一つ、重大な欠点がある。それをのぞけば、よくまとまったいいゲームだ。
鉄道ゲームの伝統をふまえた上で簡潔にまとめられている。カタン以後のボードゲームのトレンドに合わせ、プレイ時間も2時間以内に収まっている。
舞台はアメリカ。鉄道網を敷くことで株券を獲得し、配当が起こると、11社ある鉄道会社のそれぞれについて、株券所持数の上位プレイヤーに、敷かれた鉄道の長さに応じて配当金が出る。とてもスタンダードで、違和感のないルールだ。
配当はいつ起こるかわからず(このあたりもゲームが盛り上がる要素になっている)、4回目の配当が行われた時点でゲームは終了。
しかしもちろん、それだけではない。このゲーム独自のシステムが、タイトルにも使われている「ユニオンパシフィック株」である。
この会社は鉄道を持たない。株だけの存在で、配当も鉄道網によらず独自のものになる。配当は2回目からと決められているのだが、けっこう高い配当金をもらえる。
最初に書いた欠点というのはこのユニオンパシフィック株のこと。これが圧倒的に強いのだ。
鉄道を持たないということはそれだけ手間をかけずに配当を得られるということ。しかもこのゲーム、各会社の株券に上限枚数が設定されている。つまり、一度株券枚数でトップに立ってしまえば、以後もずっとトップの可能性が高い。しかも、残りの株券がなくなってしまえば、もはや邪魔することは不可能になる。
ユニオンパシフィック株でトップに立ったプレイヤーが、ゲームの勝者になる。そう言いきってしまえるほどの強さである。事実、私がプレイした10数回のゲームでは、たぶんすべてこの法則どおりになっている。
この事実を知らない人とやれば、99パーセント勝つ自信がある。
これは非常に大きな欠陥だ。残念としかいいようがない。
ただ、だからといってゲームが壊れているとはいいきれないだろう。ユニオンパシフィック株の所持枚数トップがゲームに勝つのなら、それを複数人にすればいい。解決法の可能性はあるのだ。
ユニオンパシフィック株は、他の鉄道会社の株券を捨てることで、1ターンに1枚得ることができる。誰にでも、いつでも得ることができるルールなので、プレイヤー全員が考えて、誰と誰をトップにするか決めればいいのではないか。
けっきょくのところ、ゲーム開始から数ターンはユニオンパシフィック株の分配に費やされることになる。それで、うまく3人か4人の所持枚数を同じにできたら、そこから初めて鉄道を敷きあうゲームが始まる。
そういうプレイスタイルを確立できるメンバーで遊べば、まともなゲームになるかもしれないと思う。なかなか、試してみる機会がないので真偽は定かでないのだけど。
普通にプレイしていれば、普通に楽しい。鉄道ゲームは、ボード上に鉄道網を作っていく過程が楽しいのである。これは大事なことだ。初プレイで感じた直感が、そのままゲームの戦略として間違っていないのなら、これはゲームの理想の一つだと思う。
残念ながらこのゲームには、直感的に理解できる以上の戦略が存在する。
一度必勝法に気づいてしまえば、ゲームプレイヤーとしては、もう普通にやることはできなくなってしまう。直感でプレイしている部分から逸脱して勝利点を得られる方法があるから、不自然に見えてもそれをやってしまう。初心者とやりづらくなってしまうのだ。
ユニオンパシフィックというルールは蛇足だった。全体を見れば非常によくできているだけに、惜しい。
ジャケ買いしたゲームなのだが、意外にも面白かった。なんでもそうだが、一つの趣味を続けているとそういうこともある。
西部劇が好きなのである。レンタルビデオ屋で、西部劇の棚に並んでいるビデオを左側から順番に借りていったこともある。そういう人間にとっては、無視することができなかったゲームなのだ。だから、全然評判を聞いていなかったのに買った。
賞金稼ぎになって、ウォンテッドを捕まえ、賞金を稼ぐゲームだ。
「保安官カード」を使うと賞金首の犯罪が明らかになるのか、賞金が上がったりする。つまり賞金稼ぎたちは賞金首が犯罪を重ねるのを待っているのか?
