遊星ゲームズ
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ミニマルゲーム
 ゲーム・論考

 twitterで出ていた話題で、興味深いものがあったという話。

 いきなり余談だけど。
 twitterやってない方も多いだろうし、そういう方は、togetterにリンク張られても読む気にならないと思うかもしれない。つーかtogetterってなんだと。
 そういう気持ちは、わたしにも少しあったりもする。
 じっさい、twitterの発言を連ねたところで、それでは文章の体をなしていない。記事としてしっかり読む種類のものにはならないと思う。
 しかし、最近気づいたことだけど。twitterには、考えて推敲されていないことの魅力のようなものがある。基本的に思いついたらすぐに書く、思考垂れ流しの場なのだけど、だからこそ、そうした場にしか出てこないだろう論説が出てきたりもする。

 さてこのリンク先。
 世間一般で「ゲーム」といったら、それはコンピュータゲームのことだ。これはたぶん憶えておいたほうがいい。「ゲーム」に関する記事を読むとき、わたしはしょっちゅう「あーこれはコンピュータゲームの話だったのか」と気づいて最初から読みかえす。
 なので、本当の意味のゲームについての話ではないかもしれない。少なくとも前提となっているのはコンピュータゲームで、まずそちらに意識をおいて読まなければならないという意味で、わたしにとっては若干手間がかかる。

 といったあたりの前提を(自分が)確認しつつ。


ごく単純なモデルとして、ゲーム内の選択肢・分岐の数で、ゲーム性を計量しよう。完全に一本道のデジタルノベルと、選択肢で二つのエンドに別れるノベルゲームがあるとする。そのとき、前者は1で後者は2と、後者の方が選択肢が多いから、ゲーム性があるというわけだ。

 可能なところからモデル化するというアプローチはおもしろいと思った。モデルが妥当かどうかは別の議論になるけど。
 さて、ではこれを、本物のゲームで考えてみたい。
 選択肢の数からゲームを考えることはできるかどうか。

 いや、ここで「本物の」といっては語弊がある。コンピュータゲームが偽物といいたいわけではない。
 一人遊びのコンピュータゲームがゲームかどうかというのは、結論を出すことが難しい議題なのだ。そもそも勝敗が決まらないのだから。
 クリアしたら勝利なのか、コンプリートしたら勝利なのか。ルールブックには書かれていない。
 それとも、おもしろかったら勝利なのか。多くのコンピュータゲームは物語を語るが、それがおもしろかったなら勝利かもしれない。だが、それは定義できない。
 つまり、多くの場合、コンピュータゲームの勝敗は定義されていないのである。いいかえると「ゲーム」であるかどうかが確定していないといえる。「ゲーム」を語る上では、これはおもしろくない。
 いっぽうボードゲームは、少なくとも勝敗を定義できる。ルールブックに「もっとも得点の高いプレイヤーの勝利です」などと、必ず明確に書いてあるのである。
「ゲーム」について語るなら、ボードゲーム的なものを前提に話しはじめたほうがいい。と、わたしは思っている。


 あー長い前ふりだった。
 選択肢の数だった。
 元記事のアプローチにしたがい、モデル化を考えたいと思う。ただし、ここではさらに推し進める。
 選択肢の数という観点を使い「最小のゲーム」を考えてみよう。最小から議論しておくことで問題を明確にし、後の議論のベースになることができればいいなと思う。

「選択肢の数」の最小はいくつか。
 これは簡単だ。「2択を1回」が最小だろう。
 この選択をするのはプレイヤー。選択がなければゲームでないと考えるなら、プレイヤーがゲームに参加するためには、必ず1回ずつの選択が必要だ。
 選択肢の数の最小数は
「各プレイヤーが、2択の選択を1回ずつ」
 となる。
 これが「ミニマルゲーム」の条件。ということができるだろう。
 ちなみに、じゃんけんは3択である。また、引き分けの場合「あいこでしょ」が発生してしまう。あくまで選択肢の数によるなら、じゃんけんでさえミニマルゲームではない(!)。

