一応やってみたけど、やはり鉛筆の線をとりこむのは無理があるようだ。というわけでボールペンでトレースしてスキャン。
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おお、見事に白と黒のイメージになった。
しかしやはりボールペンなので、変なぎざぎざとかインクの塊とかがあちこちにある。しかたないからちょっとなおしてみた。イラストの描き方サイトとか見れば、やはり線はなおすものらしい。
いやしかし……。よくこんなことやってるよね。世の絵描きを少し尊敬した。
ちなみに、モデルはこいつのつもり。某ゲームの世界では無駄に有名人かもしれん。
でなに? 塗るのこれ? めんどくさいなあ。やめようかなあ。
ていうか今でもなんかいろいろおかしいし、飽きちゃって途中でやめたところとかあるし、塗りはじめたらもっとアラが出てくるなきっと。
あと引き続き鉛筆練習なのである→。正面って難しいのねえ。
いやまあ、まだ構図うんぬん以前の段階ではあるんだけど。
使用ツール:PictBear
なんか昔のゲームのリメイクらしいが、そちらはやっていない。
闘技場に、8匹のモンスターがいる。プレイヤーたちはどのモンスターが生き残るかを予想して、賭けをしている。
一匹のモンスターにもっとも多く賭けているプレイヤーはその「パトロン」となり、モンスターがそれぞれに持つ特殊能力を使えたりする。
けっこう説明がめんどくさいのだが……。
プレイヤーはターンが回ってくると、モンスターの戦闘カードというものを場に出す。カードには0から10の数字が書かれており、それが、そのラウンドのモンスターの活躍度になる。
カードはすでに置かれているところにも置くことができる。その場合は、下のカードの数字は無視されて新たなカードに上書きされる。
そうしてカードを出しながら、賭けもやる。5枚ずつ渡されているコインをモンスターに賭けていく。
ラウンドが終わると、もっとも数字の小さいモンスターが敗北して、いなくなる。もちろん死んだモンスターに賭けられていたコインは無駄になるので、そうならないようにがんばるわけだ。
ちなみにラウンドの終了条件は、すべてのモンスターに戦闘カードが置かれること。すでに置かれているカードの上にも置けるので、このラウンド終了をいつ起こすのかというところが非常に重要な要素になる。
これを5ラウンドくり返し、つまり3体のモンスターが生き残ったところでゲーム終了。生き残ったモンスターに賭けられたコインの所有者に得点が入る。得点の高いプレイヤーが勝ちである。
モンスターの特殊能力に関するルールなどが少し煩雑で、しかもその割に、特殊能力を使う機会はあまりない。
ルールブックの日本語訳とにらめっこしながらやることになるのだが、しかし実は、ありがちだが、最も重要なのは特殊能力なんかではなく手番のタイミングだったりする。だからといってそんなものをコントロールしきれるはずはなく、モンスターの能力もうまく使えば強力なものがあり、しかしそれでまたラウンド終了タイミングがずれて……といった、まあボードゲーマーならば誰でも知っている思考過程を踏むことになるゲームだ。
要するにラウンドを終わらせたプレイヤーが非常に有利になるのだが、いいタイミングでそういう盤面が回ってくるようにコントロールすることはとても難しいのである。
こういったこともまあ考えてやるべきだし、それもつまらなくはないのだが、やはり「コロッサルアリーナ」という題材からは離れたところにある。考えれば考えるほど雰囲気が失われてしまう。そこがちょっと残念。
けっきょく、手番順(あるいは得点計算タイミング)の問題というのは、あらゆるゲームデザイナーが考えなければならないところだと思う。手番順が勝敗に寄与する部分というのはたいてい、非常に大きい。必死に独自のゲームシステムを構築しても、ともすればそのすべてが吸収されてしまう。だから、名作と呼ばれるゲームには必ずといっていいほど、この問題をクリアするための工夫がなされている。
このゲームは典型的な、システムが手番順に吸収されてしまっているゲームである。わたしは嫌いじゃないのだが、要するに、手番順をコントロールしなければならないゲームはみんな同じといってもいいわけなのである。