「指名手配」「西部一の早撃ち」「銀行強盗」「ワイアットアープ」などのカードを駆使して賞金を上げ、捕まえる。賞金首は西部時代、現実にいた悪党ども。けっこう雰囲気が出ている。
悪党がどんな奴だったのか、知っているとさらに面白くなる。別にゲーム的に差はないのだが、やっぱりジェシー・ジェームズが一番大物だから、賞金稼ぎたちにも人気があるかもな、とか、余計なことを考えられるのが楽しい。
全体的にだるくなることがなく、適度に運の要素が含まれた、気楽なゲーム。数回遊ぶと飽きるが、さらに何度もやっているとまた面白くなってくる。
さて、プレイヤーは賞金稼ぎと書いたが、どうもそのあたりには疑問がある。
「ワイアットアープ」カードはきっと、ワイアットアープに助けを求めるカードだろう。ということは、プレイヤーはワイアットアープではない。それでいくと、「保安官カード」とは保安官に協力させるカードなのか。じゃあプレイヤーは保安官ではない。しかしまるで保安官に命令するかのように指名手配させたりする。
だが、カードでお尋ね者に犯罪を犯させることもできる。これはどういうことなのか。
場のデザインとしては、西部時代の酒場でバーボンを飲みながら賭けポーカーをやってるような感じになっている。そこからすると、ひょっとしてプレイヤーはただの酔っぱらいの大ぼらふきたちで、「俺は昔あいつを捕まえたんだぜ!」とか見栄を張り合っているんじゃないか。
「俺が捕まえたあいつはひどい悪党でなぁ。西部一の早撃ちで、銀行強盗もやった。俺は相棒のワイアット・アープと一緒にあいつを追いつめたのさ……」
そんな与太話を主張しあう金鉱掘りたち、というのが一番、このゲームにふさわしい設定かもしれない、とか、友人と話した結論がそんなことだった。
ゲーム自体も佳作以上といっていい出来だが、そういう想像力を喚起させる雰囲気のよさがいい。私は、ゲーム性とプロダクトデザインとは切り離せないと思っている。コマの形がかわいいからゲームをやる、ということだってある。場を囲んだ雰囲気がいかにも西部。少なくとも西部劇好きには楽しい。
メディチやラーなど、ビッド(競り)ゲームの系列に入ると思う。しかし、ビッドゲームとはいえない。紆余曲折の進化を遂げてきた結果、競りの部分を排除してしまったのがこのゲームだからだ。
ゲームタイトルが、それを表している。ドイツ語で意味があるのかどうかは知らないが、もしないとしたら、colorを元にした造語なのだろう。つまり、このゲームは他の言葉で表せるものではない、このゲームのみを表すシンプルな名前が与えられるべきだと、そういう意図が感じられるような気がする。少なくとも名前の上では、チェスとか、囲碁とか、そういうものと同列に語られるべきゲームなのである。
カードゲームなのだが、このカードがすごい。一枚のカードに与えられたパラメータはたった一つ、色だけなのである。最初に箱を開けたとき、これには驚いた。
7色のカードが、9枚ずつある。場には人数分の列がある。ターンが回ってきたとき、プレイヤーの選択肢は二つ。カードをめくって列のどこかに置くか、一つの列にあるカードをすべてとるか。
一つの列には3枚までしかカードを置けない。山の下から16枚目に入っている最終ラウンドカードがめくられたら、そのラウンドでゲーム終了。
そしてゲーム終了時、カードの枚数によって得点を計算する。集めたカードのうち3色を選んでプラスの得点とし、残りの4色をマイナスの得点として合計する。
この「残りをマイナス」という部分が、すべてといっていい。このたった一つのアイデアが、ゲーム性のすべてを決定づけている。
同じ色が1枚なら1点。2枚で3点、以下、6点、10点、15点、21点と増えていく。なにしろマイナス得点もこれで数えるわけだから、いかにたくさんのカードを集めつつ色を少なくするか、というジレンマがゲームの根幹なのである。
