数回やったが、まだよくわからないという感じがしている。得点の稼ぎかたが、初見の直感から外れていたことに気づいたからだ。
未開の海域に、探検船が次々と現れる。船が進むと海タイルがめくられ、陸地を発見するとそこに探検隊を派遣する。島が完成(海岸線が完成)したら、島の面積に応じて、その島に派遣している探検隊の数に応じて得点が入る。
探検ゲームの基本といっていいルールだ。わかりやすい。
各プレイヤーのターンには、ボードの外延のどこかから船を出す。そして、この航海にいくらのお金を投資するかを、先に宣言する。船を進めるためにはまずタイルを置いて航路を作らなければならないわけだが、そのタイルを置くために、金がかかるのである。
裏向きの山からタイルをとるなら1円、表向きの山からなら4円かかる。
タイルは1枚ずつめくられ、めくられたタイルは、船のとなりの空いているマスに置ければ置かなければならない。そして、船はそちらに進む。
もしもそこに陸地があれば、そこに探検隊を派遣して航海を終わらせることができる。資金がまだ残っているなら、探検隊を派遣せずにそのまま航海を続けてもいい。ただし船は後戻りできないので、これをやってしまうとこの航海が無駄になるかもしれない。
金をかければかけるほど遠くの島を目指せる。またタイルが置けなかった場合は(海岸線が矛盾するとき)金が残っていればもう一度めくれるので、確率を高めることもできる。でも運を信じれば金をかける必要はなくなる。
置かれた探検隊は歩かないので、発見できるのは海岸線だけ。
そうやって次第にこの謎の海域の姿がわかってきて、島も全容がわかり、プレイヤーに得点も入っていく。そういう感じのゲームだ。
とりあえず、つまり、探検家を派遣した島の面積が大きければ大きいほどいい。ただ大きな島にはたくさんのプレイヤーが絡んでくるので、1位をとるのは大変になり、それより自力で小さな島をいくつも完成させていったほうが得かもしれない。そういうジレンマと他プレイヤーとの思惑のからまりがある、とりあえずはスタンダードで、いいルールだ。
なにより、理解しやすい。要はボード上で見た目に大きな島のほうが得点が高いのだ。ボードは限られているわけだから、皆が大きな島を意識せざるをえないわけで、これで自然にバランスが調整されるわけなのだ。
だから、ここまでなら、「まだよくわからない」なんてことはない。
続きがある。
完成した島に配置されていた探検隊コマはとりのぞかれ、ボードの横にある族長小屋の小道に配置される。海の次は陸地の探索に移るのである。
これはつまり、原住民だ。原住民は、ゲーム終了時に得点をくれる。
族長小屋は全部で7個あり、それぞれについて、小道に最もたくさんの探検隊コマを配置していたプレイヤーに得点が入る。この得点は5点から15点のランダムで、隠されて置かれており、ゲーム中は一部のプレイヤー(最初にその族長を訪れたプレイヤーと、あと一人)しかその内容を知らない。
この得点、実はかなり大きい。15点を獲得してしまったプレイヤーと5点のプレイヤーとでは、10点の差がつく。メインボードでいえば島タイル10個分なのだ。また、島の完成では2位にも得点が入るのに対し、族長は一人にしかくれない。
勝利ラインは展開によって違うだろうが、70〜80点くらいだろう。そんなところで、族長小屋に力を入れているプレイヤーが運にも味方されれば、30点を稼がれてしまうのである。そうなればまず絶対そいつが勝つ。
つまり、実は航海で大きな島をうまく完成させることよりも、族長に得点をもらうことのほうが重要なんではないのか。
いまわたしは、このあたりにいる。
実ははじめは気づかなかった本当の勝ちかたに、ようやく気づいたところだ。
だから、まだよくわからないのである。
この先また幾度かプレイしていく中で、たぶん、わたしの周囲の参加プレイヤーがみんな族長小屋を目指す(つまり小さな島をできるだけ早く完成させる)展開が起こるだろう。だがそうなったときの結論は自明。「運がいいやつが勝つ」である。
そこで、例外を発見できればいい。みんなが族長小屋を目指す中で、一人大きな島を探索しつづけると他のプレイヤーの得点を超えうるんだとか。そういうことになれば、このゲームは傑作だったということになり、「終わらせる」必要がなくなる。
もしもこういった例外がないことがわかれば、なにしろ族長小屋で得点をとれるかどうかは単なる運なのだから「ニューエントデッカーは運ゲーだった」と結論して、もうこのゲームをやらなければいい。
というわけで、まだ結論が出ていない。だったらレビュー書くなよという話もあるけど。実はそんなにプレイする機会が多くなくて、結論までいけるかどうかわからないのよね。
2005.8.16 てらしま
発売から二年近くもたって書くことじゃないかもしれないが。実は買ったままいままで忘れてたのだが。
べらぼうにおもしろいのだ。
殺人事件の容疑者はエイリアン!