カタンの新作バリアント。正直、この会社の製品はファーストカタン以外にいいゲームを知らないわけで、全然期待できない。
アフリカに発祥した人類が全世界に広がっていく過程が今回のテーマ。なかなかおもしろいネタだとは思う。
カタンと同じように、毎ターンサイコロを振って資源を生産し、それを使って技術を進歩させたり部族を定住させたりする。そうするうちに、スタートする場所であるアフリカが次第に荒廃して砂漠になっていく。
荒廃すると砂漠になるので、資源が生産できなくなる。だからその前に他の大陸に新たな部族を作っていかなければならない。カタンでいう都市(2倍生産できる)もないので、実はゲーム中盤を過ぎても生産が拡大しない。
拡大再生産がカタンの特徴だったはずだが、どうやら制作者はそれをわかっていなかったようだ。このゲームではむしろ生産は漸減する。生産だけではない。基本的にボード上に配置された勝利点チップを集めるのが目的なのだが、これももちろん、とればなくなっていく。カタンのくせに、限られた資源を奪い合うゲームになってしまっているのである。
そのくせ勝利条件が中途半端で、一度も盛り上がることのないままゲームが終わってしまう。なにがしたかったんだという感じだ。知人は「この手のカタンバリアントではいい方」とか言っていた。まあそうは思うが、やっていて面白さを感じないのではしかたない。
我々ボードゲームプレイヤーも、そろそろカタンというブランドに踊らされるのをやめた方がいいと思う。カタンはブランドではなく、たぶん神の手が作ったゲームだった。もうこのさい、そう思っていた方がよさそうだ。
とてもいいゲームである。ボードゲームマニアには自信をもって勧められる。絶対にハマってくれるからだ。もっとも、そういう人はすでにプエルトリコの戦略について一家言もっているだろうけど。
いいゲームなのだが、マニアじゃない人間にはとても勧められない。コマは細かくてたくさんあるし、資源の種類も、3時間ほどで終わるゲームとは思えないほど多い。システムもマニアックで、これまでのボードゲームの歴史を知らない人間には理解しがたいものがあると思う。
これまでに発売されたいろいろなゲームの要素をとりこんでまとめたという感じになっている。しかも、参考にしたと思われるゲームはどれも、当時「斬新」だったキワモノばかり。
具体的には、『操り人形』と『原始スープ』を合わせたようなものと考えればいいと思う。こう聞いて身を乗り出さない人というのは、「うげー」と思ったか、全然知らないかのどちらかだろう。そういう人は、なにもこんなゲームに手を出さなくていいと思う。
プエルトリコにやってきた植民者たちが、農場や街を経営するゲームだ。管理するリソースは、人、建物、プランテーション、金、商品と、嫌になるくらいある。実際、さほどボードゲーム好きではない人にゲームを説明して「もうやめてくれー」といわれたことがある。本当は説明が一番大変なわけで、始めてみれば思ったほど面倒くさくはないのだが、でもやっぱり、細かいチットを何百個も箱から出されるとひいてしまう気持ちもわかる。
ゲームの流れを少し説明しよう。
自分のターンが回ってきたら、そこでどのフェイズを起こすか選ぶ。例えば生産フェイズならプランテーションから商品が生産され、建設フェイズなら街に建物を建てる。
金を稼ぎ、プランテーションに人を配置し、商品を生産し、旧大陸に輸出する。そういったいろいろな行動を、プレイヤーが順番にフェイズを選ぶことでこなしていく。
毎ラウンド、起こるフェイズとその順番をコントロールすることでプレイヤー間に差をつけていくゲームといえる。マニアックなのだ。
選んだフェイズを全員がプレイするので、すべてちゃんと考えてやらないと大変なことになる。というより、考えないプレイヤーが一人いるとその瞬間にゲームが壊れるので、全員に迷惑がかかってしまう。このあたりも敷居を高くしているところだろう。
ボードゲームには常につきまとう問題がある。それは手番の問題である。たとえば、互いに干渉することなく自分の得点だけを追っていくゲームなら、最初の手番のプレイヤーが明らかに有利だ。他人を妨害しようとするときは、たいていのゲームでは上家からやるのがやりやすい。そういう意味で、おざなりにされやすい最初の席決めは、実はもっとも重要なゲームの選択の一つといえる。
