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成立していないが楽しめるということ
 ゲーム・論考

 ゲームを論ずるとき「成立していない」という言葉をよく使う。「ゲームになっていない」に近い意味だが、それよりは弛い意味になるだろう。評価が低い順に並べるなら、こうだ。

  • 遊べない
  • ゲームになっていない
  • 成立していない
  • バランスが悪い

 よく使うとはいいながら、なかなかにずるい表現だ。なにしろ、なにが成立していないのか、目的語を省いている。つまり場合により意味を変えて使うことができてしまう。
 でも、このあたりの微妙なニュアンスが必要な場合というのは多い。言葉の意味としちゃ「ゲームになっていない」と大差ない気もするのだけど、あえて言葉を変えて少し和らげたのだから、なにか気分が違うということだ。
 問題ある言葉ではあるんだけど、他人の口から聞くのも嫌いではない。少なくとも「おもしろい」「つまらない」の二元論に陥りたくないという気概が、間違いなくある、そうでなくば出てこない言葉だ。

 と、こんなことを書いていても、伝わらないと思うのだ。昔この言葉を使ったとき、わからないといわれてはたと気づいたことがある。自分ではそれなりに明確と思っていたのだけど、考えてみればそんなことはない。
 だから具体例を挙げたい。『ヒュペルボレア』というゲームがある。
 このゲーム、あまり高く評価できるものではない。その理由は、ゲームシステムが成立していないからだ。
 最近なんだか流行のいわゆるバッグビルディング、つまりカードの代わりにコマを使い、デッキの代わりに巾着袋を使ってデッキと同じことをやるゲームなのだけど。この肝心のバッグ構築部分のシステムが、ほぼ機能していないという、なんとも問題作だ。
 このシステムが機能していないということを「成立していない」と呼んでいる。
(ちなみに、他の人は別の意味で使っているかもしれないから注意してほしい)
 機能していないとはどういうことか。このゲーム、デッキを構築することで自分が有利にならない。巾着袋にコマを投入していくのだけど、どう計算しても、ほとんどの局面で、巾着袋内のコマが増えると損をする。
 デッキ構築ゲームを知っているプレイヤーならわかると思う。コマは6色ほどありそれぞれ機能が違うのだけど、強さに差がない。つまりすべてのコマが、ドミニオンでいう銅貨だ。機能の差こそあれ。銅貨をいくら増やしてもデッキは強くならない。デッキ構築ゲームには銀貨が必要なのだ。
 その上。一般的なデッキ構築ゲームと同じくヒュペルボレアも、山札が尽きたら捨て札を山札にするのだけど、このとき、さらにボード上の行動済みのフィギュアを未行動状態に戻すことができる。つまり、山札(巾着袋内のコマ)が尽きるたびに追加のアクションが与えられる。早く尽きたほうが得なのだ。巾着袋にコマを投入したらシャッフルの間隔が長くなるわけで、やはり、損だということになる。
 わざわざ採用したシステム、しかも誰の目にもゲームのコアに見えるメカニクスが、まるごと、意味をなしていないのである。はっきりいえば、計算ができていない。ゲームデザインにどうしても必要な素養としての数学が、足りていない。そうでなければ、こんなシロモノができあがるはずがない。
 成立していないゲームはたくさんあるものの、ここまで明確なものは珍しい。そういう意味では稀有だと思うし、そんなところが、じつは好きだったりもするのだけど。
 なんとなく、わかるだろうか。成立していないという言葉の意味はそんなところだ。
 ゲーム全体が成立していなければ、たぶん「ゲームになっていない」という。そうではなく「成立していない」というのは「ルールの一部がゲームに寄与していない」といいたい場合が多いと思う。自分の場合たぶん。

