なんかいろいろとてきとーなのだが、けっこう悪くない。
自分のターンには、自分の前にカードを1枚出すか、山から1枚引く。
カードを出すと、そこに書かれている数字分が、その人の場の得点に加算される。
つまり、手札の得点はその分さがる。
「なにいってんのあんた」と思うなかれ。これが重要なのだ。
UNOなどと同じく、誰かが手札を使い切ったらステージ終了。そのときはふつーに、場の得点をプラス、手札に残ってしまった得点をマイナスとする。
だがこのゲーム、終わりかたがもう一つある。
それが「手札の得点が20点を超えたら」というもの。この場合はまったく逆に、場がマイナス、手札がプラスになる。
なるほど。手札をためるのか場に出すのか、けっこう大きなジレンマがあり、おもしろい。
UNO系らしく、リバースとかスキップとかもある。
ところで、UNOはパーティーゲームだから気にもしていないが、リバースもスキップも、実は強烈な攻撃だ。緻密にバランスをデザインされたゲームだったら、ありえない効果といっていい。それがこのゲームにはあるのだから、これは緻密な計算を楽しむゲームではない。計画など0.2秒で崩れてしまう。
実際、そういう劇的すぎる状況の変化の中でげらげら笑うためのゲームと思うべきである。
しかも。大半のカードには、なにか特殊な効果が書かれている。場に出したときに発効するものとか、いろいろだ。
誰か一人の手札を2枚捨てさせるとか、逆に引かせるとか。
中には「場に出せない」なんてものもある。これはそのかわり得点が高いので、手札20点を目指すときは有効になる。
ちなみに「天和」もある。
さらには、全員の手札をとなりに渡せだとか、山札を1枚にしろだとか、なんかもうめちゃくちゃなのである。
だが不思議と、そのメチャクチャも許容できてしまっているのだ。
パーティーゲームではあるが、カードテキストのとんでもなさからは意外にも、ちゃんとゲームとして楽しめる。
目標が2つある、というところがヒットなのだろうか。他人のカードは増えすぎても減りすぎてもいけないわけで、つまり上限と下限が決まっているから、メチャクチャなカードを使うときは、カードの効果がその狭い範囲に収まるだろうかと考えながら使わなければならない。常に最善の結果を狙えるわけではないが、配られてしまったカードの中で自分にはなにができるだろうかと、実はそれなりに考えるところはある。
だから、むしろカードテキストにはとんでもないことが書かれていたほうが悩ましく、おもしろいのかもしれない。考えずにやればやれてしまうけど。
一つの「可能性を感じる」ベースルールの上で、プレイテストと試行錯誤をくりかえした跡のようなものがうかがえる、てきとーな印象よりは手間がかかっているかもしれないゲームだ。
ただまあ、そういうことを納得できる人とできない人がいるので「できる限り軽く」というコンセプトが感じられるわりに、プレイヤーを選んでしまっている気もする。
つまり、UNO系の弱点でもある「次の手番を待つ間にとんでもないことが起こってゲームが終わってしまう」ことが、自分にとっては不愉快でも他のプレイヤーがジレンマのすえに出した結論なのだと、わかってくれないと厳しい。でないと、ただ次々と嵐が起こるだけの、なにがなんだかわからない遊びになってしまう。
他人の行動を乱数と考えるか選択と考えるかというのは、実はとても大きな文化の隔たりなのである。
というあたりを納得した上で、さらにどうしようもなく運ゲーであることも納得すれば(せ、狭い……)、多人数でちゃんと楽しめる好ゲームだと思う。
2006.01.14 00:45 てらしま
さあ、おもしろくなってきたのである。
とうとう完全にその気になった主人公と、
この瞳子というキャラクター、わたしは好きなのである。ひょっとしたら、主人公の
えーと、つまり、いわゆる、ある種の専門性の高い趣味を持った人々が好んで使う隠語でいうならば「ツンデレ」ってやつ?(まだデレまでいってない)
まあせっかくのいいキャラクターをこんな謎の単語一つで片づけてしまうのももったいないわけなのだが、とりあえず、こういう言葉が流行しなければならなかったほど、このキャラクターアーキタイプは重要だったのだ。
もちろん、萌え系とかなんとかいわれているエロゲーだのメディアミックス作品だのとマリみてとでは、もとより格が違う。妙な隠語に反応する偏屈な読者の嗜好に合わせて造形されたわけでは決してない。
嫌なやつとして出てきて、実はいいやつかもしれないとなって、しかしなかなかもったいぶって、深く踏みこんだ描写はされてこなかったキャラクターだ。それだけ、大事に扱われてきたわけでもある。ひっぱりにひっぱって、ここでついに真打ち登場! というわけだ。