 2択1回のみで、ゲームは成立するだろうか?
 成立する。というか、ある。
 クク(カンビオ)である。

 簡単に説明すると。
 まずプレイヤーに、カードが1枚配られる。
 その1枚を見て「全体で1番弱いカードかどうか」を判断する。最終的に、1番弱いカードを持っていたら敗北となる(敗者を決めるゲームだ)。
 そこで、2択。配られたカードをそのまま持っている「ノーチェンジ」か、となりのプレイヤーと交換する「チェンジ」か。
 重要な要素として書いておかなければならないのだが。「チェンジ」にはリスクがある。チェンジする相手がある特殊札を持っていると、その場で即座に失格になることがある。
 このリスクを考えると、できればチェンジしたくない。だが弱い札ならチェンジしないと負けるかもしれない。
 この選択を、プレイヤー全員がおこなう。
 最後に、すべてのプレイヤーが持っているカードを公開する。1番弱いカードを持っているプレイヤーが、敗北だ。
 やることは本当に「ノーチェンジ」「チェンジ」のどちらかを選ぶだけ。それを、各プレイヤー1回。それで勝敗が決まる。
 まさに上述したとおり。最小の選択だ。最小のゲームのひとつといえるだろう。
 まあじっさいには、このディールを何度もくりかえすわけなのだが。しかしククの場合、次のディールに持ち越すリソースがないため、1ディールを1ゲームととらえることも可能といえる。
 ここでは、このゲームを「1ディールクク」とでも呼んでおくことにしよう。


 さてしかし、選択肢の数は本当に重要なのか?
 じつは、そうは思っていない。
 上にも挙げたじゃんけんの場合、3択を最低1回選択するゲームということになる。しかし、3つの選択肢には差がまったくない。
 まあ現実には、人間の身体の構造上、若干の差はある。「グーとパーはチョキよりも出しやすい」とか。世界大会でもチョキの比率が一番低い。「(右利きの人が)身体の左側に手を出すときはパーを出しやすく、右側に出すときはグーを出しやすい」とかもあるかもしれない。でもそういうのは、ここではおいておくとして。
 3つの選択肢はいずれも、3分の1の確率で勝ち3分の1の確率で負ける。ゲームシステム上、まったく差がない。どれを出しても同じなのである。
 これはつまり、ただの運ということだ。
 じゃんけんの3択は、選択といわないだろうと思う。少なくともゲーム上の意味としては。選択はゲームの必須要素だけど、選択には意味がなければならない。
 等価な選択肢は数えない。
 とすると、じゃんけんの選択肢は1択扱いだ。ゲームではないことになる。

 等価でなければ数えていい。これは別のいいかたをすれば「ジレンマ構造があるかどうか」ということになるだろうか。
 ジレンマというのは、Wikipediaによれば

  • ある問題に対して、2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不利益があり、態度を決めかねる状態

 のことだ。
 ボードゲームに登場する場合は「堅実か博打か」とか「当面の利得か将来の投資か」といったあたりが多い。
 たとえば、「1点」と「サイコロを振って6が出たら3点」の選択肢があれば、これはジレンマかもしれない。「堅実か博打か」の例である。相手に勝つためにサイコロを振るという選択がある。おもしろいかどうかはともかく、ジレンマであるとはいえるかもしれない。
 囚人のジレンマ(お互い「協調」なら3点、相手が「協調」自分が「裏切り」なら5点、逆なら0点)がゲームであるかどうかは、わたしにはわからない。1回だけのゲームの場合、どちらを選んでも相手の選択次第でしかなく、じゃんけんと変わらない。
(ただ、これが複数回のゲームとなると話が違ってくる)

 ククには、ジレンマがある。弱い札を配られたとき、チェンジしたら特殊札を喰らって失格になるかもしれないが、ノーチェンジでは負けてしまう公算が高い。
 その意味でも、ククはゲームだ。ゲーム性を持っている。

「ジレンマつき選択肢」あるいは「実効選択肢数」の数から見るミニマルゲームモデルのひとつが「1ディールクク」であるということは、いえるのではないかと思っている。
 ゲームであるために最低限必要なのは、2択1回×プレイヤー人数である。とりあえず、ククという例はあったのだ。


 では、ここから少しずつ議論を拡張していくことはできるだろうか。
 1ディールククに登場するリソースは1つ。カードのみだ。たとえばこれが2つに増えたときはいくつの選択肢があればいいのか?
 1ディールククがおもしろいかというと、さすがに物足りない。ではどれくらいまで増やせばいいだろう?
 上に書いた囚人のジレンマは、1回のみのゲームでは、インタラクションが強すぎてじゃんけんと変わらない、といういいかたもできる。強いインタラクションは実効選択肢数を減らすのかもしれない。
 とかそんな議論を、ここから展開できるかもしれないとは思える。

 おそらく、コンピュータゲームを前提にした議論とはかなり趣が違うと思うけど。
 そういうことを考えることは、たしかにできるかもしれない。そういう意味で、紹介した記事が興味深かった。と思ったのだ。

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