たいていのゲームでは「得点がもっとも高いプレイヤーの勝利です」とかそんなことがルールに書かれている。たかが遊びに、なんとも押しつけがましいことだが、勝者を決める方法が指定されているわけである。
これはまったく困ったことだ。プレイヤーは3人以上もいるのに、字義どおりに解釈すれば、勝者は一人しかいないことになってしまう。
こんなふざけた話はない。4人のプレイヤーでボードゲームをしたとするなら、そのうち3人は敗者なのだ。場合によっては数時間もプレイして、トップまであと1点の2位というところまでがんばったのに、それがまったくの無価値だというのである……。
さて。けれど、なにしろルールに書いてあるわけで、ということは「勝者一人」はゲームそのものの一部なのだ。
逆にいうと「勝者一人」でなくしてしまったら、それはもうまったく別のゲームということになってしまう。
でも、本当にそうか? たった一人の勝者以外は全員が等しく敗者なのか?
と、よくあるそんな話。
先に書いておくけど、あんまりたいしたことは書かないです。結論はないのです。
勝敗について
「得点がもっとも高いプレイヤーの勝利です」
としか書かれていない場合。2位には価値がないのだろうか。
端的にいえば、ない。
だってルールに書いてないわけで。
しかし、一般的に人間の心情としてはどうか。2位なら「惜しかった」という感想になるのが普通だ。
ルール上は、2位だからといって惜しくはない。2位と3位は等しく敗北なのだから、価値の差はない。
「惜しかった」というのは、2位という結果に、ルールに書かれていない価値を見出している発言といえる。
別の理由からも、2位は惜しくないといえる場合がある。
これはわたしの経験からということになるが、2位を目指したプレイと勝利を目指したプレイとは別のものだ。
リスクをとらず、おそらくはトップのプレイヤーと協力したほうが、2位はとりやすい(むろんゲームによるけど)。この場合、彼はおそらく、勝者になる可能性を狭めるプレイを選択している。なにしろトップと協力してるんだから、逆転できない。
結果は2位でも、勝者になる可能性は極めて低かったことになる。ちっとも惜しくない。むしろ、トップのみを目指す立場から見れば、2位になってしまったほうが恥ずかしいかもしれない。
あえて惜しい人を捜すなら、結果から見て、勝者になる可能性の高かったプレイヤーである。
ただし、それを特定することは、多くの場合難しいわけだけど。
ルールブックの勝利条件からいえることは、つまり。
「2位に価値はない」
逆に、2位を「惜しい」と思う感情は、ルールに起因するものではない。
ルールに書かれていないのについ口にしてしまうわけだから、これはもう人間の本能なのだろう。ルールよりも本質的なこと、といういいかたもできる。
そんなことをふまえて、では勝利条件がなかったとしたら。
順位の価値はルールに書かれていない。しかし、順位を上げたいという感情は人間の本能らしい。
だからやっぱりプレイヤーは、勝利条件にかかわらず、3位よりも2位に価値を見出すのではないか。
たとえば、カタンを考えてみる。
勝利条件がなかったら、つまり「1時間後の得点×1000円を誰かにもらえる」とでも設定してみた場合を考えよう。
とその前に、通常のカタンのことを復習しよう。
カタンでは通常、次のような展開がおこる。
これが、勝利条件がない場合だと以下のように変わりそう。
これ自体微妙な問題ではあるけど。攻撃をしたら、次から相手は交渉に応じてくれないかもしれない。それでは困る。
それ以上に、盗賊でとめた資源は、交渉すれば自分のものになりうる資源なのだ。交渉の前提がある以上、攻撃は損なのである。
ようするに、交渉のリスクがなくなる。相手が自分以上に伸びても、自分が得をすればかまわないわけだから。
(→の例外があるとはいえ)基本的には、交渉でお互いに得をしていこうという戦略で間違いないと思う。
この協調戦略が多数派の局面では、いったん攻撃を選択してしまったら他の全員が敵になってしまいかねない。暴れるやつは全体の利益を損なうわけで。
したがって、攻撃はできない。たぶんプレイヤーたちの協議で作られる協定にしたがい、粛々と得点を伸ばすことになる。
カタン島はひどく平和になる。
……はずだ。
だが、プレイヤーの感情からいえばそうでもない。かもしれない。
いろいろあるけどなんといっても、最下位のプレイヤーが、もはや逆転できないから暴れるということがありそうだ。自分が三千円しかもらえないのに他のプレイヤーが一万円ももらうのは理不尽、という言い草でだ。
