いうまでもないんだけど、デッキ構築ゲームなんてどれをやったって大差ない。自分のデッキがあり、手番終了時に5枚引く。この仕組みが変わらない以上、すべてドミニオンクローンだといってしまってもいい。
そんな狭い狭い範囲の中に、ものすごく多数のゲームがひしめき合っている。そういう状況だ。
これだけ似たようなゲームばっかりやってるとですね。ほんの少しの差がゲームにどう影響するかという細かい考察が、できてしまう。
「鍛冶屋」の購入コストは4コインと6コインでどう違うのかなんて、きっと作り手の気まぐれ次第で、本来どっちだっていいことだ。普通なら省みられもしないだろう差なんだけど、でもその違いを、じっさいにゲームをプレイして比較することができてしまう。
そういう細かい考察が、それはそれで楽しくなってきたりもする。
この『めだかボックスカードゲーム 学園お花畑化計画』は、そんなデッキ構築ゲームのひとつ『アセンション』に近いゲームだ。アセンションとはいろいろなところが共通していて、いろいろなところが違う。そのひとつひとつを、可視化することができてしまうんである。
このゲーム、総体としては、意外と楽しめる。なんだろう、ボードゲームマニアは手を出さなかったり、いわゆる「ノットフォーミー」だったりすることが多いゲームだろうし、自分もそれを想像していたのだけど。
その前に上の「鍛冶屋」の例でもう少し話をすると。
「鍛冶屋」が4コストである場合と6コストである場合には、それぞれ少し違うゲーム性があるはずだ。どちらがおもしろいのかという話ではない。結果的にどちらのほうがおもしろいということはあるだろうが、それは結果でしかない。
ゲームデザイナーのさじ加減次第でどちらにもなりうるが、答えを導き出す方法はたぶんない。人間が制御できるような複雑さではないというべきだろう。どちらになるかは時の運とでもいうべきで、ゲームデザイナーがたまたま4コストにした、あるいは調整の結果たまたま4コストになったのだ。そんな風に思う。
鍛冶屋は何コストがいいか。村は何コストであるべきか。そういう調整を、ゲームデザイナーはする。さらにその場合、研究所は何コストであるべきだろうか、礼拝堂は何コストであるべきだろうか。
そういう、非常に多数のパラメータを引数にとり「おもしろさ」を返す評価関数がある。その関数が「ゲームシステム」と呼ばれるものだ。
さてその多次元空間の中で、鍛冶屋を4コストと仮定したとする。そうすると、少しだけ空間が狭くなる。それでも空間は広大すぎるから、さらに「村」を3コストと仮定する。またさらに空間が狭まる。そうして、仮定に仮定を重ねてゲームの空間を狭めていき、ひとまずの「おもしろさの極大点」を探りあてる。いわゆる「調整」と呼ばれているゲームデザイン工程というのは、そういう作業だ。
そのとき、たとえばたまたま、鍛冶屋を6コストと仮定したとする。それはそれで、その場合の極大点を探りあてることは可能だ。それはそれで正解なのだ。
鍛冶屋は4コストであっても6コストであってもかまわない。それぞれの場合で最善に近づくための努力をすることができ、その結果がある。本当の最善がどこにあるのかは誰にもわからないが、ある仮定のもとでの極大点に近づけることはできる。
我々が遊ぶのは、そうして作り上げられたゲームだ。それを、おもしろいとかつまらないとか、勝手な言葉で評価する。
ただ、鍛冶屋のコストがどうであろうと、ゲームシステムが同じなら同じゲームである。これはプレイヤーの良心として、ゲームデザイナーへのリスペクトとしてそう思うんである。どこまで違えば違うのか、という話は人によりいろいろあるだろうけれど。
デッキ構築ゲームを遊ぶというのは、そういう細かすぎる過程を分析することだ。それは「こうであったかもしれないドミニオン」であり、歴史のIFを想像する架空戦記小説のような楽しみだといってもいい。
原作を読んだこともないのに、めだかボックスカードゲームを買って遊んだ。これはそういう話のひとつだ。
ゲームはアセンションに似ている。つまり、ドミニオンとの違いは、場に並ぶカードが10種固定ではなく山札からめくられる。誰かが1枚買えば、空いたスペースにはすぐに補充される。
もう一つ、コインだけだったドミニオンとは違い、戦闘力という数字がある。コインで買うことができるカードと、戦闘力で買うことのできるカードがでたらめに混ざって場に出てくる。そのため、コインが出るカードがデッキに多くなると、戦闘力のほうはむしろ出づらくなっていくということになる。
めだかボックスカードゲームでもそのあたりはまったく同じ。ここまで同じである以上、アセンションを下敷きにしたゲームといっていいのだろう。
ただ、大きく違うところもある。アセンションと違うのは、パーマネントがほぼないところだ。
パーマネント、というのはマジック:ザ・ギャザリングの用語だが、要するに場に出して残るカードのこと。もちろん、ドミニオンにそんなものはない。ないことがドミニオンの大きな特徴の一つでもあった。
アセンションというゲームは、じつは、そのマジックのトッププレイヤーたちが集まって作ったゲームだ。だからということではないだろうが、パーマネントがある。
しかしこのめだかボックスカードゲームでは、原点回帰してパーマネントを削った。おかげで、アセンションとは結構違うゲームになっている。
また、アセンションにはなかった要素として「一括処理」という選択が追加されている。手番開始時にこれを宣言すると、場に並んでいるカードをすべて流して新たにすることができる。これは大きな変更なのだが(アセンションを遊べばわかると思います)、プレイヤーのストレスを減らす意味でとてもよく機能している。
他にもいろいろ違っている。ドミニオンでいう「銀貨」にあたる共通カードがなく、それもランダムマーケットに入っているとか。いつでも買うことができる切り札的なカード「めだかカード」というのが追加されているとか。手札を何枚か次のターンに持ち越せるとか。
徹底してプレイヤーのストレスを減らす方針が感じられる。ボードゲームマニアだけではなく原作ファンにも遊んでほしいということだろうか。そういう意志が感じられるゲームだ。
ただルールを追加するだけではなく、意志を持ってデザインされている。追加はあるが、その代わり削るところは削る。そういう感じがいい。想像していたよりもずっといいゲームだった。
そもそもかなり期待を下げて遊んだわけなのだけど、それほど怖がる必要もなかったのかもしれない。
もちろんガチガチに思考して楽しむゲームではない。ランダム性はとても高いし、雑な展開も多い。また、なんだかんだといってもデッキゲームの亜種にすぎず、ゲームデザインの面で他のゲームと比べるようなものではないのだけど。
個人的にアセンションの評価が高くないということもあって(笑)、思ったよりずいぶんいいと感じたのだ。