とりあえず、全員に1枚ずつカードが配られる。1枚である。
プレイヤーは自分のカードを見て、そのカードが全体でもっとも弱いカードであるかどうかを考える。というのはこのゲーム、もっとも弱いカードを持っていたプレイヤーは負けとなるが、そうでなければ、いくら強くても関係ないのである。
さて、カードには15から−4までの数字が書かれており、これは数字が大きい方が強い。−3だの−2だのを渡されてしまったら、これはもうピンチである。
ちなみに、−3は「ライオン」、−2は「お面」、−1は「バケツ」なのだが、この意味はよくわからない。
反時計回りに手番が進んでいき、自分の番が回ってきたら、下家とカードを「チェンジ」するかそのまま「ホールド」するかのいずれかを選択できる。交換を要求されたら、基本的には、いわれるままに応じなければならない。
で、これを一周やって、最後にディーラーが山札を相手に同様のプレイをおこない、全員のカードを公開する。そこでもっとも弱いカードを持っていたプレイヤーが、そのディールの敗者となる。
ただし、ちょっとした特殊効果を持つカードがある。まあ全部書こうか。
15 クク 他人の手番中に、突然「クク!」と宣言できる。そうすると交換はそこでストップし、全員の手札を公開させてディールを終わらせる。15は一番強いので、つまりこれを宣言してしまえば普通負けない。
14 人間 チェンジを要求されたら、要求したプレイヤーを失格にする。
13 馬 チェンジを要求されたら、そのチェンジの対象を一つ下家に変更できる。
12 猫 チェンジを要求されたら、要求したプレイヤーが持っているカードをもともと持っていたプレイヤーが失格になる。
11 家 馬と同じ
−4 道化師 交換で道化師を受けとったプレイヤーは失格になる。ホールドすれば最弱なのでもちろんチェンジ
「失格」というのは、そのディールの敗者と同じ扱いになる。要するに、チェンジにはリスクがあるのだ。
ちなみに、名前がついているカードは、ここにあげた特殊効果を持つものとマイナスのカードだけ。かなり長い歴史を持つというこのゲーム、いろいろな紆余曲折を経てきたようだが、最終的には、ゲームをくり返す上で言葉が必要な部分に自然に言葉があてられたのだろう。
そういう、歴史を感じさせるようなそうでもないような、妙に雰囲気を持っているゲームだ。
単純なゲームである。しかも、プレイヤーにはそれほどすることがあるわけでもない。
配られるカードはたった一枚。できることは、チェンジするかしないか。それだけ。
一度やればすぐにわかるが、例えばだ。
配られてきたカードは「ライオン」→もちろんチェンジ→人間に撃たれて失格
なんてことはしょっちゅう起こる。この場合は選択肢すらなく負けているのだ。
そんなゲームなのである。こんなゲームがおもしろいか?
いや、わたしはけっこう好きである。
その理由は、上にも書いた「歴史を感じさせる」ようなところにあるのかもしれないが、よくわからない。でもなにか、妙にうきうきさせるなにかを、このカードは持っている。
歴史のあるゲームにはよくあるのだが、このゲームも、チップを配って、それを奪い合うという形式になっている(チップはついてこない)。
もちろん、昔は金を賭けてやっていたという意味である。
博打は短いゲームをくり返し遊ぶもので、そのためには、プレイヤーを熱くさせるなにかが備わっていなければならない。でなければ、負けたプレイヤーはすぐに席を立ってしまい、ゲームが続かない。
実際は正しい選択肢などなかったにも関わらず「あのときああすればよかった」と思わせるところがなければ、ゲームは長生きしないと思う。それこそ破産しても続けてしまう中毒性のある博打ゲームというのは、人間の本能を刺激するなにかを、誰も知らない黄金律で持っている、奇跡的なゲームのことだ。
このゲームにはそれが備わっているということだろう。
進化論と同じ議論である。利己的遺伝子が意志を持っているわけではないのと同じように、このゲームも、始めに天才ゲームデザイナーがすべて計算ずくでデザインしたというわけではないだろう。なにがおもしろいのかはわからないが、ともかくこれで博打をやるとおもしろい。無数にあるさまざまなゲームの中で、このゲームは偶然、なにかを持っていたから生き残ったのだ。
新作ゲームをやっても決して感じられない「意図されていない楽しさ」というようなものがある、そんなゲームなのである。 話は違うが、そういやあ、カタンのおもしろさもそういうものだったんじゃないかなあ。