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イリヤの空、UFOの夏
 読書

イリヤの空、UFOの夏
秋山瑞人 電撃文庫

2006.07.28 03:50 てらしま

amazonamazonamazonamazon 
 ああなるほど、これはたしかに名作だな。と素直に思った。
 新しくはないのだが、いまだにほとんどどの本屋にいっても置いてある。おもしろいという評判もよく聞いたし読むか、と思ってから数年たって、ようやく読んだわけだが。
 というか、買ってきて電車で読みはじめて気づいたが、前にも買った気がするのである。記憶が定かではないのだが、たぶん、また数年後に「ダブってる」と判明するのではないか。
 まあいいか、もう一度読むか、と、そのときは思うのではないかと思う。

 ライトノベル的な文法で書かれている。それはすぐにわかる。少年が少女に出会う話だし、個性の強すぎるキャラクターたちもそうだ。
 主人公は中学生。学校非公認のゲリラ部「新聞部」に所属していて、子供らしいいろいろないたずらに全力を注ぐ毎日。
 顔も頭も身体も全部あるスーパーマンだが変人の部長と、すごい大食漢で強気だけどどうも主人公に気があるらしい少女、と主人公の3人しかいない部活だ。
 加えて、主人公には「難しい年頃」の妹がいたりもする。
 そんなキャラクターたちのドタバタな挙動を中心に描きながら話を進めていき、その主人公たちに見えないところで大変なことが起こっているとしても、視点は中学生から外さない。
 キャラクターの配置も、話も、ドタバタなエピソードも、みごとにライトノベルの文法を外していない。
 だが、ライトノベルといったときに受ける軽薄な印象からはすでに、とっくに逸脱している。
 第二章「ラブレター」で、それがわかる。
 いわゆる「電波」な少女にであい、彼女に一目惚れした主人公。しかし少女はほとんど言葉らしい言葉も吐かない。常識が完全に欠けている。会話はまったく成立しない。
 それでも、部長にいわれて新聞部に勧誘する主人公。なにをやっても空回りで情けない主人公だが、ラストシーンでようやく、気持ちが少し通じたと判明する。
 この場面のやり口が、実に見事だ。
 こんなところで引いてもしかたない例という気がするが、山際淳司がよくこうした書きかたをした。有名な「江夏の21球」も、まさにこれだ。
 江夏が9回裏に投げた21球の、一球一球について、それを目撃していたさまざまな人物の心象を書きつらねていく。江夏自身はもちろん、キャッチャー、監督、ピッチングコーチ、観客席で見ていた人物もいるし、審判もいる。そうしたさまざまな視点から「21球」という現象を見せておいて、そして、
 最後にはしかし、カメラを引くのである。
 胴上げされる江夏と曇天の空模様が描写されていた、と記憶している。
 このラストシーンでは、誰の心象も語られない。ただカメラを引き、それまで極めて詳細に論じてきた個々の人々の姿を一画面に収める(実際は収まっていないが)。その風景を描く、ただそれだけである。
 勘違いしないでほしいのは、この方法が決して簡単な方法ではないということだ。ラストシーンの風景の中の人物のことを、読者が納得しているから成立している。
 作家が結論を書かないときというのは、ごまかしたか、読者にゆだねる自信があるかのどちらかだろう。
「江夏の21球」は後者だった。読者に、考えるための材料はいくらでも提供した。そういう自信があったのではないか。
 このうえ作家が自分の結論を述べてしまうのは野暮ってもんだろう、というより、これ以上はなにを書いても薄っぺらい言葉になってしまう、だからいっそ読者にまかせるべきだ、とそういいきれるところまで書きこんだから、できることだったのではないか。
 思考を言葉にすることはおそらくできないが、言葉が思考を呼ぶことはできるかもしれない。言葉は基本的に無力だけど、物語はなにかを伝えることができるかもしれない。そういうことだろう。
 さんざん話をつみあげていき、視点人物の心象もしっかり描いておいて、最後にはカメラを引く。
イリヤの空、UFOの夏』でも、そうした文法が章ごとにくりかえされる。
 さんざん場面を描き、キャラクターの心象を描き、そのせいでひとつひとつの事件にかける枚数がずいぶん長いのだが、段落を変え、視点を変え、書きこんでいく。キャラクターの内面で少しずつ変化していくものを描きこんでいく。
 しかし、その結論は書かないのだ。ただ、最後に訪れるなにかの瞬間を、風景として、カメラを引いて眺める。
 読者はそこまでで完全に思考を喚起されているから、いろいろ考える。考えているうちに章が終わるが、終わっても考えていることにふと気づく。
 見事だ。

