遊星ゲームズ
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スルース
 ボードゲーム

2005.7.20 てらしま
スルース
Face 2 Face Games
Sid Sackson
3〜7人
60分

 斬新なゲームだ。とにかく、まずはこの斬新さが求心力を持っている。
 だが、そもそもこれは……このゲーム自体は、おもしろいのか?
 いや、実はわたしはいま、充分にこのゲームを楽しめている。いまのところ、好きなゲームといってもいい。おもしろいのだ。
 しかし、それはわたしがまだこのゲームを知らないからであって、知ってしまったらどうなのだろう。
 そんなことを考えてしまうわけである。
『切り裂きジャック事件』という古いゲームを知っているだろうか。探偵たちがロンドンの街を歩き回って証拠を集め、残忍な殺人犯である切り裂きジャックを捜すゲームである。
 知っている人はイメージしてもらえばいいが、あれに似た、推理ゲームである。ただし、殺人事件ではない。
 探偵たちがつきとめなければならないのは「失われた宝石はどれか」。つまり、宝石が盗まれたのだがそれがどの宝石なのかがわからないという。考えてみればよくわからない設定だ(ていうかそれは事件なのか?)。
 36枚の宝石カードがある。そこから一枚を抜いて裏向きのまま脇に置き、残りのカードを全員に配る。その抜いた一枚を特定するのがゲームの目的だ。
 そのために、プレイヤーのターンでは操作カードというものを使う。
 宝石カードには「種類」「色」「数」の3つの情報がある。種類は「ダイヤ」「オパール」「真珠」の3種、色は4色、数は「ソロ」「ペア」「クラスター」の3種(たぶん失われたのは指輪で、そこにいくつの宝石がはめこまれていたかを表している)。3×4×3で、36枚である。
 捜査カードでは、このうちのどれかの項目で訊きこみをおこなう。他のプレイヤーを指定して「ダイヤを何枚持っているか」とか「赤いオパールを何枚持っているか」などと訊くことができる。
 この捜査カードには2種類ある。種類、色、数のうち1項目のみのカードと、2項目の組み合わせのカードの、2種類だ。1項目のみの捜査カードなら、枚数を聞くだけ。2項目ならば、そのプレイヤーが持っているカードを自分だけが見ることができる(ただし、枚数は他のプレイヤーにも知らされる)。
 注意しなければならないことがある。テーブルを囲んでいるわけだから、枚数を訊ねられて答えれば、その情報は全員が知ることとなるのだ。つまり、1項目カードでは各プレイヤーがもつ情報量に差がつかない。2項目カードで宝石の内容を見て、はじめて差がつく。
 宝石カードについての情報量は膨大である。とても憶えきれるようなものではない。だから、箱の中には「情報シート」がついている。各自メモをとっていいというわけだ。
 このメモの使い方が、非常に重要になる。誰がなにを持っているか、なにを持っていないか、そうした情報を、的確に記述できた方が有利になる。
 そして「これだ」と思ったら、シートに失われた宝石を書いて宣言する。まずは自分だけが脇にどけておいた一枚を確認し、正解だったら勝利である。ちなみに、不正解だったときは敗北となって以後の捜査をおこなえない。
 普通のゲームではプレイヤーの頭の中にしかない「情報」というファクターを、明示的にゲームのリソースとして扱っている。より多くの情報を手に入れたプレイヤーが有利なのは間違いないが、加えて、その情報をどう処理するか、どう紙に記述するかといった情報処理能力も問われることになる。
 考えないでやれるゲームではない。まあたいていのゲームは、ゲームに参加すること自体には思考を要求しないわけだが、つまりダイスを振っていればゲームをやること自体はできるのだが、これは違う。ただ白紙のまま渡されたメモとペンと、カードから情報を拾い出し、自らの手でゲームに参加しようとしなければならない。
 正直にいって、考えることが苦手なプレイヤーとはやる価値がないゲームだ。
 メモをとる、あるいは情報を処理するという行動には、やはりある程度の創造性が必要だ。与えられたものではなく、自分でものを考えることのできる人間でなければ、このゲームには参加することさえできないのである。
 そういう意味では、敷居の高い、不親切なゲームといえるかもしれない。
 だが、幸運にもそういうプレイヤーと卓を囲むことができたならば、これは非常に知的で創造的な、思索のきっかけを与えてくれる。具体的には、メモをどう使えばいいか、考えるのはとても楽しい。
 さて、しかし、難しいのはその先の話である。
 このゲームの斬新なところは、情報そのものをゲームのリソースと考えたところであるとは書いた。しかし、そうして見た場合、つきつめて考えて、これのゲームそのものの部分は楽しさを持っているのだろうか。
 例えば、ゲームに慣れてきて、必要な情報をすべて、簡単に記述できる方法を全員が習熟したとして。そのときもまだ、このゲームはおもしろいだろうか。
 なんとなく疑問に感じてしまうのだ。
 わたしにとっては、いまはまだ充分におもしろい。でもそのおもしろさの大部分は、どうやったらうまくすべての情報を記述できるかを考えることにある。
 例えば、メモではなくノートパソコンを使っていいとなれば、おそらく全員が、自作の専用プログラムを用意してくるだろう(そうできるメンバーならばだが)。もちろん、必要な情報はすべて完全に処理できる。人間にとっては多いかもしれないが、コンピュータにとってはたいした量ではない。
 そのときプレイヤーがすることといえば、コンピュータにしたがって機械的に捜査カードを出すだけではないか。
 もちろん、ノートパソコンは反則かもしれない。では、あらかじめ完璧な表をメモ欄に用意し、簡単にすべての情報を整理できるようになったときはどうなのか。
 これはなにも、荒唐無稽な話ではない。人間が普段、紙とペンでどれほど多くの情報を処理しているかを考えてみればいい。星の動きから地動説を導き出した人もいる。飛行機を設計した人もいる。このゲームに習熟するとはそういうことなのだ。
 紙とペンを渡されているということは、そこまでやれる可能性があるということである。人間の脳だけでは処理できない情報を、外部メモリーを使って機能的に処理することができてしまうということである。
 そして、そこまでプレイヤーとしてのレベルが上がったとき。これはまだおもしろいゲームだろうか。
 もちろん駆け引きは残っているだろうし、どのプレイヤーがどれだけの情報を持っているか、それは決定的な情報だろうかと考えながら質問を変えるといった、マルチゲーム的な要素は残るだろう。だが、それだけで「おもしろいゲーム」でありつづけることはできるだろうか。
『原始スープ』というゲームがある。あれがそうだった。どうしたら勝てるか、どういった戦略がありえるか、そうしたことを、考えているときは楽しかった。だが、それが一つの結論にたどりついてしまうと、もうやる気にならなくなった。ゲームとしての駆け引きや、その場の判断や、そういったものは残っているのだが、それだけではもう、あえてプレイしたいと思わせるほどの引力を維持できなかったのだ。
 このゲームもそうなる気がする。そういう懸念がある。いまのところ、メモのとりかたを考えるのが楽しい。だがそれが完成してしまえばもう、あえてやろうとは思えないかもしれない。
 でもとにかく、まずはこうした、普通のボードゲームをやっていては使わないような脳の領域を使わせるような、斬新なデザインはえらい。一度プレイしておくことをオススメしてみてもいい。
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