遊星ゲームズ
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「見えないゲーム」(2)
 ゲーム・論考

.「キングメイカー」問題

 現代のボードゲームはあまり、戦闘をしない。
 これには理由がある。
 現在主流となっている、いわゆる「ユーロゲーム」は、ドイツから拡がった。ドイツ製のゲームの特徴として、家族向けの楽しいゲームが多い。戦争の反省が文化にも影響しており、戦争をテーマとしたゲームがあまり作られなかった、などともいわれている。
 しかしそれ以上に大きな理由があると、わたしは思う。
 ボードゲームには、3人以上で遊ばれるものが多くある。1対1だけではないのである。
 1対1のゲームと3人以上のゲームとでは、大きな違いがある。1対1なら、相手の損はそのまま自分の得だ。しかし、3人ではそうとは限らない。
 プレイヤーが3人以上になると、ボードゲームのインタラクションは、宿業ともいうべき大問題を引き起こす。ボードゲームの界隈では「キングメイカー」と呼ばれる現象が、その典型例だ。
 ボードゲームデザインにおいて、非常に重要かつやっかいな課題となっている。
 重要な問題なので、改めて確認しておきたいと思う。

 だけどその前に、ボードゲーム特有の言葉を説明しておきたい。
 ボードゲーム界隈でしばしば使われる言葉に「インタラクション」がある。
 ふつう、ゲームの話で「インタラクション」といえば、プレイヤーとゲーム(システム、プログラム)との相互作用、というような意味となるだろう。コンピュータ関連では「インタラクティブ性」などといわれることもあるだろうか。
 しかし、ボードゲームの場合は少しだけ、違う意味で使われる場合が多い。
 意味を限定した「プレイヤー間の相互作用」というのが、ボードゲームで使われる場合の、目的語を省略した「インタラクション」の意味となる。
 ほとんどの場合、ボードゲームには2人以上のプレイヤーが参加している。そしてルールブックには、勝者と敗者を決めるための条件が書かれている。「勝者と敗者を決める課程」こそが、多くのボードゲームにおける「ゲーム」だといえる。
 であれば、プレイヤーとゲームとの相互作用はそのまま、プレイヤーとプレイヤーの相互作用に置き換えられる。
 インタラクションという言葉は意味が限定され、自分と他のプレイヤーとの相互作用のことを指すことが多い。

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 そのインタラクションの典型例が「攻撃」だ。
 他のプレイヤーを攻撃し、損害を与える。相手の勝利を遠ざけることで、相対的に自分の勝利を近づけようという選択である。
 現に、こうしたシステムを持つゲームは多くある。しかし、この「攻撃」という選択肢には問題がある。特に、3人以上の場合に。
 たとえばプレイヤーAが、戦争のために1の資源を支払い、プレイヤーBを攻撃した。その結果、プレイヤーBは2の損害を受けた。この場合、もっとも得をしたのはだれか。なにもせずになんの資源も失っていない、プレイヤーCなのである。
 これがなぜ問題なのかは、さらに考えを進めればわかる。
 もしもこのとき、Bがトップを走っていたとしたら。AかCのどちらかがBを攻撃しなければ、Bが勝利してしまうのだとしたら? だが、攻撃をしたプレイヤーは損をしてしまうのだ。
 誰も攻撃しなければ自分は負けるが、攻撃したプレイヤーは負ける。では、AとCのどちらがその仕事を担当すべきなのか?
 当然、答えはない。
 ボードゲームをやっていると、こうした場面に遭遇するのは日常茶飯事だ。だから用語も発生している。「お仕事」というのがそれ。
 この問題は、ボードゲームにつねにつきまとっている。3人以上が参加するゲームにおいて、ほとんど必ず発生する。宿命といえる現象だ。
 この問題のアレンジが、ボードゲーム界隈で「キングメイカー」と呼ばれている問題となる。
 例えば。
 もはや勝利の可能性を失ったプレイヤーAがいるとする。このAが、現在トップのプレイヤーBを攻撃した。その結果、プレイヤーCが勝利した。
 しかしもしも、Aの攻撃対象がCだったら。あるいは、攻撃以外の選択をしていたら。もちろん、Bが勝っていただろう。
 この典型的なケースでの問題は、Aに勝利の可能性がないことだ。どうやっても勝てないのだから、Aの選択には正解がない。しかし、このゲームの勝者を決めるのはAなのである。
 プレイヤーの努力が勝利につながらない、ゲームに参加したすべてのプレイヤーにとって、納得できない結末となってしまう。
ルールズ・オブ・プレイ』にいう「意味ある遊び(ミーニングフルプレイ)」を、達成できないのである。
 3人以上のゲームでは、本質的にこの問題を解決できない。
 典型的な状況として「攻撃」をとりあげたが、この問題はインタラクションのかたちを問わない。ルールブックに勝者と敗者を決める方法が書かれており、インタラクションがあるのなら、そして3人以上のプレイヤーがいるのなら、必ずこの問題は発生しうる。証明は省くが、ルールから論理的に導き出せる帰納なのである。
 もっといえば。
 ボードゲームはほとんど究極にシンプルなゲームだ。だから、こうした本質的問題があらわになりやすい。だがじつは、これはボードゲームだけの問題ではない。
 上に書いた前提条件は、3人以上が競争している状況なら必ず発生しうる。そして現に起こっている。コンピュータゲームでも、あるいはスポーツでも、なんでもそうだ。
 ただ、ボードゲーム以外ではあまり認識されていないように思う。研究対象としてのボードゲームの役割のひとつは、こうした「競争の本質」ではないか。