 脇道だけど。人はゲームを遊んだとき「おもしろい」「つまらない」のどちらかを使う。これ、たいていは、ゲームに向けられた言葉ではないと思っている。実際の意味は、その人にとって「味方」か「敵」かだろう。
「敵」になる要因は、ゲーム外にもいくらでもある。作者が嫌い、ジャンルが嫌い、見た目が嫌い、同卓したプレイヤーが嫌い、ネットで悪評を見た、○○さんがつまらないといっていた……。
 特に、複数人で顔を突き合わせて会話しながら遊ぶのがボードゲーム。ゲームに触れると同時に他人の評価にも触れてしまうというのは、危険な環境だ。影響されるなというほうが難しい。
 言葉少なに語られるそうした感想は、ほとんどの場合、おもしろさもつまらなさも示していないと思う。政治や宗教の話くらいに考えたほうが近い。
 ゲームを表現する言葉は、そんな単純な二元論ではないはず。あるいは、ゲームを示す表現であることを証明するためには、どうしてもある程度以上の長さの文章が必要になる。
 そういえば「ノットフォーミー」という言葉もある。
 言葉の中に「me」があるとおり、最初からゲームの話を拒否し自分の話をしている。もともと自分の感想でしかないのなら、絶対評価のように「つまらない」を使うよりはるかにフェアだろう。そういう意味で、使い方を間違えなければいい言葉かもしれないと思う。
 でも、二元論として使うのなら同じことだ。ゲームではなく政治か宗教の話。
 どんな言葉でも同じ。「バランスが悪い」も「クソゲー」も、二元論つまり敵味方の判別として使われてしまったら、すべてが同じ意味になってしまう。
 ゲームを語るには語彙がいる。
「成立していない」は、その語彙の一部だ。
 ここでなにがいいたいかというと。敵味方の判別のために言葉を使うつもりはないということだ。
 長々と余計な話を書いたけど、やっと本題に入る。それでもわたしはヒュペルボレアが楽しいのだと、そういう話をしたい。

 ヒュペルボレアには問題がある。それは上に書いたとおり。だが楽しみかたはある。バッグビルディングを無視することだ。
 巾着袋の中のコマは、ゲーム終了時に1個1点になる。だから無駄ではない。ただ、ゲーム序盤にやってしまうと損をする。だから、ゲーム終了間際になるまでは決してコマを増やさない(正確にいうと、調整のために少しだけ増やしたりはする)。
 さらに。技術カードもあまり取らないほうがいい。技術カードを獲得することでできるアクションが増えるのだけど、そうすると代わりに灰色のコマが1個巾着袋に投入されてしまう。灰色のコマは能力を持たない、ドミニオンでいう「呪い」だ。そしてこのゲーム、コマを取り除く手段、いわゆる圧縮が極めて少ない。
 技術カードは全体に弱すぎる。灰色のコマが1個増えるリスクに釣り合う能力はほとんどない。このあたりも、ゲームデザインとしての計算を間違えている。本当に強いごく一部のカード以外は取らないほうがいいのだ。
 罠、という言葉をよく使う。たとえばドミニオンでアクションカードを取りすぎてしまうというような、初心者がついやってしまうのだけどじつは勝利を遠ざけるプレイのことだ。その罠が、ヒュペルボレアには極端に多い。しかもメカニクスの根幹から罠なのだから始末に負えない。
 でもプレイヤーとしては、罠と認識したならそれを避ければいい。ドミニオンだってテラミスティカだって、プエルトリコだってカタンだって罠はある。罠があるからといって傑作ゲームになれないわけではない。じつは少しあるくらいのほうが、攻略する楽しみは大きくなったりもする。
 罠ルートを回避し、コマは最終ターンまで増やさない、技術は吟味した数枚以外とらない、そういう戦略をセオリーとしてしまえば、ヒュペルボレアは意外と成立している。ちゃんと楽しめるのだ。
 考えてみれば、ずいぶんと余分なルールがあったものだ。バッグビルディングと技術カードという大きなメカニクスを省いても、まだゲームが成立しうるだけの内容が残っているのだ。
 ボード上のフィギュアを増やし、動かし、亡霊に支配された都市や遺跡を占領する。そうすることで追加のアクションを得たり、勝利点を得たりする。他のプレイヤーを攻撃してもいい。シヴィライゼーションのような4Xゲームとしての体裁はちゃんとあるし、じつのところ、攻撃の報酬などよくできている部分もある気がする。
 フィギュアを街に送りアクションを行うシステムはおもしろいし、遺跡で見つけた財宝に一喜一憂するのも楽しい。地形と他のプレイヤーの動きを見て進出ルートを考えるのも楽しい。さらに、プレイヤーごとに違う種族能力もある。バッグビルディング部分は、構築としての意味は大部分が損なわれているのだけど、手番ごとの行動にランダム性を与えままならなくする意味はあり、機能してもいる。
 わたしには、これが楽しい。このゲームにしかない体験もあると感じている。

 成立しているけど楽しめないゲームはたくさんある。成立していない上に楽しめないゲームはもっとある。そして、ルールの大半が成立していないが楽しめるゲームというのも世の中にはある。自分にとってヒュペルボレアはそういうものだ。
 5点満点で評価するなら、1点。はっきりいえばクソゲーだ。でも嫌いじゃない。ゲームは敵でも味方でもない。そういうことを表現するために、いろんな言葉を使うよねという話。

 ちなみに。そうしてけっこうな手間をかけて楽しめる状態になったヒュペルボレアというゲームは「バランスが悪い」のだけど、それもまた一興。


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成立していないが楽しめるということを