ってあらすじはそれだけなんだけど、アメリカの陪審員制度やいまも残る人種差別や、人間の身体の構造や進化論や宗教や、ともかく様々な問題が絡んでくる。
なぜそれほど色々書かれなければならないかといえば、それはこれがファーストコンタクトの話だからだ。エイリアンはもちろん地球の人間とはまったく違う環境で進化してきたんだから、生物学的にはもちろん、哲学も宗教も社会構造もすべてが根本的に違うのである。しかもそれを裁判にかけるのだから、そうしたあらゆる問題を考慮しながら審議しなければならない。
「真実を述べることを神に誓います」といったところで、真実と嘘という概念がエイリアンにあるか、神の存在を信じているのかどうか、というところから確認する必要がある。エイリアンが殺人を罪と思わない可能性だってある。
果たして陪審員はエイリアンに対して正当な判断を下せるのかとか、エイリアンは裁判費用をどう支払うのかとか、。
ばかばかしい話といってはいけない。いや、いってもいいが、それはワレワレSFファンがゴジラ映画を見ていうような、愛情のこもった言葉でなければならない。
たしかにばかばかしい。しかし、異星人とのファーストコンタクトが本当に起こったとして、それがばかばかしくないはずがない。『未知との遭遇』の音楽とライトによる交信だって、考えてみればばかばかしい。でも感動的だった(まあここではそうしておく)。その意味では『2001年宇宙の旅』はちょっとできすぎだった。
なにしろ異星人なのである。
この本に登場するのは、肩から生えた脚と、腹と背中から生えた腕を持つ種族である。目は前に二つ後ろに二つ。頭には犬のしっぽみたいに揺れて感情を表現する毛が生えている。
そんな生物が、都合よく人間と理解しあえるはずがあるだろうか。いろいろな理解不能の問題があるはずだ。
この異星人の身体的特徴がまずあり、そこから、この種族の文明、歴史、宗教、哲学などを演繹してく。もちろんそんなたいそうな問題ばかりではなく、このエイリアンが座れる椅子の形だって人間とは違うわけである。もちろん法廷にはエイリアン用の椅子をよいしなければならない。
余談だが、ソウヤーはわりと椅子にはこだわる。それは、収斂進化などというご都合主義では測れない、宇宙生物の自由な進化を描こうとする上でのことだろうと思う。宇宙にはいろんな生物がいたほうが、楽しいということだ。それも、たくさんいたほうがいい。この本のエイリアンは、なんとも楽観的にも、もっとも近い恒星であるアルファ・ケンタウリからやってくる。アルファ・ケンタウリに知的生命がいるならば、宇宙にはものすごくたくさんの宇宙人がいることになる。なんとも楽しい宇宙ではないか。宇宙は楽しいほうがいい。
そういったファーストコンタクトのおもしろさが、ちからいっぱいつめこまれた本なのである。
そんなエイリアンを理解しようとする手段として、裁判というのは悪くないかもしれないではないか。いかにも人間らしく愚かしいやりかただが、人間の理知を注ぎこむことができる舞台でもあるかもしれない。
ついさっきまで異星人との感動的なファーストコンタクトをやってたものがだ。裁判が始まってみれば、もうまるで異星人がちょっと有名な被告と同じ程度の感覚で話が進み始めるのである。マイケル・ジャクソン裁判と似たようなもの。このあたりはばかばかしいのだが、実にリアルでもある。
宇宙人だって知的生命なわけで、そうならばもちろん被告になりうる。というかたぶん、人間はその方法しか知らない。そう納得できるだけの材料が、ちゃんと描きこまれている。
その法廷。陪審員の選定から始まり実に細かくリアルに描かれていくわけだが、そのうち異星人が証人席に現れたり、異星人の精神が人間の法律に照らして正常といえるのかどうかとか、異星人の脱皮について説明しだしたりとか、たまらない場面が次々と現れる。
かたちは法廷ドラマなのだ。
法廷ドラマがおもしろいことはみんな知っている。少なくともアメリカ人は大好きだ。この本も、半分くらいが法廷の場面に費やされている。ちゃんと組みたてられていれば、それだけだっておもしろいのだ。
しかもそこに、実に上質のファーストコンタクトがからむ。ソウヤーらしい、非常に細かい考察に裏づけられたバカ話。サービス精神たっぷり、SF魂たっぷりの傑作だ。
2006.01.24 04:14 てらしま
強く薦められて、まあそういえば気になっていたシリーズなので読んでみた。
それで、いきなり冒頭の装飾過多な描写に「うわ」と思う羽目になったわけだけど。それもまあなんとか慣れた。こういうのは不思議と、慣れればなんとかなっちゃうものだし、逆に特徴として認めることができてしまうものだ。
余談になるが、ライトノベルを読むときは、絵を無視することに決めている。
絵にイメージを規定されてしまうのが本読みとしてなんか悔しいから、ということになるだろうか。というよりも、絵を見てしまうと読む気がなくなってしまうことがあるからだ。
