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ソロプレイ感ってなんだ
 ゲーム・論考

2006.07.31 22:33 てらしま

「ソロプレイ感」という言葉がある。マルチゲームなのにプレイヤー間の相互干渉《インタラクション》が小さく、プレイヤーそれぞれがソリティアをやっているように感じられてしまうゲームを評するときに、よく使われる言葉だ。
 直接的には「他人を攻撃する手段がない」などのときにこの言葉が使われる。
 まずまちがいなく、ネガティブな評価といっていい。

 ただし、ここには実は誤解がある。それは、

  • 「攻撃」の選択肢をとることはそもそも、多くの局面で、賢明な選択ではない。

 という、あまり認識されていない事実である。
 たとえば「1ドルを支払って、敵の2ドル相当の配置カードをパイルする」という選択肢があった場合。
 たしかに、1対1の関係性を考えれば、この選択肢は有利である。しかし、ここで考えているのは3人以上の場合のマルチゲームだ。「プレイヤーAが1のコストを支払い、プレイヤーBが2のダメージを受けた」場合、もっとも得をしたのが誰なのかは明白である。攻撃をせず、攻撃をされなかったプレイヤーCとDが、自らの手を汚さずして大きな利益を得たのだ(ただし、コストのかからない攻撃などは別の議論になる)
 マルチゲームを賢明にプレイするなら、攻撃はしないほうがいい。
 この結論は、マルチゲームのかなり本質に近い部分をあらわしているわけだが、それはここではおいておいて。
 もしも攻撃することがあるとしたら、2位以下(普通は2位)のプレイヤーが、まだトップを狙える範囲にとどまれる程度のコストを支払って、1位のプレイヤーを攻撃する場合だろう。それも、トップとの点差を考えてその選択がもっとも有効と判断された場合に限られる。

 けっきょくのところ、プレイヤーがとるすべての行動は、最終的にトップをとるためのものでしかない。2位以下のプレイヤーにとってのそれは、トップとの点差を縮めるためのものかもしれない。
 もちろん「攻撃」もその選択肢に含まれるが、攻撃じゃなきゃいけないなんてことでは、決してない。そもそもその選択が「攻撃」かそうでないかを区別する必要などなく、ただ「このルールの中で自分が勝利するにはどうすべきか」ということだけを考えればいいんである。

 さて、そうすると「相互干渉」があるとかないとか、それはいったいなにを指しているのか。ソロプレイ感とはなんなのか。


.相互干渉《インタラクション》

 多少、話をくりかえす。
「プレイヤー間の相互干渉」とはなにか。考えてみよう。
 そのためにまず、前提を再確認したい。

  1. あなたはこのゲームに勝ちたい
     大大前提だ。もちろん現実には、必ずしも勝つためだけにプレイしていない場合もありうるが、議論の前提としてはこれを定義しておかなければどうしようもない。

  2. このゲームは、適切なマルチゲームである
     ただのスゴロクではない。あるいは、何度やっても例外なく1番手が勝つとか、そういうゲームではないということ。
     ここでは「適切な」の細かい定義をしないが、あまり厳しい条件ではない。「これはゲームである」といえるゲームならまずまちがいなく「適切」であると思っていい。

  3. 勝者を決めるのはプレイヤーたちの選択である。
     上の項目とほぼ同じ意味ともいえる。
     運が入るゲームなら「勝者になる確率が高いプレイヤーを決める」のが選択ということになる。たとえ選択の効力が弱くても、確率に変動をおこすことができるのならばそれでかまわない。

 いっぽう、一般にいわれる相互干渉の定義は、だいたい次のようなものだろうか。

  • あるプレイヤーの行動が、他のプレイヤーに影響を与えること

 だが、そもそもプレイヤーの選択とは勝者を決定するためのものだ。また、各プレイヤーがおかれた状況、つまり局面というのは「勝者を決定する過程」を表現したものである。
 ならば、これはもっと明示的に

