甲子園決勝がなにやらすごい試合になってたせいで午後いっぱいつぶれちゃったことだなあ。
明日再試合したらまた斎藤と田中が投げるんだろうけど、よくないよなやっぱり。でもよくないけど、高校野球にあれほどのピッチャーの代わりはいない。投げるしかないんだよなあ。
『ジェンガ!』,http://bb.goo.ne.jp/special/tanpen/jenga/index.html
なる映画を見てしまった。無料だったし。
Table Games in the Worldさんのところで紹介されてて知りました。
ちなみにジェンガというのは→のようなゲーム。見たことあるはず。有名です。
ボードゲームは小説や映画にできないのだろうかと考えていたけど、そうかジェンガがあったかー。捜せばあるもんだ。
映画のほうは、まあこんなものかっていう感じのデキだけど。
オープニングの歌がイイ。あと謎の挿入歌とかも。
いろいろえらそうなことを書いてるけど、そもそもまず、このサイトで扱ってるボードゲーム、マルチゲームというのがどういうものなのかを書いてなかった気がする。のでそのへんをつらつらと書いといてみよう。
まあそういうときは Wikipediaでも(ぉ
ようするにアナログなゲームのこと。囲碁とか将棋とかでもいいし、麻雀もそう。人生ゲームでもいい。
でも普通ボードゲーマーが扱うのは、主にドイツ製のもの。ドイツでは年間3ケタの種類のゲームが発表されていて、質も高い。残念ながら現状では日本製よりおもしろいから、ドイツ製が中心になっている。
一般にゲームというとコンピュータゲームのことを連想されてしまうわけだけど、それは困るんである。
わたしたちボードゲーマーにとってのゲームとは、卓を囲んだプレイヤーたちのあいだで勝敗をつけること。勝敗がないとゲームと思えない。
一人プレイのコンピュータゲームに勝敗はないから、あれはむしろ「遊び」だといいたい。
でも、ていうかまあそのへんはいろんな意見があるんだけど、少なくともこのサイトではそういう立場をとっている。
さて、なぜ勝敗をつけるのかということになると、これはいろいろと難しい。別に仲が悪いわけじゃない。しかし、あくまでゲームの上でだけど、わたしたちは勝敗をつけたいわけなのだ。
まあ、そうだね。スポーツをやるのと同じ理由だと思っていただければいいと思う。あるいはタバコを吸うのと同じかもしれないけど。
「頭脳スポーツ」なんというキャッチフレーズで売りだそうとしていた企業があったけど、じっさいわたしたちはスポーツをやっているのだと思う。
たまたま、そういう、人間と人間が競いあいをする種類のゲームは、アナログのボードゲームに多い。だからボードゲームに熱中している。ボードゲーマーというのはそういう人たちのことだ。と思う。
勝敗をつけるとはどういうことか。これは書いておかなければいけない。
勝利とはなにか。これは簡単だ。それぞれのゲームのルールブックに書いてあるとおりなのである。
たとえば、
「終了時点でもっとも多くの得点をもっているプレイヤーの勝利です」
なんてことが書いてあったりする。
しかし。
ここでひとつ、問題がある。
上のルールの場合。2番目に多く得点をもっていたプレイヤーは、3番目のプレイヤーよりもえらいのかどうか。
これがまた、実は非常に難しい問題なのだ。
一般論としては、というか人の感情としてだが、2位は「惜しかった」ということになる。3位よりも、トップに近かったという意味だろう。
しかし、ルールにはそんなこと、ひとことも書かれていない。
わたしは、2位に特別な意味はないという立場をとっている。「1位が勝者」ならば、その他のプレイヤーは全員敗者だ。そのほうがわかりやすい。
たとえば次のような状況のとき。
こういうのはよくある。
こんなとき、ここで博打を打つのかどうか。あるいは、そもそもそういう博打を選択肢のひとつとして計算するのかどうか。
2位に意味がないのなら、当然この博打を打つはずだ。しかし現実には、そうしないプレイヤーのほうが多数派だろう。そして、それを責めることもできない。
どちらが正しいとはいってもしかたないのだ。
この問題は、プレイヤーの数が3人以上だから発生したものだ。
2人なら、目の前の相手に勝つしかない。勝てなかったら、すなわち負けだ。でも3人以上だと、人の感情は複雑になってしまうんである。
そしてボードゲーマーがプレイするゲームの多くは、3人以上でおこなわれる。
こういう、結論の出ないあいまいな問題が、実は盤上にたくさん横たわっている。逆にいえば、ただ単に効率と手順を追い求める2人ゲームではなく、いろんな人のいろんな思惑がからみあう3人以上のダイナミックさが、好きだからやってるのだ。
この「3人以上のゲーム」のことを、マルチゲームと呼ぶ。
わたしたちは、ゲームの中でも、とりわけマルチゲームを愛する人間なのだ。
一番大事なことを書いておこうじゃないか。それは。
