ちょっと採点してみると散々なので、少しはまじめなHTMLを吐けるようになろうかなとしてみた。
……疲れた。
正規表現は無限ループするし、表示はおかしくなるし。やっぱ素人のプログラミングは時間がかかるのです。
ていうかまだ不具合残ってるし。しかもまた例によってIEだけ(笑) なにが悪いのだろう……(ていうかやっぱり行儀の悪いソース吐いてるのが悪いんだろうけど)。
それにしても、IEだけバグるってことが多すぎです。なんなんだよIE。もっとまじめにやれよ。
今日は疲れたので、IEは放っといて寝ます。
というわけで、このサイトは「<ruby>タグを見れるように改造したIE以外のブラウザ」推奨です。なんだそれ。
wiki文法はさっぱり統一されていなくて、使われているスクリプトによってぜんぜん違う。
基本的な見出し一つとっても、!だったり*だったり。Wikipediaなんか「== 見出し==」などという、えらくまたエキゾチックな独自文法を使っていたりする。
ちなみに、*はPukiWikiの見出しだけど、他のwikiだとリストによく使われている。ややこしい。
このサイトの場合、知人が作ったwikiに倣って、見出しは「@」にしていた。なんか慣れていたので。しかしこれもまったく一般的じゃない。編集ページが見やすいという利点があり、いい記法ではあるのだが。
で、エディタ捜しのアレで「階層つきテキスト」というものの存在を知った。
これは、文章中の見出しの行頭に「.」(ピリオド)を打っておくと一つのパラグラフの始まりとして扱われるというもの。階層つきに対応しているエディタとかで読むと、パラグラフ間の移動がワンクリックでできたりする。
そこで思った。……この規格は強いんじゃなかろうか。
てんでばらばらにやってきたwikiよりも、なにしろ出回っているソフトウェアが使ってるわけで。影響力は(比べれば)ケタ違いじゃないか。
というわけで長いものにまかれることにして、このサイトもピリオドで見出しということにした。ちと編集ページが見づらい上に、wiki的にはまたさっぱり一般的じゃないルールだけど。あっちのほうが長いんだからしかたない。
まあわたし一人しか使ってないんだからなんでもいいんだけどね。
[2006.03.26 21:39]てらしま :
いまさら思い出したが、Pukiwiki文法は「はてな記法」に近い(順序がどっちだったかは知らん)。はてダは階層つきテキスト対応エディタよりも一般的かもしれない(笑)
ついこないだまでは普通にemeditorだったんだけど、やっぱり縦書きで書きたいなあってことでいろいろ試し中。
ワープロソフトじゃイヤなんだよな重いし。というか一番の原因は、青空文庫の|《》形式でルビ振りたいという欲求なんだが。なのでこれをサポートしてるのが絶対条件。厳しい(笑)。
で、O'sEditorというのをしばらく使っていました。一応便利ではあった。不便なところも多かったけど(かなりいろいろ設定できるけどぜんぜん整理されてなくて大変とか)、まあ軽いし悪くはなかったのです。これも青空文庫の著者注ルール「わわわ[#「わわわ」に傍点]」できれいな傍点が出るのもよかった。
……しかしシェアウェア期限がきてもう使用不可〜。
っていうか安いしお金払ってもいいんだが、せっかくだから別のを使ってみようということで。
いまはVertical Editorというフリーソフト。これはまたフリーだけに、いろいろ不具合が残ってるわけだが。基本的な使い勝手自体は悪くなさげ?ってところかなあ。
書くだけならQXがいいことはいいが。
とかいろいろやってるこのごろ。
つーかほんとに、なんかいいのないんだろうか。まあお金出せばないでもないようだが。
モラルハザードという言葉を「道徳崩壊」という意味で使う場合、それは「ニッポンの道徳がやばいよー。だからみんなちゃんとしろよー」といっているわけなのだろうが、こうした議論には意味がない。じゃああんた、日本人全員を一人一人説得して回るつもりかよということだ。
これは困った老人がよくやってしまう議論。でも一般的には正論なので反論しづらいのが最大の問題だが、それはまた別のお話。
対して「本来の意味」といわれている使い方をした場合、これはもう、専門的すぎであまり用途がない。ちょっと拡張した使いかたはいろいろできるが、そうするとすぐに「道徳」という間違った方向に向かってしまう。言葉のイメージがそうなんだからどうしようもない。