この行動は他人との差、つまり順位を見ている。たぶん損なんだが、現に、ゲームの中でも外でも、そういうことする人いるよなと。
本当は、それを防ぐために上位が下位を援助しなければならないわけだけど。暴れるプレイヤーがいたとしたらそれは協調が足りないといえるわけだが、残念ながら、そんなことは考えもしないプレイヤーがいてもなんら不思議はない。
以上のようなことは、あくまでカタンというゲームを前提にした議論だ。これが他のゲームなら、また違った展開を考えなければならない。
たとえばもしも、攻撃で得られるメリットが交渉よりも大きければ、話はまったく逆だ。勝利条件の有無にかかわらず、戦乱のカタン島になるだろう。
そもそも攻撃手段も交渉もない近ごろのゲームだと、話はさらにシンプルになる。勝利条件があろうとなかろうと、やることにあまり違いはなさそうだ。(おそらく、そういうふうにデザインされているのだと思う)
というわけでゲームによるわけだが、まあ少なくともいくつかのゲームでは、カタンの場合と同じことがおこる。勝利条件があるのとないのとではまったく違う。
にもかかわらず、やはりプレイヤーは、どこかで順位を考えそうだと思う。
けっきょくのところ、ルールには一人の勝者のことしか書かれていない。ならばやはり、こうした議論の上では、こういうしかない。
「2位は無価値」なのである。
でも、プレイヤーの本音は違う。
ゲームの結果はゼロサム(価値の合計はつねにゼロ)と仮定しよう。ゲームの結果に得点をつけてみることにしてみる。
「勝者一人」の場合、プレイヤーが4人なら
となる。
もしも順位に価値を見出すなら、たとえば
とか? あるいは
なんて人もいるかもしれない。というかこれに近い人は実際よく見る気もする。
わたし自身は……どうかなあ。主張はあくまで「2位無価値」だけど、順位に価値を見ていないとはいいきれない気もする。
この得点のつけかたが、人それぞれなのである。おそらくは人それぞれに、無意識の順位点をつけている。
しかしだ……。
ていうか、この得点はいったいなんの点?
……そんなことを考えはじめると難しい。
ゲームはもう終わってるんだから、ゲームの点ではない。ゲーム外、つまり現実世界のプレイヤーその人に与えられた得点……とでも考えるしかなさそうだ。
もちろん実際は、ゲームを離れた現実には勝利条件がない。得点の意味も定められていない。
ならば、得点をつけられても困る。というか無意味だ。
冷静にいって、この先はもうゲームの話ではない。
それぞれの人間の人格のなんだかに関する話だ。わたしはこれをゲームの文脈で話したいとは思わない。そういうの議論すると荒れるし。
というわけで、ここでは結論は「なし」なのである。
どうしても教えてほしければ……人生論を語りたがる年寄りか宗教家にでも聞けば?
あるいは、自分で考えろとか。なんかずいぶん無責任な話でもうしわけないです。
「得点がもっとも高いプレイヤーの勝利です」の場合のことしか書いてなかった。
世の中には、順位の決めかたが書いてある親切なルールブックも、たまにはある。その場合はどうなのか。
といっても、追記すべきことはあまりない。
たとえば
「……以下、2位、3位とつけていきます」
とちゃんと書いてあったとしても、上の議論はなりたってしまうのです。だってその順位の価値が明示されていないわけだから。
それに、もともと、1位のことしか書いていないルールのもとでも、プレイヤーは勝手に順位を考慮している。同じことだ。
じゃあたとえば
「1位10点、2位8点、3位6点、4位5点……」
と書いてあった場合。
実はこれでも問題は解決しない。この得点をどう使うのか書いていないからだ。
たとえばF1レースのように、シーズンの累計ポイントで勝者を決めるとしたら。これは、そのシーズン全体を1ゲームと捉えなおすと、議論はもとに戻ってしまう。
実際のところとしても、数ヵ月後にそのゲームをもう一度プレイするとき、前回の得点を憶えているだろうか。憶えていたとしても、きっとメンバーが入れ替わっている今回のゲームに、前回の得点はどんな意味を持つだろう。
与えられた得点はなんの意味も持たないまま与えられっぱなしなのだ。
そもそも「10点」と「8点」の差はどれくらいなのだろう?
算数的には2点だけど、人間の認識的にはよくわからないのだ。それでも1位だけを目指す人はいるだろう(わたしはたぶんそう)。
たとえばF1レースの得点では、3位と4位には1点の差しかない。それなのに「表彰台に上がったかどうか」には重大な価値の差があるかのように扱われている。