「ゲームとは選択である」
大事だ。これは本当に大事なことだ。
プレイヤーには、選択肢が与えられる。それはたった2つかもしれないし、五千個あるかもしれない。けれどともかく、プレイヤーは、その中からひとつを選ぶ。
そうすると、盤面の状況が変わる。
この状況を渡されて、次のプレイヤーはまた考える。
そのくりかえしが、ゲームなのである。
これは勝者を決めるための過程だ。
プレイヤーの選択によって、状況は一手一手、変化していく。しかし、ゲームはいつか終わる。そうでなければ勝者を決定できないから。
ゲームが終わったとき。つまり、ルールブックの「終了条件」に記載された条件が満たされたとき。
そのとき、誰が勝っているか。それを決めるのが、ゲームだ。
ゲームをプレイするというのは、選択によってゲームの状況を動かすこと。なのである。
プレイヤーは、必ずなにかを選ぶ。「パス」をすることも選択肢のひとつでしかない。あるプレイヤーがパスをしたという、そのことによっても状況は動いているのだ。
ゲームの中では、プレイヤーに逃げ場はない。なにをしようと、ゲームに参加している以上、プレイヤーはゲームに決定的な影響を与えている。
いまここに「経験者A」と「経験者B」と「よくわからないけど楽しそうだったから参加したプレイヤー」がいる。
そんな人々が、ひとつの卓を囲んだ。
プレイヤー一人一人は、それぞれの思惑でゲームに参加している。もちろん、ルール上は「勝利」が目標だし、それをタテマエとしてやっているけれど、話はそう単純ではない。
マルチゲームでは、最善手を選択しつづけたプレイヤーが勝つとは限らない。
いま「A」がトップに立った。現在2位の「B」は、もちろん彼を妨害しようとする。しかし今日の「A」はバイオリズムが上むいているらしく、あらゆる選択で最良の一手を選びつづけている。
ここで「初心者」は、よくわからないのだがとりあえず「B」にならって「A」を攻撃しはじめた。
このゲームは今後どうなるか。
もちろんゲームによる。だが普通は、2人に攻撃されたらさすがに勝てない。「A」は、次第に勢力を衰えさせていくことになる。「A」が最良の選択をしつづけたにもかかわらず、勝つのは「B」だろう。
あるいは、こんなこともある。
なんと偶然にも「初心者」がトップに立っている。しかしこれは偶然ではなく、他の2人が、トップに立ってめだってしまうことを避けた結果だ。トップになれば攻撃される。だから、ゲーム終了間際までトップに立たないという戦略をとったのだ。
さてしかし「A」と「B」は、互いの思惑を見抜いている。重要な局面では相手をけん制し、トップに立たせまいとする。虎視眈々と上をうかがいながら、しかし互いの足をひっぱりあっている。
そのうち「初心者」もゲームになれてきた。もちろん他の2人のように、ポジションどりを考えるとか、ここは重要だとか、そんなことはさっぱりわからないけれど、自分から負けを選ぶような選択肢は排除できるようになった。
結果。足をひっぱりあった2人はついにトップに立てず「初心者」が勝利した。
どちらも、実はよくあるケースだ。いったいなにが勝敗を決めたのか。
技量だけではない。それはたしかだ。もしそうなら、初心者が勝てるはずがない。
プレイヤーの選択は、その日の気分で容易に変わる。そしてそのたび、状況は劇的に変化する。誰かが勝利に近づき、誰かが遠ざかる。
そんな選択がくりかえされた結果として、ゲームは終了する。技量がなくても勝つときがあるし、完璧にやっても負けるときがある。
理不尽なゲーム。回答のないゲーム。つまり、ゲームの勝敗は、人間と人間のあいだでおこるいろいろなことの結果をあらわしている。
人間の性格とか、感情とか、声の大きさ(コレけっこう影響する)とか、カリスマとか容姿とか体臭とか、そういうあらゆることが影響している、といっていい。
一般的なソロプレイコンピュータゲームとは、そのへんが決定的に違う。だからいちおう区別して考えたいのだ。
「ゲーム」という言葉を嫌悪し、聞いただけで眉をひそめる大人がいたとして。
「人生にはゲームなんかよりもっと大事なことがある」といったとして、それが本当に大事なのかどうかは別の問題だけど、たぶん彼がいう「大事なこと」の本当の本質は、実はマルチゲームの中にある。と思う。これはわたし個人の意見だけど。
というよりも、わたしは、ゲームからしか抽出できないと思っている。人間が複数人集まったときに必ず起こる理不尽の、その理由やらなにやらだ。
別になし(ぉ
このサイトや他のボードゲーマーのサイトで、こいつらはいったいなにを見ているのかおまえら宇宙人かとか思わないでいただければそれでいいや。
ていうかそもそもそういう人がここを見る可能性は低いけど、まあいいです。
[2006.08.17 17:14]つつい :
ゲームであるためには「現実社会」に関係ないこと、というのが必要だと私は思うのだが、どうだろう?