なんとも、できの悪い専門用語だ。余計な議論に発展しちゃいそうだし、使わないほうがマシですな。
ということはだ。つまりこんな言葉はいらないんじゃないか。これを聞いたら全部聞かなかったことにしちゃえばいいんだねー。
数日前テレビでこの言葉を聞いて、そんなことをふと思った。今度からは無視しよう。
始めに手札が配られるが、それは一枚も自分のものにならない。カードを獲得して得点を稼ぐゲームなのだが、そのカードは全部、他人から獲得することになる。
なんかヘンなゲームだ。
つまり、手札は自分のものというより商品であって、プレイヤーはこれから、これを元手に商売をしようとしている、ということだ。
わらしべ長者?みたいな感じか。
親プレイヤーが、まず自分の手札から一枚を提示する。それを見て子プレイヤーたちは、やはり自分の手札から一枚を裏向きに出す。
いっせーのーでで、表にする。
そうしたら、まず親が、自分の出したカード以外の中からほしいものをとる。
カードをとられたプレイヤーは、親の出したカード以外から好きなものをとる。それでカードをとられた人はまた別のカードを選ぶ。
これをくりかえす。
最後に残ってしまった(つまり誰もほしくないカードを出してしまった)プレイヤーは、しかたないから親の出したカードをとり、次の親になる。
なんとなくわかりづらいところがある。それはやはり、配られたカードが自分のものではないというあたりに原因がある。
インスト中にカードを配られて「でもそれは君はとれないから」といわれてしまう。戸惑ってしまうのだ。
だが、じつは非常に単純なゲームだ。
ほしいカードを選び、とる。カードをとられた人が、次に同じことをする。ただそれをくりかえすだけ。
カードには色と数字が表されている。数字が、そのまま得点になる。
ただし、数字以外に「-(マイナス)」「0(ゼロ)」「×2」と書かれたカードが、各色にある。これは、その色の得点を「マイナスにする」「ゼロにする」「倍にする」効果がある。掛け算をやるのだ。
たとえば青の得点をたくさん獲得している人は、青の「×2」がほしいけど青の「-」や「0」はとりたくない。逆に青の得点を一枚も獲得していないのなら、青の掛け算カードに関しては別に気にする必要はない。
そんなわけで、プレイヤーごとにほしいカードとほしくないカードがある。そのあたりを考えながら、手札と相談して、出すカードを決める。
基本的には、できるだけ早く選ばれたい。早く選ばれればそれだけ、自分もいいカードを選べる可能性が広がる。
だから、基本的には強いカードを配られた人が有利ではある。そこはしかたない。運だ。
でも、たとえば青の「-」や「0」を持っている人がたくさんいるなら、青の高い数字はあまり意味がない。それぞれのカードが、ゲーム中に何度も価値を変える。それを見切って、価値の高いタイミングで出品するのが重要だ。
そういう市場取引のおもしろさを、再現できてしまっているゲームかもしれない。
オークションをするわけではない。それどころか数値化された価格を決めることさえしない、原始的な物々交換なのだが、物々交換だって経済なのだ。
私見だが、ボードゲームのシステムは物々交換と相性がいいと思う。
間にゲーム内貨幣を仲介させるゲームもおもしろいが、そうしたゲームはリソースが多いぶん「エレガントな」ゲームにはならないのである。
「ゲームは現実を模倣する」のかどうかは意見がわかれるだろうが、しかし、現実の要素をボードゲームにとりこむのならば、できるだけシンプルに、エッセンスだけを抽出する必要があるだろう。
「シンプル」は「原始的」「イノセント」といいかえられる。
経済をゲームにするならば、もっともシンプルでイノセントな商取引である、物々交換をテーマに置くことが、ひとつの理想ではないかと思っている。
もっとも、貨幣が登場しないゲームを「経済ゲーム」といえるのかどうかはまた別の問題だが。
さてこのゲーム。初期手札は、わらしべ長者の
より高価な
手札がいいときは、普通に商売をしていれば普通に勝てるのである。
しかしこのゲームの真骨頂は手札が悪いとき。
このひどい手札をいかにして高得点につなげるか、知恵と勇気をふりしぼって考える。すると、綱渡りのような道筋が見えてきたりする。そういう時が一番楽しい。