遊星ゲームズ
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ボードゲームだけがゲームである
 ゲーム・論考

 ……ごめんなさいムダにセンセーショナルなタイトルつけてしまいましたが。

 去年末から、twitterやブログなどで少し盛り上がっていた話題がある。「ゲーム性とはなにか」だ。
 そう。この議論、もう何度も、さまざまな人に語られているにも関わらず、いまだ定期的に盛り上がっている。みんなゲームが大好きなのである。
 そんな議論を眺めていて、わたしはいつも、もやもやとした気持ちを抱えている(そうだ、わたしもゲームが大好きだ)。


 ゲーム性とはなにか。それは、ゲーム的である性質のことだ。つまり、これはゲームの定義の問題となる。

 ゲームとはなにか。

 これこそが、我々にとってつねにただひとつの問い、我々の祈りだ。
 しかし。永遠の問題ではあっても、現象としての定義づけは当然可能なのである。
 定義というのは決めごとのこと。(ゲーデルなどを持ち出さない限り)現実をそれなりに説明できるものを定めてしまえばいいだけのことなのである。

 ゲームの定義については、過去に多くの優れた理論がある。
 このサイトで何度も言及しているのは、コスティキャンのゲーム論だ。これは非常に優れたゲーム定義といえる。しかし今回は、イェスパー・ユールにしたがうことにしよう。
(Jesper Juul。デンマークの人なので、カタカナはこの表記にする)
 コスティキャンのゲーム論同様、ウェブで翻訳が読める。大変ありがたいことだ。

私が最終的に提唱するゲーム定義には、六つのポイントがある。
1) ルール: ゲームはルールに基づく。
2) 可変かつ数値化可能な結果: ゲームはさまざまに変化しうる数値化可能な結果を持つ。
3) 起こりうる結果に課せられる評価: 見込まれるゲーム結果のそれぞれに異なる評価が割り当てられるということ。ポジティブな評価もあればネガティブな評価もある。
4) プレイヤの努力: プレイヤは結果に影響を及ぼすべく努力を傾けるということ。(ゲームはプレイヤの手腕を問う、とも言い換えられる。)
5) プレイヤと結果の繋がり: ポジティブな結果が発生すればプレイヤは「幸せな」勝者となり、ネガティブな結果が発生すれば「惨めな」敗者になる、という意味で、プレイヤは結果と繋がっているということ。
6) 対価交渉の可能な結末: 同一のゲーム ルールセット は、現実世界への影響の有無と関係なくプレイすることができる。

(※上記リンク先からの引用だが、改行を追加した)

 少々言葉が難しいのだが。もってまわった表現を選択せざるをえなかったあたりに、苦労の跡が感じとれるとは思わないだろうか。
 そんな苦労の甲斐あってか、ゲームの諸要素をきっちり網羅しているというに充分な内容だろう。そう思っている。
 ただ、おそらくは……、世の中のほとんどの論者にとって、この定義は厳しすぎる。
 じっさいのところ、この定義はかなり厳しい。
 そのためユールは、この定義の一部を満たさないものを「ボーダーライン・ケース」と呼んでいる。境界領域であるとするのである。
 また、ゲームは変容するものだと書くことも忘れていない。そのあたりの柔軟さが、この論の特徴だ。
 なぜそんな柔軟さを確保しなければならないか。
 それは、世の中のほとんどの「ゲーム」と呼ばれるものが、厳密な定義ではゲームでなくなってしまうからだろうと、わたしは思う。
 では、世の中のほとんどのゲームとはなにか。ユールが、自分の論に例外を許してまで「ゲーム」に含めたかったものとはなにか。
 それは、コンピュータゲームなのである。
 いまや、ほとんど世界中のどこへいっても、ゲームといえばコンピュータゲームのことだ。本来あるべき意味とは関係なく、いわば市場の要請から、ゲームに関する理論はコンピュータゲームを扱わざるをえないのだ。

「ゲームはコンピュータゲームによって歪められている」

 これまたムダにセンセーショナルな表現でいえば、そういうことになる。


 コンピュータゲームは本質的に、ゲームである必要がない。
 まず、目的が確定できない場合が多い。コスティキャンがシムシティを例に挙げて語るとおり。同じ問題について、ユールが「無期限シミュレーション」と呼びボーダーライン・ケースとしたとおり。
 また、選択肢が一回もないノベルゲームが「ゲーム」を冠しているということもある。
 ほとんどのコンピュータゲームは、厳密な議論ではゲームから外れてしまうのではないか。
 あくまで狭義のゲームを守るとするなら。コンピュータゲームは「玩具」なのである。
 じっさいこれは「コンピュータは道具である」という自明の理屈をいいかえたにすぎないわけだけれど。
(※ゲームであるコンピュータゲームももちろんあります)

 しかしだ。それでは、ゲーム定義は不可能なのか? あるいは無意味なのか?
 いいや、そんなことはぜんぜんない。
 ユールの定義は、あるいはコスティキャンの定義は、ボードゲームの多くが生み出す現象を、明確に説明できる。考察を深めれば、ボードゲームデザインの役に立ちさえするだろう。
 狭い定義を採用したとしても、多くのボードゲームはゲームの土俵に踏みとどまることができる。
 いわば、最大限に「狭義の」ゲームでかまわない。「ボーダーライン」など必要ない。ハハハッ。それでも、我々ボードゲーマーには多くのゲームが残されているではないか。
 じっさい、もっと厳しくてもいいくらいだ。
 たとえば「プレイヤー人数は必ず2人以上必要である」という条項を入れれば、議論がかなり整理されるだろう。あるいは「勝敗を決めること」を明記してもいい。
 コンピュータゲーム以外はどうだろう。TRPGは? もちろん、ゲームではない。ボードゲームの中にも、ユールの定義を満たさないモノがあるではないか? もちろん、それらもゲームではないのだ。
 それでいいではないか。

 ゲームという言葉に関する議論を眺めながら、わたしがずっと抱いていたもやもやの正体は、これである。
 ゲームを定義すればいいではないか。定義から外れるものは外せばいい。
 それでも、少なくともボードゲームを語ることはできる。
(あと、TCGと、2人用アブストラクトゲームの数々も語れるだろう)
 ゲームから外れたものは?
 わたしは「ゲーム」と「遊び」をつねに区別している。ゲームは常に遊びだが、ゲームでない遊びはいくらでもある。
 ゲームでないものは、遊びとして語ればいい。それも重要な議論だ。
 そちらの方面については、ホイジンガやカイヨワが役に立つだろう。


 ボードゲームは「狭義の」ゲームを語ることができる。ボードゲームに立脚しさえすれば、定義論のラットレースから逃れその先を語れる。
 例えば、マルチゲームに関する諸問題について。あるいは、ゲームが成立するための条件について。ゲームを成立させるインタラクションとはなにか。運とはなにか。
 そうしたことを、ボードゲーマーたちはすでに、実感として感じとってさえいるだろう。コンピュータゲーマーたちが知らないことを、ボードゲーマーはすでに知っているのである。

 ボードゲームだけがゲームである。

 いささか……ムダに挑発的ではあるが。我々は自信を持って、そう思ってもいいのではないか?
 そして、議論を続けるコンピュータゲーマーたちを横目に見ながら、粛々と、その先の世界を語ってもいいのではないか?

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