実はこれは、これまでのビッドゲームと、まったく同じ構造なのだと思う。カードを集めなければ得点にならないのは明らかだが、ビッドゲームの場合、それをいかに少ない出費で手に入れるかというジレンマがあった。
このゲームの場合、ゲームのリソースをカードだけに絞ったにも関わらず、これまでのビッドゲームがなしえなかった上質のジレンマを実現している。
なるほど、このルールの単純さと奥深さには、たった一つの単語を与えるのがふさわしいと思う。実にいいゲームである。
難点は、あまりに抽象的すぎるということだ。もはやゲームの題材というものもない。ただゲームのために生まれてきたゲームだ。こういうゲームは、人によっては「なんとなく乗り気になれない」のではないだろうか(ちなみに、私は全然抵抗がない)。華がない、ということである。
自慢じゃないが、私がまだ一度も負けたことのないゲーム。だが残念ながら、これはほんとに自慢にならない。
ルールはめちゃめちゃ簡単。ボードの上に4体のロボットが配置されている。このロボットは、一度動き始めたら壁か他のロボットにぶつかるまで直進する。
ターンが始まるとタイルをめくり、それで、マップ上に示された目的地と、そこに誘導すべきロボットが決まる。4体のロボットをどの順番で、どう動かしてもかまわないから、何度移動すれば目的地に入れるかを考え、言う。誰が言わなければならないということもない。プレイヤーのターンというのもないので、思いついたらすぐその数字を言う。
すると砂時計(1分)が返る。一分以内に、プレイヤーはいろいろな数字を主張する。
砂時計が落ちきったら、一番低い数字を主張した人から、実際に実演してみせる。見事ロボットを目的地に誘導できたら、その人に1点。
プレイヤー人数は2−∞と書いてある。たしかにそうだ。それどころか、途中参加だって平気でできる。
ボードは4枚の正方形を組み合わせるようになっており、裏表を使える。ロボットの初期配置も適当に決めるので、事実上無限といっていいバリエーションで遊べる。
ルールがあまりに簡単なのである。
だから誰でも、憶えたらすぐにマスターしてしまう。そこから先、勝敗を決めるのは個人の資質の問題、ということになってしまうのだ。
ゲームのプレイヤーにもいろいろなタイプがある。理屈を積み上げて自分の中に定石を作っていく人、その場の直感でプレイを選択する人、大きな声を武器に他人を誘導する人など、さまざまだ。ボードゲームをやる楽しみは、そういう人間の言動を観察することにもあると思う。
ハイパーロボットに強いプレイヤーは、どんなゲームをやっても緻密な計算はせず、常にその時の盤面から感じた自分の印象を元にプレイするタイプだと思う。長期の戦略や定石についてはあまり考えていないから、そういうものが必要なゲームには弱いだろう。
人間の性質の問題なのであって、このゲームに勝っても、その人がハイパーロボットに向いていたということを表しているにすぎない。要するに、どうしたら勝てるかを必死に考えるのではなく、息抜きにわいわい楽しむべきゲームだ。
ちょっと時間が余ったからロボットでもやるか、とか、人数が合わないしロボットやってるかとか、たいていはそういう扱いになる。そういうゲームには他に6ニムトがあるが、ある意味では貴重な存在だ。
途中参加もできるので、ゲームをやる集まりで人待ちをしているときに最適。ロボットをやっている間に人数がそろったら、さあ今度は本気のゲームをやるかと。ただ私の場合、ロボットをやって「ロボット脳」モードになっていると勝てなくなるゲームがある。これは注意が必要かも。
真骨頂はルールや設定にはないのだが、まずは紹介から。
ドラゴンの国が天変地異に見舞われ、危機に瀕している。それでドラゴンの王から依頼を受けた、人間、ドワーフ、魔法使い、エルフたちは、卵を救うために大噴火間近の火山地帯にやってきた。
というストーリーがついている。なんかいいかげんにファンタジーな、いいかげんな設定だ。このゲームの気軽さにはふさわしい。