 こんなことを書いてしまうとネタバレになるかもしれない。だから先に断っておく。
 竹宮恵子のマンガに『風と木の詩』というのがある。「のがある」なんて、いまさらわざわざ書く必要はないほどの名作だ。
 いわずとしれたって奴である。
イリヤの空、UFOの夏』を読んでいて、ああこれは『風木』なんだなと思った。
 と思っていたら、ほんとにそういう方向に話が進んでいった。意識していたとか元ネタだったとかいわれれば納得する。というよりわたしはそう確信している。
 偶然かどうか。成立過程も似ている気がする。
 竹宮恵子の場合は、『風木』の前に『ファラオの墓』があった。わたしはあれもかなり好きなんだが、それは置いておいて。
『ファラオの墓』は決して失敗作ではない。むしろかなり傑作だ。しかしたぶん、竹宮恵子は、あれを書いて完全には納得できなかった。「まだやれる」とおもったのではないか。
 もちろん、それまでにも多くの作品を書いている。だが、一人の作家として、本当に心血を注いで、燃え尽きるまで書くという書きかたはしていなかった。
 そして『ファラオの墓』でも、燃え尽きることはできなかった。
 しかし、自分はなにか、もっとすごいことをやれるのではないか、という手がかりのようなものがあったのではないか。
 読んでいてもそれは感じる。作品としてまとめるために、妥協しなければならない最小限度はどこなのか。いやそもそも、本当に妥協しなければならないのだろうか。自分が書きたいことを、少しの妥協もせずに全部書いてしまってはいけないのか。
 そういう欲求というか熱というか、そういうものが『ファラオの墓』を描きながらむくむくとわきおこっていく。全部描ける、作家としてもっと高いレベルにいける、という手がかりも見えてくる。
 そして、ついに決心する。
 少しの妥協も許さず、描かなければならないことはすべて描く(これは本人もいっていることだ)。それで作品が完成しなくなってしまったとしても、いびつなものになってしまったとしても、全部描いてみよう。
 竹宮恵子はそうして『風と木の詩』を描いた。
 秋山瑞人の場合はもちろん『猫の地球儀』があった。あれも傑作だが「完全にやりきった」小説ではなかったように思う。描きたいことがつめこまれていて、とにかくおもしろい。おもしろいのだが、それでいて、どこかに、描ききれないもどかしさみたいなものも感じられる。そういう小説だった。
 それが『イリヤの空 UFOの夏』につながる。といったら考えすぎなのだろうか。

 ボーイミーツガールの話だ。
 そして、少女のほうは完全に電波。
 常識も通用しない。あたりまえの言葉もほとんど通じない。ガクエンサイの意味も知らないし、プールにも入ったこともなかったようだ。転校初日にクラスメイトに囲まれて、
「うるさい。あっちいけ」
 といってしまうような奴だ。ほとんど人間ではない。
 しかもなにやら背後でいろいろとうごめいているようす。少女にはとんでもない秘密がありそうなようす。
 そんな少女に出会ってしまった少年。
 さてどうするか、という話だ。
 珍しい話ではなかろう。むしろ、ある種の文化に属する作品の中にはよくある話だ。いや、別に最近のオタク向け作品に限らなくても、こういう話がなかったわけではない。
 しかし、これを「全部書こう」とすると、実は大変なことになる。
 だって、少女は本当になにも知らないのだ。そんな奴がぽんとこの世界に放り出されて、簡単にとけこめるはずがない。そもそもとけこむことなどできるのか。
 そして、主人公も少女のことをなにも知らない。
 ただの中学生である少年がいくらがんばったところで、たかが知れている。失敗して空回りするのが当然だし、いろいろとみっともないことにもなるはずだ。
 そうならない話というのは、つまり、どこかで嘘をついているのである。
 妥協をゆるさないと決めた以上、嘘はつけない。多少ライトノベル的にデフォルメされた世界観ではあっても、この本にそういう嘘はない。
 中学生が、ほとんどコミュニケーションをとれないほどの電波娘に真剣にむきあう。それは、本当にはそういうことだ。悲劇も起こるだろうし、読者の誰一人として読みたくない、目を背けたくなるような場面も書かなければならないだろう。
 後半を読んでいて、このヒロインはいつレイプされるかと思った。あるいは主人公はいつ人を殺すだろうかとか、この二人はいつ性交渉をもつだろうとか。
 そして、おそらくこのレーベルのモラルが許すぎりぎりの範囲まで、そうした話は語られることになる。
 この場合、安易なハッピーエンドはごまかしだ。安易なバッドエンドももちろん逃げである。1冊や2冊で描ききれるはずがないのだ。
 ひとつも逃げず、書くべきことは全部書く。そういう覚悟が、文面からたしかに感じとれる。
 もちろん、それ以前に見事な文章力やおもしろさがあるわけだけど。
 ドタバタ劇で構築された世界観が、それだけで充分におもしろいからできること。そして、その楽しい日常の中に、常に漂う影が描きこまれているからできたことだ。
 電波だのツンデレだの萌えだの、そんな言葉はどうでもいい。
 理解できないものとコミュニケーションをとるには、本当はどうしたらいいのか。つまりファーストコンタクトである。
 あるいは、そんなことは不可能なのか。
 それはたぶん、言葉を人に読ませる作家という仕事のテーマそのものではないか。流行の薄っぺらい新書に、簡単に洗脳されてしまう人たちに、小説は通用しないのだろうか。いろんな分野の作家が同じテーマにとりくむのも、わかる気がする。

 普通に考えたらすぐに死ぬだろうヒロイン。それを助ける力をもたない主人公。終わりが約束されている関係。
 たとえば『風木』の焼きなおしだとしても(実は、筋はほとんど一致するといっていいほど似ている)、書くには大変なエネルギーと勇気がいるだろう。これで全部描ききれたかといえば、まだ足りない部分もあるかもしれない。しかし、名作である。
 これがライトノベルでなかったらとか、考えてしまう。
 こういうのを読んだときはいつも思うのだ。妙な流行で生まれたミリオンセラーなんか2ヶ月で忘れられる、本当におもしろいものがどこにあるのか、捜すにはけっこう手間がかかる、Google検索も、サイトの乱立で精度が落ちてきた、こんな環境の中で、ジャンルやレーベルの壁を超えて名作が名作として語りつがれるにはどんな条件が必要なんだろう。

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