絵の力というのは白筋である。無酸素運動の、マッチョな瞬発力だ。一瞬でイメージを与えてしまうことができる代わりに、普通は、持続力がない。
対して、もちろん、文章の力は赤筋である。有酸素運動、長距離ランナーの強さだ。ライトノベルであっても、最低30分間は持続できなければならない。
マラソン選手にムキムキのマッチョはいない。逆に、マラソン選手の細い身体は百メートル走に向かない。
表紙絵で買う、なんてことが常識といわれてしまっているライトノベルだが、そもそも、絵と文章というのは相容れないのである。
しかし絵の瞬発力は強い。一瞥しただけで、印象が強く残ってしまう。だから、イメージに合わない絵を見てしまうと、文章のほうを読めなくなってしまう。
というわけで、絵は可能な限り無視しなければ小説を読めないのだ。気に入った絵があるなら、小説とは別に挿絵ページを追うことにしている。
わたしにとってこれは、そんなことを強く意識してしまう本だった。
ライトノベルにはだいぶなれたつもりだったが、やはりまだラノベ読みの人たちと同じ読み方はしていないかもしれないなと実感した。
といっても、文章が絵に合わないわけではない。むしろ、合っているのかもしれない。このパンク系の絵柄は、たしかに、装飾過多な描写に合っているだろう。ただ単にわたし個人の問題として、この絵を見ながら小説を読むことはできなかったのだ。
あっけらかんと伝奇をやれてしまう、わたしにとってはうらやましいジャンルの小説だ。
伝奇というのは非常に広い範囲の読者に受け入れられる素質を持っており、そこでこれくらいのレベルの文章があれば、たしかに人気出るかもなーと思う。
ラノベらしい極端な造形のキャラクターが、まず目を引く。「魔王さま」と呼ばれる高校生なんて、なんとも、いかにもだ。
しかし、このキャラクターたちはあまり、そういう風にはふるまわない。ドタバタのライトノベルから世界観を引きながら、それは冒頭だけで、あとは至極まじめに、キャラクターひとりひとりの、あまり明るくはない、屈折した生い立ちが語られる。
このあたりは、ひょっとしたら失敗といっていい部分だと思うのだが、この過去の話に、キャラクターごとの特徴が際立たない。それぞれに違う過去を持っているのだが、小説が過去を語らなければならないほど大きくは違わない。
ライトノベルでなければ。あるいははじめに「魔王さま」といってしまわなければ、これでもいいのかもしれないが。でもこれは電撃文庫。どうしても違和感を感じた。
主にキャラクターのイメージを先行させるライトノベルの書きかたを志向しながら、たぶんそれに成功していない。そういっていいと思う。描写では絵をイメージさせることに重点を置くのがライトノベルだが、この作者はきっとそういう書きかたの人ではない。
たぶん、装飾過多な描写も本来のものではない。むしろ、絵より心情を描写することのほうがフォームだと思う。
わたしが絵を無視しなければならなかったのも、そういうことかもしれない。キャラクターの描写が、不自然にリアルすぎるのだ。そのせいで、イメージが立体になってしまい絵にならない。アニメ化できない。
話のほうは、やはり神隠しとか怪談とか、こういうネタは興味を引く。それに対する屁理屈も深い洞察に裏づけられた感じがあるし、いちいち例をあげる説明のしかたもわたしの好みだ。そこは楽しく読んだ。
少し、説明が上滑りしているところもあったが、嫌悪感を感じるところまではいっていない。
これもあっけらかんと、メン・イン・ブラックが登場するあたりはさすがに少しどうかと思ったけど。でも、メン・イン・ブラックがクライマックスへの展開を牽引してしまうあたりの前までは、まあ楽しめた。
なによりこの描写力と、洞察力に裏づけられた世界観があるのだから、これはもうなにをしてもそれなりにおもしろいわけである。ただし、それなりにだ。すべてがハマったときの強い輝きはないけど。
欠点の多くはたぶん、シリーズが進んだいまは改善されているだろう。なんかそういう信用をできそうな気がする、ちゃんとした筋持久力と肺活量を持った小説家だと思う。ただし、ラノベ作家かどうかは怪しいのだ。
こういう人は、続刊を読もうというより、このシリーズが完結したあとの次の作品に期待したい気がする。
なんかもうすごい勢いで落書き度が増加してる今日このごろ。
つーかこんな絵でも時間かかりすぎ。めんどくさすぎ。不慣れもいいとこなので、ただ線を引くだけで大変。しかもあれだよね。1mm違えば違う線なわけじゃん。よくもまあ、こんなことをやってるもんだというかなんというか。
絵を描くってことを甘くみてたかもしれん……。
というわけでなんかもう飽きちゃうのでどんどんてきとーに。デッサンとかかなりおかしそう。いや、そもそもデッサンの練習すらしてないのが問題なんじゃ……。
そういえば、イラスト指南とかに「めんどくさくても最後まで描け!」とか書いてあったなあ。それはたしかに文章でも超大事なことなので納得したんだけど……。あたしには無理かもしれん(笑)