  • 選択が勝者を決定する過程に影響を与えること

 といいかえちゃっていい。
 このあたりが「相互干渉」の正当な表現なのではないだろうかと思う。

 さて。
 すでに答えは出ているので先に書くと、

  • 「相互干渉はある」

 のである。
 なにしろ、前提 3. によって、プレイヤーの選択がゲームを動かすことは、できているのだから。というかこれがないと、いったいなにをしているのかわからなくなってしまう。
 この 3. の部分がそのまま相互干渉の定義といっていい。
 さらにはこれは「ゲーム」の定義そのものだったりもする。つまり「相互干渉はある」。それがゲームであるかぎりは。
 たとえ他人を「攻撃」する手段がなくても、相互干渉は発生しているのである。

 ひとつ、例を挙げる。
 以下のような単純なゲームを考えてみよう。

  • 全員の初期得点は0点
  • ターンは時計回りに回る。
  • ターンには、以下の2つの選択肢のうち一つを選択する。
    1. 1点を得る。
    2. サイコロを振り「6」が出たら3点を得る。
  • 10点を獲得したプレイヤーの勝利。

 つまらなそうなゲームだけどいちおう命名しておくと「1or3」。

 このゲームに、他人を攻撃する手段は存在しない。いわゆる「相互干渉が非常に小さい」ゲームである。
 だが、こんなゲームにもやはり相互干渉は存在する。プレイヤーに選択肢があり、しかもそれが勝者を変える力をもっているからだ。

 このゲームの2つの選択肢は、等価ではない。 a. を選べば確実に1点を得ることができるが、 b. で得られる得点の期待値は0.5点。
 得点を稼ぐことだけが目的ならば、全員が a. を選ぶ。それが賢明な選択なのである。
 しかし、それでは、手番が最初のプレイヤーが勝ってしまう。
 ここで選択が発生する。
 前提 1. 「あなたは勝ちたい」。つまり、あなたが1番手プレイヤーでない場合、どこかで選択肢 b. を選ばなければならない。不利なのはわかっているが、それでも、選ばなければ負けるのだから。
 そして、他のプレイヤーがいつかサイコロを振ってくるとわかっている以上、1番手プレイヤーも安穏としてはいられない。
 結果、6が出たにしろそうでないにしろ、状況は動く。得点に差がつき、誰かの勝利確率が上がり、誰かの勝利確率が下がるのだ。
 相互干渉がおこったのである。
 まあ、ていうかほんとは、複数ある選択肢の中から a. を選ぶことでも相互干渉はおきているんだけど。

 これは他のプレイヤーがいて、かつ勝者と敗者が生まれるゲームだからこそ生じた現象だ。
 もしもこれがソリティアなら、別にどちらを選んでも差はない。
 複数プレイヤーがいたとしても、もしも終了条件がない(したがって勝利条件もない)のなら、やはりどちらを選んでもいい。終了条件はないが、好きなときに得点を現金に換算できるというのなら、常に選択肢 a を選ぶのがやはり賢明である(まあゲーム外の状況はおいておくとして)

 こんなつまらないゲームでさえ発生した。ならばもちろん、ふだん議論にのぼるようなゲームならばほぼまちがいなく、発生していると考えていい。
 ソロプレイ感だって? いやいや、相互干渉は充分にあるのだ。


.ソロプレイ感とは

 相互干渉はある。ソロプレイではない。
 だが、ソロプレイ感を感じるゲームというのはやっぱり存在する。
 じゃあいったい、ソロプレイ感とはなんだろう。
 結論は決まっているのである。

  •  「気のせい」

 だって「感」って最初からいってるし。
 だが、まあ、それで終わらせてしまうわけにもいかないだろう。現実に「ソロプレイ感」を感じる瞬間はあるのだから。
 なぜ「相互干渉がない」と感じてしまうのだろうか。原因はいくつかあると思われる。代表的なものをあげれば、

  • 乱数の影響が大きすぎる
     たしかに相互干渉はあるし、それによって各プレイヤーの勝利確率には変動が起こっているのだが、そんなものは関係なく劇的なダイス運によってゲームが決まってしまう。

  • 他人の状況を気にする機会が少ない
     とくに、おのおのに一枚ずつのボードが渡されるゲームなどでは、プレイヤーたちの視線が交差する機会がないため、自分ひとりでゲームをしている気分になりがちになる。

  • 相互干渉のプロセスが直感的でない
     たとえば「表向きに何枚か並べられたカードから一枚を選ぶ」(すぐに補充される)みたいなゲームの場合など。もちろん自分がほしいものを選ぶのだが、そのさい、この選択が他人に影響を与えていることは意識しづらい。
     だが実は、この選択によって下家の選択肢が変わっている。下家がほしいと思っていたカードを、あなたがとってしまったかもしれないわけである。