登場したときの嫌なやつっぷりとそのあとのフォローと、つまりこのシリーズがもっとも盛り上がった『レイニーブルー』『パラソルをさして』で重要な役割を演じたことが大きい。一人一人のキャラクターのストーリーを切り出してみたとき、こいつほど起伏に富んだ、しっかりした物語を与えられているキャラクターは、祐巳以外ではいないのだ。
こいつのためにこのシリーズがあった、といわれてもいいくらいである。おそらく、たぶん漠然とだろうが、そういう構想は早い段階からあったのではないだろうか。
というわけで、マリみては本筋に戻ったのだ。まだ読んでいない人がいたら、安心してください。
これは『パラソルをさして』の正当な続編であります。
そんなこの巻、やはり本気になったストーリーは1冊では終わらず、次に続く。
内容についての印象としては「完成度の高い話の前編」である。
前編といったって、次巻で完結するかどうかはわからないのだが、だとしても、数冊先の完結編に続く、前編だ。
なぜそういいきってしまうかというと、それはつまり、先の展開を予想しているからだ。ここからつながる話を考えると、(限定された)数パターンの展開がありえる。本読みなら誰でも無意識にやっていることだろうが、それを想像したとき「完成度の高い」話になるだろうと、思えるのである。
こうして予想できてしまうあたりは残念といえば残念。でもそれはたぶん、充分な準備がなされてしまっているがゆえのことだろう。よくできたストーリーは先が読めてしまう。これはしかたのないことだ。
それでもわたしは、まったく先の読めないがちゃがちゃした話よりも、先の読めてしまう話のほうが価値が高いと思う。
マリみてでいうなら、誰が誰とくっつくのかまったくわからない、どろどろのソープオペラ(フラワーコミックスがしょっちゅうやってるみたいな)をやれたはずなのである。それこそ女性対女性の関係を認めてしまっている世界だ、ここに男性を絡ませてもいいのだし、あらゆることができるではないか。実際、そうなりかけた時期もあったわけなのだが、やはりどうも落ちつかなかった。
しかしこの巻で本気になってみると、あくまで基本は一対一だ。
話が単純になるぶん、しっかりと描ける。話の作り方そのものは『レイニーブルー』と変わらない、主人公に与える情報を限定して、準一人称でいろいろと悩ませるもの。ただし違うのは、今回は相手も悩んでいるというところだ。そういう意味では、しっかりと造形が定まってきたキャラクターが二人いないとできない話である。
これだけの枚数の描写に耐えるキャラクターは、たぶん祐巳と瞳子しかいないのである。
このシリーズ、実はキャラクターは弱い。お姉さまである祥子でさえ、たぶん一人で一冊分のストーリーには耐えない。
また、ほとんどのキャラクターが、すでに話を終えている。新たな話をはじめるのでなければ登場する必要すらないのだが、そこは学校だから出てきてしまうだけである。
その中で、ここまで物語の続いているほとんど唯一のキャラクターである瞳子の話。本気も本気、大本気だと思うのだ。これでシリーズが終わってもかまわないですよ。
とりあえず、こういう検索しづらいタイトルはやめてほしいわけだが。
神の園で、畑でマナを生産して土地を広げていくゲームである。
あー、よくわからないからいいかえよう。不動産を経営して
下敷きになっているのは「アクワイア」。ボードのデザインも、場所が指定されたタイルのルールも同じである。
違うのは、買収のルール。他人の土地の隣にタイルを置くと合併が起こるわけだが、ここで対象となるのは、そこからつながった土地全部ではなく、攻撃側が指定できる。1マスだけとか、ちょっとがんばって3マス買収するぜとか、できる。また、攻撃側が買収に使う自分の土地の範囲も指定できる(つまり負けたらこの範囲が相手のものになってしまう)。
そして、このときは必ずパックマンディフェンスが発生し、買収の勝敗は金の出しあいで決定される。より多くの金を提示したほうが(この金は買収相手に渡されることになる)、その土地を所有することになる。
より多くの金を、と書いたが、これは「土地一つにつき○○円出すぜ!」と指定する。土地一つあたりの金額を、比べるのである。
ここがポイントだ。
例えば、相手が3マスの土地で攻撃をしかけてきて、その対象は1マス、という場合、こちらは相手の3マスを買わなければならないわけだから、金額も提示した額の3倍必要になる。大きな勢力で攻めこめば有利だが、負けたときのリスクが大きい。というかすごく大きい。
