2001.10.31 てらしま
乾くるみの小説にはなにかが欠けていると思う。それは、人間性というか倫理観というか、そういうようなものだ。
それが悪い、と言いたいわけではないのがややこしい。普通は、人間心理がどうだとかそういう難しいことの織り込まれていない小説の方が珍しい。その上で、やはりそうした哲学は描かれていなければならないと私は思っていた。しかしそうしたものが、乾くるみ作品にはないのだ。
そして不思議なことに、それがないからこそおもしろい。
登場人物の心象だとか、行動の動機だとか、そういう事柄を描くというのは、作家だったらあたりまえなのではないかと思う。多かれ少なかれ、そこに興味のない作家はいないだろう。
だからこそ、そこに正面から取り組んだ作品には傑作が多い。しかしだ。
乾くるみ作品には、眉一つ動かさずに人を刺し殺してしまうような冷酷さが通底している。トリックと小説の構成のためには、登場人物たちの人生を省みない。作品のジャンル性や暗黙の了解といったものも平気の平左で踏みにじる。
そしてそういう読者側の思惑をあざ笑うようにして、あっと驚く仕掛けを披露するのだ。
すべてが計算上のことと考えるしかないのだが、とすれば恐ろしく綿密な計算だ。計算でないとしたら、この人はきっと宇宙人である。
本書は『匣の中の失楽』(講談社ノベルス 竹本健治)へのオマージュとして書かれたそうである。こちらは読んでみると、「アンチ・ミステリ」という評どおり、決してトリックばかりを追う人間味のない小説というわけではない。なにしろミステリのことゆえ、詳細は書けないが……。
オマージュ、といわれれば確かに納得はする。『失楽』に登場したトリックを流用していたり、同じくメタフィクションの構造を使っているところなどからそう思うのだが、物語の企図しているところは少し変えてあるのだろう。『失楽』と同様、メタフィクションとしての構造が物語を読者の現実に滑りこませる、という部分は共通しているが、読後感には大きな差があるのだ。
『匣の中の失楽』が登場人物の視点を保持し続けたのに対し、『匣の中』は第一章から、それさえも手放してしまう。最初からすでに視点は読者の側にあり、メタフィクションであることを意識せざるをえない描写が繰り返されていく。
結果、この入れ子構造の持つ意味、フィクションとノンフィクションとの融合の怖さが、より強調された形になっていく。それは、ノンフィクションとして語られるために、怪談は怖い、ということと同じ、認識が揺さぶられることの怖さだ。
オマージュ、とあるが、メタフィクションという部分では『匣の中』は『匣の中の失楽』を超えていると思う。
『マリオネット症候群』のあとがきで大森望が「センス・オブ・ワンダー」と表現していたのはこのことだと思うのだが、確かにこれは、SFを読む喜びと共通するものだった。
物語に人間性や人生の問題を付与するのは読者の役割であり、作者の仕事ではない。そういう態度こそが、センス・オブ・ワンダーの根本かもしれない、などということを、ふと考えた。とすれば、乾くるみはなんと見事にそれを演じていることだろう。もちろん、本当に宇宙人なのかもしれないが……。