「ダライアスが好き」という言葉は、ただある一本のゲームが好きだということだけをあらわす言葉ではない。ダライアス好きがどれだけダライアスを愛しているかというのは、ちょっと他のゲームとの比較ではあらわせないモノがある。
ダライアスというのはそういうゲームだ。
ゲーム性が好きというのはもちろんある。初見では誰が見ても「ムリ!」と思うような激しい攻撃を、ボスたちはしてくる。それが、考えながらくりかえしプレイするうちに避けられるようになる。
ダライアスシリーズを「難易度が高い」とする評価もよく目にするけど、それはじつは違う気がする。
たしかに、ボスの攻撃は大変激しい。しかしそのぶん、自機には強力なバリア(アーム)が搭載されている。
また、ある程度パターン化できるように作られているという面も大きい。アドリブや反射神経で弾避けをしなければならない場面は、慣れれば慣れるほど少なくなる。
そうしたゲーム性が、すばらしい。作りこまれた、完成度の高いゲームだ。
しかしそれだけではない。
画面演出も重要だ。ハードウェアの進歩もあり、特にダライアス外伝以降の演出は本当に痺れる。
激しい雨が降るステージとか。暗闇の中、雷光に照らされ一瞬だけ見える巨大戦艦とか。背景の雲海を泳ぎ回る巨大シーラカンスとか。忘れられない場面がいくつもあった。
そして、もちろん音楽。わたしは、これまでの横スクロールシューティングの長い歴史が、すべてダライアス外伝の第1ステージのBGM「VISIONERZ」のためにあったといわれても納得する。
(縦スクロールシューティングは、レイストーム最終ステージの「INTOLERANCE」 )
そうしたいろいろが、すべてひとかたまりに入っていなければダライアスではない。ひとかたまりになってはじめて、我々が愛するダライアスになるんである。
たとえば、背景が黒一色だったら。自機と敵と弾が、すべてただの四角いスプライトだったら。ゲームはなにも変わらないはずだ。しかし、それはダライアスではない。そんなゲームは数分で投げ出すだろう。
たとえば、BGMがなかったら(これは、理解のないゲームセンターではありうる)。これもコインを投入しない。
コンピュータゲームでは、画面演出やBGMとゲームを切り離すことができない。じつはボードゲームもそうなんだけど、コンピュータゲームでは特にその傾向が強い。
ボードゲーマーであるわたしの立場からすれば、一人遊びのコンピュータゲームはゲームではない。どちらかといえば玩具に近い。
玩具は戯れて遊ぶ道具だ。その遊びが楽しいかどうかは、複雑すぎてロジックでは測れない。置かれている状況が好きかどうか。それだけだろう。
複雑すぎて、明確に論ずることができない領域だ。脳科学の分野になるのだろうが、もちろん、まだ判明していない領域に大きく踏みこんでいる。
遊んでいる最中に、五感から入力される情報のすべて。それらをパラメータにとる、なんらかの関数がある。とりあえず、そうとしかいえない。
だから。ダライアスであるためには、ゲームと、画面と、BGMのすべてが必要なのである。
ダライアスのファンは、それらすべてを愛している。わたしも、ダライアス関連のサウンドトラックCDは集められるだけ集めている。
さて、ダライアスバースト。これまた、ちゃんと見事にダライアスだ。
である以上、もはやほめる言葉しか出てこないわけだけど。
音楽は予想以上にいい。背景演出は、外伝やGダライアスほど作りこまれていない気もするけど。でもボスの魚たちはあいかわらず元気に画面中を泳ぎ回っている。
エイの暴れっぷりとか、内気なハリセンボンのかわいさとか、あとクジラの、やりすぎな火力と耐久力とか。こうしたボスのキャラクター性は、ダライアスの魅力のけっこう大きな構成要素だ。
ゲームに関しては、以外と新しいことしてる。というか、バーストの設置発射は使いかたの幅が非常に広く、かなりいろんなことができる。家庭用ゲーム機のゲームとして、こうしたやりこめる要素は必要だったと思う。
ステージ数が少ないのは携帯ゲーム機だから(……かまたは予算の問題)だろうか。ボスの種類も少ないのは残念ではあるけど、でもちゃんとおもしろいし。むしろ、必要な作りこみがなされないまま発売されてしまったとしたら、そのほうが困る。
このゲームだけのためにPSP買ったわけですが(笑)。
「ダライアスやってるなー」感もあり、しかしバースト設置のパターンを考えるおもしろさもあり。
あまり、家庭用ゲーム機でシューティングゲームやるほうじゃないんですが。やっぱり好きなゲームはやる。
目を閉じると、まぶたの裏に弾幕が見えるこのごろです。