Board Game Advent Calendar 2014 の3日目。今回はせっかくだからクリスマスらしい話題ということで、一人用ゲームについて書こうと思う。
しかしこれが。ほぼ同人とはいえいろいろゲームを作ってきたけど、そういえばソロプレイ用のゲームは作ったことがない。
そんな奴が書く話で、どちらかというと思考実験だ。経験者が語る役に立つ話は期待しないように。
いわゆるドイツゲームと呼ばれる種類のボードゲームは、3人以上(本当は4人以上)で遊ぶために特化して発展してきたといっていい。そんなドイツゲームのファンだから、1人用ゲームにはどこか専門外という遠慮がある。
自分の場合はそんな感じなのだけど、でもこれ、最近は出自の違う作り手たちが増えてきているんじゃないかと感じている。
一人用のゲームが注目をあびるようになったことは、最近のゲームマーケットで特筆すべき傾向のひとつではないかと思う。さらに加えるなら、二人用、協力ゲーム、二陣営協力ゲーム、といったあたりのゲームがずいぶん増えた。これらをひっくるめて漠然と思うのは、ドイツ産ボードゲームの系譜にはなかった遺伝子なのではないかということだ。
ドイツゲームでなければなんなのかというと、それはコンピュータゲームだろう。
ボードゲームはいまや、マニアックなオタク趣味ではなくなった。プレイヤーも増えたし、ゲームデザイナーも増えた。数年で何桁か増えただろう。当然、いままでボードゲームを遊んでこなかった人も多いはずで、それはプレイヤーにも作り手にもいえる。はなからドイツゲームと違う思想で作られたゲームが増えているとしても、自然なことだと思う。
そうしたゲームが、最近とても興味深いのだ。外国の真似ではない、日本独自のボードゲーム文化が育ってきたのだと、もしかしたらいえるのかもしれない。
ほぼマルチゲーム専門の自分からしたら、あこがれのような気持ちがある。ちょっと作ってみたくなってきた。
そこで、一計だ。慣れ親しんだドイツ流マルチプレイヤーズゲームと、ソロプレイゲームとを相互に変換する方法を考えればいいんじゃないだろうか。
すごろくを一人で遊ぶことを考えてみよう。考えるまでもないけど。サイコロを振り、出た目の数だけ進む。ゴールにたどり着いたら勝ち。それだけだ。100%勝てるし、ぜんぜんおもしろくない。
で、これをマルチプレイにしてみる。ここで、勝敗に意味が出てくる。最初にゴールにたどり着いた人の勝利だ。一人で遊ぶよりはずいぶんおもしろいけど、もちろんこれでもゲームとしては足りない。
すごろくに足りないものがなんなのかというのはいろいろと議論できるわけだけど、それはともかく。ここで、ドイツゲームにありそうな解法をひとつ示してみよう。
すばらしいルールだ。ドイツゲームにいかにもありそうだし、たぶんある。これくらいのメカニクスを思いつくことができれば、ボードゲームは作れるだろう。
ソロプレイでは不可能だったメカニクスだ。ちなみに、2人でもあまりよく機能しない。3人以上のマルチプレイにすることで初めて、こうしたゲームが可能になる。わたしがドイツゲーム的なデザインと思うのはこんな感じのもの。
さてこのゲーム、元はすごろくだったのだが、サイコロが不要になってしまった。ドイツゲームはあまりサイコロを振らない。むしろ、コンポーネントにサイコロが入っていると時に嫌われたりする。それは、マルチプレイヤーズゲームにサイコロが不要だからだ。
こう言い換えてもいい。
いや、あくまで極端ないい方ですよ。もちろんこれだけではないし、そのことは後で書く。
ソロプレイのゲームにはたいてい、乱数装置がある。ちょっと考えてみてほしい。サイコロやカードなどの乱数装置をいっさい使わずに、ソロプレイゲームを作ることは可能だろうか? 作ったとして、それはゲームと呼べるものだろうか。パズルではなく? ゲームがパズルでないためには、予測できない部分が必要なのだ。だから、乱数装置を使わざるをえない。
