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重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム15年史 4
 ゲーム・論考

 いちおう最後まで書かないとねえということで。
 いまさらプエルトリコの話なんてもう書きたくないなー。

.プエルトリコ

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 かつて一世を風靡したゲームだ。これが重要だったことは疑いないとして。
 なにが重要だったかというと、じつのところよくわからないところもある。単純に複雑だったから? 複雑化の過程はカタン以後ずっと続いていたけど、それをさらに、一気に押し進めてしまったのがこのゲームだ。
 といっても、ただ単にルールを増やしただけではこれほどの人気は出ない……、いやこのゲーム、単にルールが増えてる部分もけっこうあるんだけど、増えた以上に整理されている。そこがよかった。やることはつねに役割選択だ。基本的にはすべてがそこに集約されている。ここまで徹底して集約したから、複雑なゲームを成立させることができている。
 このゲームがワーカープレイスメントだといわれることが、ときどきあったりする。それは違うだろと思うけど、でも、深読みするならわからないでもない。
 役割を早い者勝ちで選ぶというこの構造は、ワーカーが1個しかないワーカープレイスメントだといえばそのとおり。「早い者勝ちシステム」という言葉があったとしたら、プエルトリコもワーカープレイスメントもその枠に含まれることになる。ゲームシステムの集約・圧縮率の高さは両者に共通するもの。プレイヤーのプレイ感にも通じるものはある。そう、たしかに、同じものなのだ。プエルトリコがワーカープレイスメントの礎だったことはとてもよく納得できる。
 このゲームでもうひとつ重要なのは、やっぱり、建物の特殊効果だ。すごくたくさんの建物がテーブルに並び、それを選んで建てる。このゲームの最大の特徴はたぶん、その建物が場に全部出ているというところだろう。
 こんなにたくさんの選択肢を最初から場に出してしまうというのは、当時もいまもセオリー外のデザインだと思う。しかし、プレイヤーが感じる自由度は高い。
 最初から全部場に公開して「さあ選べ」とやってしまった。乱暴な話だ。ふつうなら、山札からめくるとか手札にするとか、いろいろ誤魔化すのだけど。
 公開されているからこそ、きりっと輪郭が際だった、プレイヤー自身が責任を持って選ぶ選択肢になっている。

 余談だけど。プエルトリコのカードゲーム版であるサンファンは、そういう意味では退行版ともいえる。いわゆる「運ゲー」などという言葉が使われるのはサンファンのほう。だがじっさいにはサンファンのほうが実力差が出る、なんて話は当時このサイトにも書いている。
 サンファンの場合、山札の中身や乱数による局面への対処法をたくさん知っているほど強いという側面がある。プエルトリコも同じだが、なにしろ全部公開情報だから、他のプレイヤーの戦略をコピーすることができるし妨害することもできる。そういう意味で、公開情報というのは、インタラクションを強め「プレイヤーによるバランス調整」を促進する効果がある。
 そのへんはドミニオンにつながるところが、ないともいえない。

.郵便馬車

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 はっきりいえば、いうほどおもしろくないんだけど、まあ賞を獲ってるし。
 このゲームでいいたいことは一つ。短時間ゲームであるということだ。
 複雑化していったドイツゲームなのだけど、もちろん、シンプルで短時間のゲームとかパーティゲームとかはつねに登場し続けている。でもそれは、複雑なゲーマーズゲームとは市場が違う世界の話。というか規模でいったらゲーマーズゲーム側のほうが寄生してる立場だけど。
 そういう2極化なんて話が出てきたのも、カタン以後の歴史では重要なところだったりするだろう。
 で2極化していたので、間を埋めるゲームが必要になったりもする。ゲーマーズゲーム的な複雑さのおもしろさを持ちながら1時間以内で終わる短時間ゲームが、必要になっていたのだ。
 このゲーム、コンポーネントはいかにもゲーマーズゲームっぽい細かいチットがたくさんなんだけど、拍子抜けするほどすぐ終わる。といっても1時間弱はかかるので、いまの基準でいったらそれでも長めかもしれないけど。
 ある程度複雑なゲームをムリヤリ短時間に収めた結果どうなったかというと、逆転できなくなった。なにしろそんな時間がない。トップに立ったらそのままゲームが終わってしまう。スプリント勝負のゲームになったのだ。
 一般に、ゲーマーズゲームには逆転可能性というのが必要といわれていた。そんな通説を完全スルーしてしまっているんである。
 そしてそれが、世の中に受けいれられてしまった。
 当時あの年でなければ成立しなかった話なんじゃないか。もう少し前なら駄作といわれたかもしれないし、もう少し後から見ればちょっと洗練されていない。時代性の狭間の、奇形ゲーム。ある意味で奇跡的なゲームなんじゃないか。
 このゲームが教えてくれたことは、すぐ終わることは武器だということ。時間が短ければ逆転できなくてもいいんだということ。いわゆるバランス調整よりも短時間化のほうが重要なんだということだ。
 このゲームの前後くらいから、こうしたゲームが増えていった。時間は短くなり、逆転できなくなった。
 付け加えるなら「ソロプレイ感」などという言葉がもっとも使われていたのもこの頃じゃないだろうか。なぜソロプレイ感なのかというと、これも短時間化のためだ。インタラクションが強いと悩むところが増えるので、プレイ時間が延びるのである。卵が先か鶏が先かは知らないが、とにかく、短時間化と並行して「ソロプレイ化」も進んでいくことになる。
 いまから見れば、郵便馬車なんてインタラクション充分あるじゃんと思うくらいだったりもする。



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