始めに手札が配られるが、それは一枚も自分のものにならない。カードを獲得して得点を稼ぐゲームなのだが、そのカードは全部、他人から獲得することになる。
なんかヘンなゲームだ。
つまり、手札は自分のものというより商品であって、プレイヤーはこれから、これを元手に商売をしようとしている、ということだ。
わらしべ長者?みたいな感じか。
親プレイヤーが、まず自分の手札から一枚を提示する。それを見て子プレイヤーたちは、やはり自分の手札から一枚を裏向きに出す。
いっせーのーでで、表にする。
そうしたら、まず親が、自分の出したカード以外の中からほしいものをとる。
カードをとられたプレイヤーは、親の出したカード以外から好きなものをとる。それでカードをとられた人はまた別のカードを選ぶ。
これをくりかえす。
最後に残ってしまった(つまり誰もほしくないカードを出してしまった)プレイヤーは、しかたないから親の出したカードをとり、次の親になる。
なんとなくわかりづらいところがある。それはやはり、配られたカードが自分のものではないというあたりに原因がある。
インスト中にカードを配られて「でもそれは君はとれないから」といわれてしまう。戸惑ってしまうのだ。
だが、じつは非常に単純なゲームだ。
ほしいカードを選び、とる。カードをとられた人が、次に同じことをする。ただそれをくりかえすだけ。
カードには色と数字が表されている。数字が、そのまま得点になる。
ただし、数字以外に「-(マイナス)」「0(ゼロ)」「×2」と書かれたカードが、各色にある。これは、その色の得点を「マイナスにする」「ゼロにする」「倍にする」効果がある。掛け算をやるのだ。
たとえば青の得点をたくさん獲得している人は、青の「×2」がほしいけど青の「-」や「0」はとりたくない。逆に青の得点を一枚も獲得していないのなら、青の掛け算カードに関しては別に気にする必要はない。
そんなわけで、プレイヤーごとにほしいカードとほしくないカードがある。そのあたりを考えながら、手札と相談して、出すカードを決める。
基本的には、できるだけ早く選ばれたい。早く選ばれればそれだけ、自分もいいカードを選べる可能性が広がる。
だから、基本的には強いカードを配られた人が有利ではある。そこはしかたない。運だ。
でも、たとえば青の「-」や「0」を持っている人がたくさんいるなら、青の高い数字はあまり意味がない。それぞれのカードが、ゲーム中に何度も価値を変える。それを見切って、価値の高いタイミングで出品するのが重要だ。
そういう市場取引のおもしろさを、再現できてしまっているゲームかもしれない。
オークションをするわけではない。それどころか数値化された価格を決めることさえしない、原始的な物々交換なのだが、物々交換だって経済なのだ。
私見だが、ボードゲームのシステムは物々交換と相性がいいと思う。
間にゲーム内貨幣を仲介させるゲームもおもしろいが、そうしたゲームはリソースが多いぶん「エレガントな」ゲームにはならないのである。
「ゲームは現実を模倣する」のかどうかは意見がわかれるだろうが、しかし、現実の要素をボードゲームにとりこむのならば、できるだけシンプルに、エッセンスだけを抽出する必要があるだろう。
「シンプル」は「原始的」「イノセント」といいかえられる。
経済をゲームにするならば、もっともシンプルでイノセントな商取引である、物々交換をテーマに置くことが、ひとつの理想ではないかと思っている。
もっとも、貨幣が登場しないゲームを「経済ゲーム」といえるのかどうかはまた別の問題だが。
さてこのゲーム。初期手札は、わらしべ長者の
より高価な
手札がいいときは、普通に商売をしていれば普通に勝てるのである。
しかしこのゲームの真骨頂は手札が悪いとき。
このひどい手札をいかにして高得点につなげるか、知恵と勇気をふりしぼって考える。すると、綱渡りのような道筋が見えてきたりする。そういう時が一番楽しい。