……こう整理してみると、いまさらだけど、やっぱりアクワイアを引き合いに出したのは間違いかもしれない。いや、ルールの下敷きになっているのは間違いないのだけど、やっていることは買収というより戦争といったほうが近いかも。軍資金を稼ぎ、辺境の騎士たちに(これも時代が違う^^;)指示を出して、隣国に攻めこむイメージなのかもしれない。
というか、マナを使うんだから魔法の戦争かな。あでも、支払ったマナは相手に渡すんだしなあ。
まあいずれにしても、楽園の名からはほど遠い世界である。りんごを食べる前から人間は変わってないのかなという、ブラックジョークに近い。
それはともかく、やはりこの「攻撃範囲を指定できる」ルールがゲームのキモだ。
負けていても、(それなりに準備していれば)いつでも逆転を狙えるのである。
終了条件は「誰かの土地の価値総額が20億円になったら」と非常に明確だ。いつ終わるのか、盤面を見れば簡単にわかる。
つまり「このままでは3ターン以内に負けるぞ!」ということがはっきりとわかってしまう。
そこで、博打を打てるのだ。最小限の戦力をなんとかそろえ、上位のプレイヤーに「対象はここからここまで6マスでね」とかなんとかいって不利な戦いを挑んでしまうことができるのである。
これをやると、なにしろあとのことは考えていないのだから、互いに全力のマナをつぎこむことになる。得点も大きく動く。20点で勝ちのゲームで、5点とか6点とか動いてしまう。しかも、人から人に。
勝つのはたいてい、この博打攻撃をしたプレイヤーか、されたプレイヤーだ。
数回やった感じとしては、自分の土地に適当に投資して収入源を確保しつつ攻撃の準備を整え、虎視眈々と機会を(攻撃対象が大金を支払うのを)待つ、という感じだ。
状況は激しく動くのだけど、アクワイアと同じでタイルを置ける位置は手札で決まっているので、重要な位置を抱えておけば、チャンスを待つことができる。
逆転できるゲームというのはやっぱりおもしろいのだ。
けれどこのルール、キングメーカー(自分は勝たないが勝者を決めてしまう人)が生まれやすい。
たとえば、自分は今14点、他に19点のプレイヤーが2人いる。ここで攻撃しなければ明らかに負けるのだが、手持ちの戦力は物足りない。
こんなときどうするかは人によるし、なにをしても責められるべきものではないけど、わたしなら、いくら無謀でも攻撃する。相手のミスか「てへっ。実はぜんぜんお金持ってないんだー」というのを期待してやるわけだが、もちろん普通は勝てない。
そうすると、自分が攻撃した相手を勝たせることになる。こういう理不尽が、このルールでは容易に発生してしまうのだ。弱点というべきなのかどうかは難しいところだ。だが後味の悪い終わり方が多いのはたしか。
……まあけっきょく、そこが楽園だろうがなんだろうが世の中は理不尽なんだねーというか。ほんとに、このゲームを「エデン」と名づけた意図はなんだったんだろう。
中央に一枚置かれたお題「リミット」カードには、5色、5つの数字が書かれている。
プレイヤーには5枚の手札があり、うち一枚は自分の前に伏せて置いておく。この伏せたカードが、非常に重要な意味を持っているのだけど、それは後述する。
ターンが回ってきたら、場にカードを一枚出す。このカードは「リミット」カードにある5色のうちいずれかの色がついている。
カードを出すときは、表向きに出すのだが、下の札が見えないようにきちんと重ねて出さなければならない。
さて、ここからが勝負だ。自分のターンには、このカードを出す行動の代わりに、誰かを「告発」することができる。
なにを告発するのかといえば、つまり、場に出されているカードのうちいずれかの色の枚数が、「リミット」カードに書かれているその色の数字を上回ってしまっていることを告発するのだ。
告発に成功すれば得点、限界を超えてカードを出していたプレイヤーは減点になる。
まさに、ほぼ完全に記憶の勝負だ。
記憶力のチキンレースである。崖に向かってどこまでブレーキを踏まずにいられるか、というあれだ。ただし、崖は5つある。
やることは簡単。無言で、集中して、たった5つの数字をインクリメントしていけばいい。リミットを越えていたら告発、そうでなければカードをだす。それだけ。非常に単純なゲームだ。
ただし、これだけでは単純すぎるので、前述した伏せカードがある。
この伏せカードは「リミット」の数字を加算する。赤いカードが伏せられていたら、その枚数だけ、赤のリミットが大きくなる。だから、リミットが「0」でもカードを出していいのである。
読みあいの要素……といいたいが、まあ実は、この部分に関しては情報が少なすぎて読みまでいかず、ほぼ乱数だと思っていい。むしろ、正確なリミットをわからなくする効果として重要だ。
そんなゲームだ。
相手の手札や思考を読む必要はほぼないのだし、もしもプレイヤーが全員、完全なデジタル記憶を持っていれば、たぶん単純すぎてゲームにならない。