プエルトリコは、その手番順の効果を減らすのではなく、逆に最大限に生かそうとしている。例えば、生産した商品を売るフェイズ。売る相手である商人は同じ商品を2つ買おうとせず、しかも全部で4つしか買ってくれない。5人でプレイした場合、一人は売れないわけで、順番を考えて誰が売れて誰が売れないのか、そういうことを常に考えなければならない。このゲームでは、一事が万事そういう選択になる。
ターン制ゲームの理不尽な部分、ボードゲームの闇であったところにあえて光をあてた、挑戦的な作品といえるかもしれない。そういうゲームの本質に、興味があればおもしろい。コスティキャンのゲーム論とかを読んで喜んでるような危ない奴には、ぜひこのゲームをやらせたい。中毒性がありとにかくはまるし、定石研究が熱いし、近年で一番のおすすめゲームなのである。
すぐ終わる気軽なゲームだが、気軽にやるというわけにいかない。音がうるさいから。ゲームが複数の卓で立っている場所でこれをやると、少し前のゲームセンターで、パンチゲームが眉をひそめられていたような風景を思い出す。
各プレイヤーに、サイコロが5個ずつ配られる。これを付属の壺に入れてふり、自分だけがその目を見る。このとき、自分のサイコロを手で隠しながら見る、というあたりのアナログさが楽しい。
あとは、プレイヤー全員で、どの目が何個出ているかをあてる。
時計回りに宣言をしていくが、宣言は前の人よりも目の高い方、数の大きい方にしかできないので、そのうち、とんでもない数になったりする。全部で30個しかサイコロがないのに、「5が20個」とか。そんなときは、宣言の代わりに「ブラフ」という。すると壺が開けられ、宣言が実際の数を上回っていたら宣言者のダメージ、逆ならブラフといった人にダメージ。ちょうどなら、宣言者以外の全員にダメージ。
ちなみに、ダメージと書いたのはサイコロが減るということ。当然そうなれば、以後のゲームが著しく不利になる。
どんどんプレイヤーを脱落させていくゲームなのだ。すぐ終わらなければ不愉快なゲームになっていただろうが、これくらいのプレイ時間なら逆に「もう一度」と言いたくなる。負けたときの不愉快さがほどよい。
サイコロを使う、音がうるさい、というあたりもそうだが、ゲームの全体的な雰囲気がやけにアナクロで、なんだかチンチロ博打でもやっているような気分。微妙に後ろめたいような、ちょっとした昂揚感が味わえなくもない。ただやっているだけで場が盛り上がるゲームと、気分が冷静に冷めていくゲームとがあるが、これは前者なのである。
欠点はとにかく音がうるさいこと。麻雀と同じくらいの騒音と思っていい。プラスチック製の壺にサイコロを入れて一斉にガラガラやる、このときの音がかなり大きい。深夜の安アパートではあまりやりたくない。
ゲームの方は、単純だが奥深く、なかなかいいゲームである。特によく知った相手とやると「あいつはこういう性格だからこれは嘘だろう」とか考えるようになるので、さらに深みが増す。嘘をつきあうゲームだから、セオリーが存在しないのだ。某マンガのアカギさんにやらせたらきっとおそろしく強いに違いないと、誰かが言っていた。
しかし、残り人数が減ってサイコロの数が少なくなると、次第に運に左右される部分が強くなってくる。残り二人、サイコロは一個ずつ、なんて状況はもう完全に、その人がどんな星のもとに生まれたかの勝負。相手が嘘をついているか否かだけが選択を分ける、単なるジャンケンになってしまうのだ。
戦略として、トップになる可能性を上げるには、残り二人になったときにサイコロを相手より多く残しておかなければならないことになる。つまり最下位(サイコロが一番少ない人)ではなく2位をたたき落とすプレイを心がける必要があるのだろうが、もちろんそううまくはいかない。どうやっても、普通はサイコロが減った人から脱落していくからだ。このあたりは欠点といえるかもしれない。
ちなみに、私はこのゲーム、あまり勝てない。宣言の8割がウソというプレイスタイルで、けっこうな確率で残り二人まで生き残るのだが、そこで力つきる。悔しい負け方だ。実はけっこう悩みの種なのである。
人数にも融通が利き、わりとゲームとゲームの合間にプレイする機会が多い。騒々しいから耳目を集めてもしまう。それだけに、できれば勝てるようになりたいと思うのだが、どうもうまくいかないのである。困った。