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サマー/タイム/トラベラー
 読書

サマー/タイム/トラベラー
新城カズマ ハヤカワ文庫JA

2006.07.13 22:25 てらしま
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 星雲賞受賞作。実に普通におもしろかった。というか、なんというのか、それほどSFじゃないし、珍しい話でもない。でも名作という人がいてもいいとはまあ思うし、受賞するのもしかたないと思うし、朝電車の中で読んで、その後一日、ふとしたはずみに思い出してしまうくらいおもしろかったのはたしかだったわけなのだ。

 結論を書いてしまおうと思う。これは、わたしたちSFファンのための青春小説である。
 ネタそのものがSFかといえば疑問かもしれない。『アキハバラ@DEEP』がSFだという話はあまり聞いていないが、ネタだけをみれば、アレのほうがよっぽどSFだろう。
 同じネタでも、SFだったりそうじゃなかったりする。いまはそういう時代である。
 しかしこの『サマー/タイム/トラベラー』は、たしかにSFだったと思う。あるいは、たしかにSFファンが好きだろう話だった。
 SFというのはもはや、文学のいちジャンルではなくファンの集まりのこと。ある傾向をもった一つの小さな集団が、集団の中での限定された議論の中で「これはいい」と認めたもののことにすぎない。
 非常に偏屈で、傷つきやすく、そんな自分自身を守るために大きな声で話す、SFファンというのはそういう人たちのこと。
 そんなわれわれSFファンが、送ってきた青春時代というのは、たしかにこんな世界だった。これはそういう本なのである。

 特化した小さな集団は、専門的な議論をするためには有効なこともあるが、危険な面もある。誰か一人の大きな声が全体の意見となってしまいがち、ということもあるし、視点が固定化してしまい、外側のものを一切認められなくなってしまうということもある。
 SFはまさにそんな状況にある。SF大会参加者の平均年齢は毎年ほぼ1歳ずつ上がっている、なんて冗談もあるくらい、自覚されてもいる。
 それでもこんな状況が続いていることには、いろいろと理論づけがなされている。そうやって必要以上に自己分析してしまうのもSFの特徴だったりするわけだが。
「現実がSFに追いついてしまった」からだとか「浸透と拡散」がどうとか、よくいわれているのはそんなことだ。
 たとえば、ふつーに一般小説として売られている本の中に、突然超能力者が出てきたりする。あるいはハッカーとか、人工知能とか。
 そういうものはまちがいなくSF(あるいはSFから生まれたもの)なのだが、星雲賞の候補になることはない。
 直接的な原因はたぶん、SFとして売られなかったからだ。SF者にだって、そういう本を読んでいる連中は多いのだが、全員ではない。それに、SFとして売られていない以上、SFのコミュニティの中で話題になる機会は少ない。
 そんなこんなで、SFなのにSFとして扱われない作品がやたらとある。
 これもSFが自らまねいたこと。SFはあまりに保守的で、排他的だった。だから、SFと名づけると、ごく限られたSFファンにしか注目されなくなってしまう。それで、出版側がSFを避けるようになってしまう。
 結果的に、SFは自ら自分の首をしめている。愚かといえば愚か。偉大すぎる先人たちに比べ、努力不足がすぎたといえばそうだ。
 ただし、認めてもらわなければならないこともある。それは、SF者という人種が、おもしろいものを求めるために支払っているコストが、桁外れだということだ。わたしでさえ、一般的なSFアウトサイダーと分類されうる人々と比べれば、少なくとも数十倍のコストを支払っているのだ。
 彼らは、分野を超えていろいろなおもしろいものを知っている。それは確かなのである。彼らがいいというものはおおむね、たしかにいい。
 それぞれの趣向の、和集合ならばほとんど世界中のあらゆる文化に手が届くのだが、共通部分となると極端に狭くなってしまうのがSFである。
 もう「SFファン」という言葉で呼ぶことが間違いなのではないかとも思える。ただ「文化人」と呼んでやればいいのではないか。
 しかし、偏狭で小心者のSFは、自分の得たものを外に向けて発信することがひどく苦手なのだ。言葉は内側に向かうばかり。本物の文化人の集団であるかもしれないSF者たちは、自ら社会に対して壁を作ってしまう。
 時代を先どりしていたはずのSFは、いま日本でもっとも保守的な集団になってしまっている。

 そんな愛すべきSF者たちは、おそらく、少年時代から、普通ではなかった。ものを考えるのが好きで、知識への欲求が強く、テレビでたれ流される流行にはどうしても興味をもてない。そういう子供だったはずだ。
 そういう人々が、公約数として感じるはずのノスタルジーが、この話には確かにあったと思うんである。
 だから、SFというよりファンタジーなのに星雲賞なのである。
 少年時代の終焉とか、普通の小説として普通によくできた話だ。おもしろいものはおもしろい。そういう意味で、ちゃんといい小説である。だから誉めている。
『トーマの心臓』でも『ノーライフキング』でも、たとえば『スタンドバイミー』でもなんでもいいわけだが(もっといいのは『匣の中の失楽』というより『匣の中』だが)、ああいうのと、話は同じだ。アウトサイダーが読んだって、おもしろいものはおもしろい。SFファンにしかうけない話の領域は超えている。
 しかし、SF者にとっては、これは特別な感情を歓喜させる小説なのだ。
 使われている素材が、普通ではない。古今東西のSFはもちろん、宇宙論とか、経済学とか、シミュレーションとか、哲学とかそんなのばっかり。
 この主人公たちの話題がモーニング娘だったら、いかに時を駆ける少女が登場しようとも、SFにはなれない。高校生というのはぐだぐだといろいろと思い悩むものだろうが、この本の場合、その思索が、SF的なのである。
 たしかに、いまSF者をやっている奴らというのは、そういう子供だったんだと思う。そういうことをぐだぐだと考えて成長してきた。
 文化や知識のために膨大なコストを支払い、しかしそんなものが、役にたつとは限らないと気づき始めている。しかしあらゆることを深く考えてしまうことがやめられない。SF者あるいは文化人の卵たちの、青春時代なのである。
 ノスタルジーに星雲賞をあげることが得策かどうかは別の問題だが、ともかく、なにかそういう感情を感じてしまった本だ。
 あまりに個人的な印象が先走ってしまうからオススメとはいえないが、おもしろいのはまちがいない。少なくともSFの素質を持った人(排他的な表現だが)が読めば、多かれ少なかれなにかを感じるだろう。
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