5色の数字を憶え続けることは、人間にとってはわりと大変だ。大変だが、やってやれないことはない。たとえばこれが4つなら、簡単すぎただろう。6つなら、憶えることは不可能ではないが、情報が多すぎて散逸してしまい「ゲームへの集中力」を維持することが難しいと思う。
「5」というのはたぶん、人間にとって、そういう限界点にある数なのだ。戦隊ヒーローが5人なのも、M:tgの色が5色なのも、同じ理由なのではないだろうか。脳の中で、一つ一つの色にキャラクター(性格でも属性でもいいけど)を与えて情報を補完することで神経細胞の結合をうながし、記憶する。この作業の過程で、情報に与えることのできるキャラクターの種類が、たぶん5に近いのではないか。
こんな煩雑な方法をとるのは、プレイヤーが人間だからだ。コンピュータなら、連想など使う必要もなく、5つの数字を無感情に憶えるだけ。伏せカードがあるから必勝のプレイをすることはできないが、人間では太刀打ちできない程度の強さは容易に実現できるだろう。
しかし、プレイヤーは人間なのだ。人間の不完全さ、記憶のあいまいさの絶妙なラインを利用した、好ゲームである。
もちろん、これくらいならば完全に記憶してしまう超人もいるわけだが……。
ただやはり、ただの数字なので地味だ。数字が5個も書かれたカードを見せられると引いてしまう場合が多く、どうしてもプレイする機会が少なくなってしまいがちになる。
そのあたりは、同系列の傑作「マンマミーヤ!」に負けているかもしれない。もちろんリミットのほうが優れている点もある。チキンレースのなんともいえない緊張感とか。わたしはどちらも好きなのである。
いわずとしれた傑作。もうなんつーか、見ただけで傑作である。
ボード、駒、タイル、すべてにおいて手抜きがない。ゲームシステムも含め、デザインにおいてやれることはすべてやったという感じだ。
ゲームは、二つの大河の間の肥沃な大地に、いくつもの王国が現れては滅びる様子を描いたもの。農業、商業、宗教、国家の4色のタイルが盤面に配置されていくことでそれを表している。
この4色に対応した4つずつの「リーダー駒」なるものを、各プレイヤーは持っている。これはタイルと同じように盤面に配置できるのだが、一つの王国(タイルのかたまり)には、4色のリーダーがそれぞれ一つずつしか存在できない。
もし二つ目のリーダーが現れたら「内戦」。同じ色のリーダーがいる他の国と接触してしまったら「戦争」が起こる。
考えてみればさほど難しいルールではない。しかしここから生まれるゲームの展開は多彩だ。
戦争で国が荒廃したり、また復興したり、大帝国ができあがったり。始めのうちは小競り合いという感じだった戦争が、終盤には大戦争に発展したり。突然クーデターが起こったり。
そういった、たぶん千年以上の歴史の流れが、ボード上に再現される。しかもそれが非常にドラマチックなのだ。ゲームの展開そのものがまず楽しい、そういう種類のゲームである。
大河ゲームである。プレイヤーの立場はよくわからないが、視点は神のもの。大河文明の勃興を上空から見おろし、宗教やら経済やらによって動いていく人々を眺めている。中の人間からすればそれは歴史そのものなのだろうが、神の視点からは、いわゆる箱庭なのである。
その神であるプレイヤーが、4種類の勢力のリーダーを担当し得点を稼ぐ目的のもとにプレイすることによって、歴史が展開していくわけだ。ゲームでしかできないダイナミズムで、物語が生まれていく。
これはゲームのために作られた世界ではない。それならば、プレイヤーは明確な誰かの視点を持っているはずと思う。例えば金とか、名誉とか、勝利点に明確な意味があるわけでもない。
大河流域の歴史をダイナミックに表現する、それこそがこのゲームのテーマだろう。ゲームという表現メディアを使って、文明の興亡をシミュレートしているのだ。
そしてそれは、見事に達成されている。ゲームだからこそできる表現方法で。やるたびに違う歴史が現れ、あるときは大戦争が起こり、あるときは大王国に内乱の陰謀が渦巻き、そういったさまざまなストーリーを描き出す。プレイヤーは勝利に向かってプレイするだけだが、その結果は一つのストーリーを持っている。
だから傍目から見ていても楽しい。
もちろん、いろいろな戦い方をでき常に一発逆転を狙えるゲームバランスも秀逸だ。
これがデザインされたのは、偶然だったのではないかとさえ思う。なんとなくだが、クニツィアらしくない気もするし。人の手で作られたとは思えないほどの、傑作なのである。しかし、傑作になりうるルールだからこそボードや駒には最上のものを用意しようとした、そこはさすがクニツィアだ。