しかしそれをマルチプレイにしたら、サイコロはもういらない。他のプレイヤーがいるだけでもう充分に予測不能だ。他人の考えていることなどわからないのだから。
これが、ソロプレイのゲームをマルチプレイに置き換える方法のひとつだと思う。ソロプレイゲームに必ずある乱数装置をみつけ、なんらかのマルチプレイ用メカニクスに置き換えてやればいい。
上ではバッティングを例に使った。これは非常に便利なメカニクスなのだけど、個人的にはあまり好きではない。代わりに、オークションとかワーカープレイスメントとか、デッキとか、まあなんでもいいわけだ。
他のプレイヤーはサイコロだと書いたけど。それじゃいかにも味気ない。本当にサイコロと変わらないのなら、わざわざ対人でゲームを遊ばなくてもいい。
でも我々は、人と卓を囲んでゲームするのが好きだ。これはなぜだろう。サイコロと人間とでは、違うところがあるはずではないか。
人との会話が楽しいとか、そういうコミュニケーションの楽しさというのはもちろんある。たぶん一番大切だろう。でもいま論じているのはゲームデザインの話なのだ。コミュニケーションの力を認めてしまうわけにはいかない。なにしろ、ゲームがなくてもコミュニケーションは成立する。テーブルにボードがなくても、人との会話は楽しい。これではゲームを論ずることができない。
ゲームを作りたければ、まずコミュニケーションを無視しよう。とはいっても、コミュニケーションの楽しさを利用することはあるけど。
ではコミュニケーション以外に、人間はどんな特性を持つだろうか。それは、癖や性格の違いだ。乱数装置として見たとき、乱数の分布が均等でなく偏りがあり、個性がある。
上に出した例でいえば、強気で6を何度も宣言するプレイヤーもいれば、地道に小さい数字で進むプレイヤーもいるだろう。性格が均等でないから、それを「読む」ことができる。
一般的な話として、偏りのある乱数は均一な乱数よりもおもしろい。1D6(6面サイコロ1個)よりも、2D6(6面サイコロ2個の合計)のほうが若干おもしろい。2D6には偏りがあるからだ。
そういう意味で、人間は理想的な偏りを持つ乱数装置だといえる。いや、そんな言葉では足りない。信じられないほど理想的だ。最初から興味深い偏りがあり、個性があるし、さらに状況に応じ偏りを変えさえする。
単純なサイコロよりも、人間のほうがおもしろい。これはとても大切なボードゲームの要素だ。
マルチプレイヤーズゲームには、最初からすばらしい道具が与えられていた。それを殺さず活かしてやれば、ボードゲームは完成するのだ。
そう考えると。
ソロプレイゲームの乱数装置をプレイヤーに置き換えることで、マルチプレイヤーズゲームを作ることはできるだろう。でもそうした場合、たぶん元よりおもしろくなってしまう。それはいいことだし、問題ないのだが。
問題あるのは逆のほう。マルチプレイヤーズゲームをソロプレイゲームに置き換えることのほうだ。こちらは意外と難しい。
サイコロよりも人間のほうがおもしろいのだから、人間をサイコロに置き換えたらつまらなくなってしまう。人間のおもしろさをよく引き出した、ドイツゲーム的基準でいう「いいゲーム」ほど、代わりの乱数装置を見つけるのが困難になる。
上に挙げた例なら、一人用すごろくに戻ってしまうのだ。
これは難しい問題だ。
いわゆるドイツゲームとは、人間のおもしろさを引き出すことで進化してきたゲームだ。そして、人間は装置としておもしろすぎる。だから、対戦相手を省いてソロプレイルールを作るのが難しい。
しかし最近、そうでもないゲームが増えている。
いま世界の潮流は、20世紀末から2000年代のドイツゲーム群とは違う方向に向かっている。その象徴ともいえるのが、ドミニオンに代表されるデッキゲームだ。