ドラゴンは、巣である山の頂上に宝石をためこんでいる。卵を救い出すついでに宝石を集める火事場泥棒が本当の目的。卵と3色の宝石をどれだけたくさん集めたかを競うのである。
4つの種族はそれぞれ、3色のコマを1つずつ持っている。コマの色は宝石の色に対応している。緑のコマなら緑の宝石しかとれないわけだ。ゲーム終了時の得点計算では、基本的に宝石か卵1個で1点なのだが、卵と3色の宝石の組み合わせは10点になる。要するに全色均等に集めていかなければまともな得点にはならない。十数個あるドラゴンの巣には卵と宝石の他にイベントタイルが裏向きに置かれていて、それでいろいろいいことが起こる。
コマの移動をサイコロでやるので、双六(バックギャモンじゃなく、一般的な)みたいなもの。まあ双六よりは全然考える部分が多いが、ゲームの気軽さは変わらない。
で、ドラゴンの卵を全部救い出したらゲーム終了。簡単なルールだし、獲得した宝石はついたての裏に隠しているので、あまり真剣に考えずにプレイできる。勝利得点を隠すというのは、知らないふりをすることを正当化するための処置なのだ。
乱数を使う場面が多いのだが、わりとそれより戦略の方が重要だったりして、けっこうきれいにまとまったゲームだと思う。登場するリソースは少なく、自分に与えられた時間をいかに効率よく勝利点に変換していくか、という部分に焦点を絞ったゲームである。
であるのだが、そんな話はともかく。このゲームの真の主役は別にある。
それが、その名も『運命の塔』だ。
ゲームを始める前には、まず厚紙製のこれを組み立てなければならない。名前の通り塔の形をしていて、中には斜めの仕切りがついている。穴の空いた塔の屋上からダイスを投げ入れると、中でガラガラと転がって下から出てくるしくみになっている。
要するに、ダイスを振るための装置である。
これが、なんかいいのだ。
普通にダイスを振ればいいはずなのだ。他のゲームはそうしているんだし、それで特に問題があるわけではない。ゲーム的にはまったく必要のない装置ではないか。それなのに、なぜかこのゲームには『運命の塔』がついてくる。ダイスを振る、ただそれだけの装置が、定価の何割を占めていることだろう。
まったくの無駄、贅沢品、嗜好品なのだ。しかし人間にはゆとりが必要だというではないか。
クニツィアのゲームがおもしろいのは、ゲームもよく作りこんであるが、その上にどこか、こういう遊びが入っているところ。例えば、ラーのラー駒や指輪物語のサウロン駒。
そうしたクニツィアらしさの極めつけはチグリス・ユーフラテスだと思う。得点を秘密にしたいなら、普通ならカードを使う。しかし、そこをあえて木製のチットを使い、隠すためにはついたてを用意した。タイルをランダムで引くためには布の袋を用意した。2つの木製駒を合体させて使うモニュメント駒などは、ただ見ているだけでも楽しい。
そういうこだわりが、クニツィアのゲームにはある。カードではなく厚紙のタイルを使う。プラスチックや木製のチットが箱の中にザラザラと入っている。よくあるぺらぺらの紙束なんか、絶対に使わない。
理由はたぶん「その方が楽しいから」だろう。そのため、箱から出して飾っておきたくなるような美しさを持っている。
箱を開けるときにはいつも、なんとなく気分が踊るものだが、クニツィアのゲームではそれが特に強い。開けてからも「早くプレイしたい」という気持ちがどんどん強まる。
人間は本能的に、こういう立体物に弱いんだと思う。
ボードゲームと気どってみたって、要するに遊びである。人生には必ずしも必要のない、もともとが嗜好品なのだ。ならば、そこでけちけちしたってしかたないじゃないか。
そこで、運命の塔だ。これがあるだけで、なんとなくダイスを落としてみたくなる。それだけでもう、このゲームは成功しているのである。気がつくと、カタンに運命の塔を使っていたりする。
たばこを吸うのと同じ理由でダイスを振ることができる。運命の塔とはそういう装置なのである。