからない感覚なのかもしれないではないか?
 ミステリにもきっと、そういうものがあるのだろう。そんなふうに、勝手な納得をしてみているわけなのである。


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