で、きのうの続きというか。
効率を極めたら、それはもうゲームの要素とならない、というようなことを書いた。その話、このキャッチアウトでも考えてしまったんである。
ファブ・フィブという傑作ゲームがあった。あれを連想するシステムだ。
3枚の数字カードを渡される。この3つの数字を見て、裏向きに、次のプレイヤーに渡す。
このとき、数字を宣言する。この宣言は嘘をついてもいい。
渡されたプレイヤーは、ダウトを宣言できる……というのは、ファブ・フィブの場合。キャッチアウトでは「嘘だろ」だけではなく「本当だろ!」とも宣言できるんである。
この宣言のことを「チャレンジ」と呼ぶんだが。チャレンジして、当たったら得点。外れたら相手の得点。
カード枚数のチャートがついていて、カードがすべてなくなったらゲーム終了だ。つまり、残りカードがなにかを憶えておくと有利になる。
ブラフを判断するための条件は、ここにある。いわゆるカウンティングが重要な、記憶力のゲームである。
そういうゲームだ。
さてここで問題だ。嘘か本当かを、見抜くための材料はあるだろうか。
ゲームマーケット2010のあと、なにやら盛り上がっていた話題があった。「ストレイシーフ問題」とでもいおうか。
ストレイシーフも同じようなダウト系ゲームなのだけど。嘘をつくことに、まったくリスクがない。本当のことをいっても嘘をいっても、差がない。
これはゲームなのか? そんな議論があった。
@kubotaya氏がTwitter上の発言をまとめている。
遊びとして楽しくないとはいえない。ゲームとしての楽しさはないかもしれないが、遊びとして成立することはもちろんありうる。
だが、あくまでゲームとして評価するなら。
わたしの立場としては、あれはゲームではない。
というか、ゲームじゃないものは他にもけっこうあるし……。
きのうの話を発展させることになるのだけど。
ストレイシーフには、インタラクションがある。しかし、ブラフを判断するための材料が存在しない。読めないインタラクションは運と同じ。ジャンケンと同じである。
ジャンケンがゲームかどうかというと、これもいろいろな意見があるはずだけど。このサイトの立場では、ゲームではないとしている。
なんか他のゲームのことばかり書いてるけど。キャッチアウトの話に戻る。
キャッチアウトは、記憶力のゲーム。正確にカウンティングしていれば、必ず最大の効率でプレイできるゲームである。
これはきのうも書いたけど。効率には上限がある。このゲームの場合、54枚あるカードをすべて記憶していれば、それが上限だ。
そんな神のプレイヤーだった場合。カードの残り枚数から考えて、嘘か本当かを判断できてしまうような宣言は決してしない。逆に、判断できる局面では必ず嘘を見破る。
そうしたプレイヤーだけで卓を囲んだ場合、嘘か本当かを見破れるだろうか?
チャレンジに成功する確率は、ほぼ必ず50%。判断材料はない。つまり、ジャンケンと変わらない。
記憶力が完全だという仮定をおくなら、キャッチアウトもストレイシーフと同じなのだ。
(本当はこのゲーム、各プレイヤーに情報量の差がある。だからそこでゲーム性を生じる可能性はある)
もちろん、人間の記憶は完全ではない。少なくともわたしにとっては、ゲームである部分が充分に残っているのだけど。しかし、54枚すべてとはいわなくても、重要なところをしぼって憶えきってしまうプレイヤーはいるだろう。棋士とかにやらせれば、本当に運勝負になるんじゃないだろうか。
この「ストレイシーフ問題」、じつは意外と多くのゲームが抱えている。
そんなことを考えた。
まあ、記憶力がなくても、50%のチャレンジに成功するかどうかという場面が多いゲームだ。
判断材料は、ゲームトークンではなく相手の顔、という面も意図されているだろう。
場の「盛り上がり」などは、ゲームの論理だけでは語れない。ボードゲームはコミュニケーションツールだといったとき、多くの場合はそうした、ゲーム外の要素を含んでいる。
キャッチアウトも、そうしたところのあるゲームなのかもしれない。
わたしがプレイしたときは、ファブ・フィブをやったことがあるプレイヤーが多かった。だからだろう。ルールを聞いて首をかしげる姿もあったのだけど。
じっさいにプレイしてみたら、予想よりもずっと盛り上がった。ファブ・フィブとは、意外と楽しさの質が違うかもしれない。