賭博はゲームではないし、ゲームが原因で人間関係がこじれるのも何かおかしい、と思う。
[2006.08.17 19:46]てらしま :
難しいところですねえ。わたしにはまだ意見を固められていない部分です。
一般にゲームをプレイする上で必要な前提だとはたしかに思うんですが、だからといって「現実社会」がゲームではないといったらそれはそれで反論する人がいるような気も。
なのでわたしの意見はとりあえず「そういう気もするしそうでない気もする」くらいで(笑)
とりあえず、Gyaoでボトムズを見かけちゃったら、つい見ちゃったりするじゃないか。でそうしたら「キリコも巨大な不発弾」とかいわれちゃうわけだが。
あと野球狂の詩とかバブルガムクライシスとか、いいところが出てます。ついでにエウレカセブンも40話まで見れるようになってる。夏休みあわせでいろいろ出してきたようす。つーかつい数週前までの微妙なラインナップはなんだったんだ。
とはいえ、一度見た奴(つーか5回以上見たのもあるが)ばかり見ていても進歩がないというものなので、新しげな奴もクリックしてみたりするんだが。……やっぱりボトムズと並べておいてあるのはよくないかもしれん(笑)
2006.08.14 21:16 てらしま
わりとタイトルで引いてたりしたんだけど、読んでみると、おもしろかった。基本的にスポーツが好きなわたしである。自分ではやらなくても、見るのが好きだし、いろんなウンチクを知るのが好きなのだ。
けっこう素直なスポ根の話である。「階段レース」というスポーツに青春をささげる少年少女のお話だ。
というか。
はっきり書いてしまえば、これはパルクール小説である。といったほうがいい。それも、「移動芸術」とかいわない、トリック決めたりしない硬派な奴。
もっとも、微妙に違うところも多く、パルクールを意識して書かれたものなのかどうかはよくわからない。
学校の敷地内で、特に階段をメインに、いかに速く移動できるかを競う。そういうスポーツの、小説だ。
映画『ヤマカシ』で有名になったアレだ。
いっておくがこれは、ぜんぜんトンデモナイ設定ではない。フランスにはこれをまじめにプレイしている選手たちがいるし、その輪も広がりつつある。日本にもプレイヤーはいる。
ただ、まあ、やっぱりいろいろと問題もあるようだけど。でも、その魅力は見ればすぐにわかるではないか。
誰だって、ああいうことをやってみたいと一度は思う。
学校で、部活動としてやるという設定には飛躍があれど、スポーツそれ自体としてはまったくまっとうなものである。
あるいは、少なくとも、これを読んでそういう意見が変わったりはしなかった。
フランスのパルクール自体も、けっこう周囲の人々からは迷惑がられているらしい。そりゃそうだ。普通に人が歩いている道路やら、時には人のうちの庭やらを跳びまわるのだから。マナーを守るプレイヤーもいるだろうが、そうでないプレイヤーもいる。
それにやはり、本人は充分に安全に留意しているつもりでも、いや実際、そのために身体を鍛えて集中して競技にとりくんでいるわけだから、ひょっとしたら普通に歩いてる子供のほうがよほど危険かもしれないわけだが、やはり、ハタから見れば危険に見えてしまう。しかも街の中でやる人たちもいるわけだし。
この小説の場合は、それを学校でやる。街中よりはいくぶんやりやすい舞台とはいえ、やはり、迷惑がられるのは当然だろう。
しかし、これがスポーツとしての魅力をもっている以上、プレイヤーは必ずいる。読んでいてそう思えるわけである。
もうなんつーかね。
「よくぞこのネタをみつけてきた!」
である。
街中でやるよりも校内のほうが安全だし、なによりイメージしやすい。説明がなくても、学校の廊下で鬼ごっこをやったことのない奴はそうそういない。そういう記憶をひっぱりだせば、それだけですぐにイメージできる。楽しそうだと思えるではないか。
校舎にあるさまざまなものを、とにかく最大限に利用して走り回る競技だ。そのためには、校内のさまざまな地形を把握しておかなければならない。そこで階段部は、階段を一生懸命掃除したりする。
床に、普段は気づかないような凹みがあったとか。そんな話が出てきたりする。
たしかに、三年間も同じ校舎に閉じこめられる経験をしてきた我々は、多かれ少なかれそういう記憶をもっている。あそこの廊下の床は軋んでいたとか、あそこの壁には穴があいていたとか、そういう、あとになってみればどうでもいいようなこまかいことまで、考えていたのが学生時代だ。
こういう経験は、運動部でも文化部でも変わりなくある。
この「階段レース」というスポーツはつまり、運動の経験がない人にもイメージできてしまう題材なんではないか。
いやほんとに、よく見つけてきた。
ネタの力はすばらしいので、あとは直球を投げるだけ。話はほんとに直球の、スポ根をやってみせればいい(1巻はそうだったが、2巻は少し他の話が入る)。
もっとも、競技そのものの描写に説得力がなければ台無しだが、そのあたりも見事に描かれている。というか、ちゃんとスポーツが好きな人の視点で書いてあるなあと思う。
スポーツはおもしろいなというそのことを、これほどイメージしやすい題材はないんじゃないかと思う。実際にスポーツをやったことがなくても、廊下を走り回った経験なら誰にだってあるわけだから。
完成度そのものをみても低くないが、わたし個人の好みでいっても好きな小説だ。