 他にもいくつかありそう。
 まあしかし、相互干渉はあるんだという前提でみれば、どれもこれも 「そう感じてるだけじゃん?」 という風にも思えてくる。
 相互干渉はあるけど気づいていない。気づけないゲームが「ソロプレイ感」なのである。

 ゲームデザインと人間工学の問題というか。
 そのゲームデザインがたまたま、相互干渉そのものにプレイヤーの目がむきづらくなっているということなのだろう。
 デザイナーがそう意図した場合もあるだろうし、そうでない場合もある。
 さっきあんなことを書いてしまったが、これを「気のせい」と断じてしまうのは少し乱暴ではある。
 これは人間の脳がそういう風にできているという問題であって、極論をいうなら、同じゲームでも異星人ならソロプレイ感を感じないかもしれない。
 たとえば人間の脳には「確率の変化」を具体的にイメージすることが難しいようだが、そうでない脳があってもいいのだ。

 えーとようするに「ソロプレイ感は主観である」? これまたあたりまえだなあ。


.ソロプレイ感は回避できる(かも)

 さて、しかし、ということは、気のもちようで「ソロプレイ感」を回避することができる場合もありうるのである。
 現に、ある人が「インタラクションがなくてつまらない」というゲームを、他の人が「傑作!」と評価する場合もある。それはたぶん、同じ人間でも、人(脳)によってゲームを認識する方法がちがうということだ。
 そしてもうひとつ、重要な推論もある。それは

  • 「ソロプレイ感は訓練しだいでとりのぞける」
    (かもしれない)

 ということだ。
 人間の脳はよくできている。シナプスだかシワだかはつねに再構成をくりかえしていて、訓練しだいで、けっこういろいろなことができるようになる。
 いったいこのゲームは、誰のどの選択で勝者が決まったのか。考えていればみえるようになるかもしれない。
 もしもそうなれば。
 ソロプレイなんてとんでもない、気づかなかったけど超傑作だったよー! なんてこともあるかもしれないわけである。

 もちろん、それが最初からみえている人もいるし、どうがんばったってみえなそうな駄作もあるわけだが。


.なんとなくリンク

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.コメント


[2006.08.01 03:10]つつい :
しばらく考えてみた結果、次の結論に達しました。
マルチゲームは負けているときにできることによって分類できる。負けているときにできることは
・『攻撃』する
・確率の低い手段に賭ける
の2種類。
前者が強いものを「お仕事感が強い」、後者が強いものを「運ゲー」、ともに弱いものを「ソロプレイ感が強い」と評するのだと思います。


[2006.08.01 20:01]てらしま :
 つまり「このゲームが気に入らなかった」ときになにか言葉をあてるわけだけど、その原因はなにかバランスが悪いからで、バランスの悪さ成分の配合(笑)次第で言葉が変わるわけですね。そのとおりと思います。
 ただそれを評価するのはプレイヤーの主観なので、先入観や感情が入りこむ余地はつねにあります。
 ソロプレイ感から話がそれますが、たとえばサンファンプエルトリコと比べて運ゲーだとよくいわれるけど、実はサンファンのほうが、経験者の優位がずっと強いです。とか。


岩男 -2012/04/28 19:08
はじめまして。
結論は、「ソロプレイ感は主観である」ということでしょうか? 確かにそのとおりだと思いますが、ウボンゴはプレイヤーに操作できる相互作用が一切ありません。なので、自分の中でソロプレイ感に結論がでていません。てらしまさんは、ウボンゴのことをどうお考えでしょうか?


てらしま -2012/04/28 22:18
 少しだけ相互作用あった気もしますが、だいたいソロプレイでいいのでは(笑)
 ただ競争するところがインタラクションです。その競争感を宝石とるところで演出してるという構成かなあと思っています。
 複数人でやった方が楽しいし、ちゃんとそういう風に作ってあるいいゲームだと思います。


岩男 -2012/04/29 22:05
なるほど。競争がインタラクションですか。そうすると協力ゲーム以外はすべてインタラクションありですね。
ご回答ありがとうございました。


ソロプレイ感ってなんだを