デッキも、サイコロと同じ乱数装置のひとつ。しかし、比べものにならないほどおもしろい。乱数装置としてのおもしろさでは人間に匹敵しうるかもしれない。これほど優秀な装置を搭載したゲームがつまらないわけがない。デッキゲームのゲームデザイン上の戦略といえる。
だから、マルチプレイヤーズゲームとしてのインタラクション機構に関してはあまり作り込まれていない。デッキだけでも充分におもしろいせいで、必要ないのだ。
そんな「最近のゲーム」の特徴をまとめると、こうなる。
インタラクションを薄めた代わりに、単体でおもしろい装置を採用する。触っているだけでおもしろいメカニクスがあるのだから、当然、ボードゲームとしてもおもしろい。
極めて単純な話だ。身も蓋もないというかなんというか。
これ、コンピュータゲームなどのソロプレイゲームがずっとやってきたことなのだけど。ドイツゲームの世界から見たらちょっとしたコロンブスの卵だった。2006年のドイツ年間ゲーム賞(SDJ)『郵便馬車』の頃からこの傾向が強くなり、2009年の『ドミニオン』の頃には完全に定着してしまった感がある。いまでは当たり前になってしまい、ソロプレイ感という言葉を見ることさえなくなってしまったほどだ。
こういう設計のゲームなら、比較的容易にソロプレイルールを作れる。
成功例のひとつは『サンダーストーン』だろう。あのゲームのソロプレイルールは、マルチプレイと変わらないほどおもしろい。また、ソロプレイ専用のデッキゲームでは『シェフィ』や『ロビンソン漂流記』などがある。
余談だけど。この方式のもうひとつの利点は、2人でも3人でも遊べてしまうということだ。
ふつうボードゲームは、4人以上でしか遊べない。3人からと書いてあっても、3人でまともに遊べるゲームというのは少なかった。『カタンの開拓者たち』などは最たるもの。かつてはそうだったのだ。
インタラクションの強いマルチプレイヤーズゲームでは、ゲーム内に協力関係と対立関係が生まれる。3人の場合、この組み合わせは常に1人対2人になってしまう。こうなれば、だいたいは2人のほうが勝つだろう。つまり展開が固定化しやすい。ゲーム内に発生するプレイヤー間の関係性について、組み合わせの数が足りないのだ。
でも最近のゲームは、驚くほどふつうに3人や2人で遊べてしまう。少人数のほうがいいくらいのゲームもけっこうある。インタラクションによらず単体でおもしろい装置を使う、そんな最近流行の設計がこれを可能にしているのだ。
なるほど間違いのない方法だったのだと、いまになってみれば思う。『郵便馬車』の頃は、これが許されるのかと思ったけど。
代わりに失われたものもある。昔のドイツゲームを懐かしむプレイヤーもいるだろう。わたし自身にもそんな気持ちは若干ある。
さて。マルチプレイヤーズゲームをソロプレイゲームに置き換える方法を再度考えてみよう。
まず、マルチプレイ用のメカニクスを単純にサイコロに置き換えてみる。これで充分おもしろい場合もあるかもしれない。でもたぶん、たいていは物足りないゲームができあがるだろう。人間と比べ、サイコロはつまらないからだ。おもしろさが足りなくなってしまったら、それはもうゲームとしてのかたちを保てないかもしれない。
ではそこで、まったく別の、おもしろい乱数装置を導入してみたらどうだろう。たとえば、デッキとか。
……ぜんぜん違うゲームになるかもしれないけど。でも、そういうことじゃないだろうか。
いろいろ書いたけど、まだ机上の空論ですよ。作ったことないし。
こんな感じで、ひとまず考えがまとまった気がする。気が向いたら、いままで作ったゲームのソロプレイルールでも作ってみようかなと思っている。
もっとも、最初からソロプレイ用ゲームを作ったほうが早いかもね。