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ナノ・フットボールの時代
 読書

ナノ・フットボールの時代
サイモン・クーパー 土屋晃、近藤隆文訳 文藝春秋

2003.5.18 てらしま

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 注目のサイモン・クーパーが書いた、2002年ワールドカップの観戦記。
 いろんな雑誌に書かれたコラムをまとめたものなので、一冊の本としてはまとまりに欠けるし、当時の「速報記事」であったものを今さら読むのも少し興ざめしてしまうという部分はあるが、しかしやっぱりサイモン・クーパーはおもしろい。
 基本的には差別なく多くの国を紹介する。だがやはり、どうしたって偏りが出てしまう。この人、経歴を見るとかなりいろいろな国に住んだ経験があるらしいが、とはいってもアジアにいたことはないわけだし、住んだことのある国の記事が他より詳しくなってしまうのは当然だ。
 あの狂乱の一ヶ月に、たぶん恐ろしく多忙だったはずのジャーナリストが書いていたコラムである。もう忘れかけていたワールドカップ当時の空気がよく表れていて、興味深い。一方、やはり調査などに費やす時間はなかったのだろう、ほとんどが彼自身の個人的な感想のようになっており、まあいってみれば、金子達仁がNumberに連載してる、好き放題いってるやつと大差ない。エッセイだから、その人がなにを考えるのかというところに興味がなければ読んでもしかたない。
 サイモン・クーパーは『サッカーの敵』を書いた人だ。サッカーが政治や人々の心にどんな影響を及ぼすのかということをずっと考えてきて、たぶんよく理解している。この本にしても、ただのサッカー好きが書いたエッセイといえばそれまで。でもサイモン・クーパーが書いたエッセイだと思えば、価値が生まれる。
 つまり、『サッカーの敵』を読まずにこの本を読んでしまうことには少しの意味もないが、『サッカーの敵』の補足としてなら意味がある。
 サイモン・クーパーの価値とは、その国際性と独特の視点だ。いきすぎたサッカーファンはサッカーにとって敵である。ある視点からはこれほど明らかなこともないのだが、これは普段、あえて見ぬふりをされている事実なんじゃないか。
 そして一方、サッカーはあくまでサッカーにすぎないことを、この人は必ず強調する。サッカーは人々の意識に影響を与えるが、政治は普通、理念よりも利益のために動く。だから、たとえばアルゼンチンがワールドカップで優勝していたとしたって、あの国が立ち直ることはなかった。
 だが、サッカーがその国の状況をよく表現してしまうことは、サイモン・クーパーも認める。この人はたぶん、サッカーの力を誰よりも強く信じたいのじゃないか。この本のように多忙な中で書かれた文章では、時おり作家の本音がちらちらと顔を出す。
 サッカーには人々の意識を動かす力がある。だがそれはけっきょく、国を(もしくは人間を)変える力とは別のものだ。そんな二律背反を認識し、描き出してみせるジャーナリストは、サイモン・クーパーしか知らない。
 もう一つ。日本はやはり極東、Far Eastの国だ。ヨーロッパからはあまりに遠い。たとえば日本サッカーの現状をこの本から読みとろうとすることはできないと思う。たぶん、日本のことは日本にいる我々が一番よく知っている。
 ところで、本の題名である『ナノ・フットボールの時代』だが、なんとも内容とかけ離れたタイトルで、始めはよく意味がわからなかった。最後まで読んでやっとわかったが、これはクーパーの意見を恣意的に曲解した立場によるものだとしか思えなかった。本の内容とも印象が全然違う。いい題名とはとてもいえない。
 サッカー本の翻訳ではこういうことがよくある。出版側の人間が自分の意見を勝手につけ足したり、原本の作家がさほど意図していなかった部分を強調してしまったり。この本の場合はだいぶましな方なのだが、とはいえ、サイモン・クーパーさえもがついに犠牲になってしまったと考えると悲しくなる。


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