.キングメイカーの解決策

 3人以上の参加者がいる以上、必ずどこかで、多かれ少なかれ、この問題が発生している。ボードゲームデザイナーはつねにこの問題と戦ってきた。
 答えはない。これはゲームルールから導き出せる論理的な問題であり、解決は不可能だ。
 しかし、デザイン上の技術により覆い隠す、いわば「ごまかす」ことなら可能だ。ゲームデザイナーたちの模索の結果、確立した方法がいくつか登場している。

 ひとつは、インタラクションをなくすこと。最初に書いた「あまり攻撃をしない」ゲームは、この方法論を採用していることになる。
 プレイヤーの選択が、ほかのプレイヤーに影響を与えなければいいのだ。
 たとえば、各プレイヤーに1個ずつのクロスワードパズルが配られ、いっせいにスタートする。もっとも早く問題を解いたプレイヤーの勝利。そんなゲームであれば、インタラクションに関する問題は起こらない。
 しかしこれは、各プレイヤーがそれぞれに一人用ゲームをしているのと同じだ。これはゲームだろうか?
 定義によるが、少なくとも、複数人でゲームをしている意味は薄れている。ボードゲームの醍醐味の大きな部分が失われているとはいえるだろう(ただそうしたゲームでも、遊びとしておもしろいということはある)。
 もちろん、ここに書いたのは極端な例だ。ほとんどはどこかに、控えめなインタラクションを残している。しかし、じっさいにまったくインタラクションがないゲームもあったりする。
 そうしてインタラクションを弱め、攻撃をなくす。これは、近年のボードゲームで多く採用されている、流行のひとつだ。最近のゲームは本当に、攻撃がない。

 もうひとつは、運を入れること。プレイヤー同士の相互作用はあるが、それをキャンセルできる強さで運を作用させるのである。
 サイコロやカードを使う目的はこれだ。これならいくら攻撃されても、サイコロ運次第で逆転できるかもしれない。そういう調整を施すのである。
「キングメイカー」が、誰かの勝利確率を著しく下げることはあるかもしれない。しかし、運がよければ巻き返すことができる。
 1点の攻撃を受けても、サイコロ運次第で2点を得ることができれば、逆転の仮想性は残る。
 この方法は、昔から多用されている。モノポリーのサイコロが代表的だろう。解決法のひとつであるとはいえる。
 ただこの方法にも問題はある。
 システムに運を多用しすぎると、プレイヤーの努力がすべてサイコロにキャンセルされてしまう結果になる。どんなに考えて最適手を打ちつづけても、最終ターンのサイコロ運1回で逆転されてしまうのなら、それまでのゲームはなんだったのか?
 プレイヤーにとって納得できないゲームが生まれてしまいやすい(「ただの運ゲーだ!」)。「意味ある遊び(ミーニングフルプレイ)」が、損なわれてしまう。
 もちろんモノポリーにも、運要素までを加味した戦略論があるのだが。すべてのプレイヤーがそう思えるわけではないのだ。

 さらにもう一つ、別の方法がある。
 インタラクションや運による影響を充分に複雑にし、現実的に読み切れない状態にするのである。
 モノポリーのゲームデザインは正しい。しかしやはり、けっきょくすべてがサイコロ運で決まってしまうのでは、プレイヤーが納得しづらい。プレイヤーの努力が充分に反映されたという満足感が足りない。少なくとも、最近のボードゲームの流行はそういっている。
 ただの運では、理想的な方法といえない。
 だから、運の代わりに「プレイヤーが読めるかもしれないが実際には読み切れない複雑さ」を盛り込む。
 また「攻撃」も採用しない。なぜなら、プレイヤーを指定した攻撃はたいてい、ゲームに与える効果が直接的で、わかりやすいから。
 どの瞬間に、どの操作が勝者を決定したのか。それがプレイヤーにわかってはいけないのだ。わかってしまったら、その瞬間に意味ある遊び(ミーニングフルプレイ)が崩れてしまう(少し極論気味ではあるが)。
 数学的にいえば、カオス系をデザインすることといえるだろうか。
 単純な初期条件から、複雑なふるまいを実現する。ここでいう初期条件とは、プレイヤーの選択。ふるまいは、その操作からルールにしたがい展開されるゲーム局面である。ふるまいの中には、ほかのプレイヤーの選択やその結果などを含んでもいいだろう。

 ゲームを決める決定的な瞬間を、複雑さの中に覆い隠す。
 これはずっと昔からボードゲームがやってきたことでもある。
 だがボードゲームである以上、ただ単に煩雑な処理を追加するわけにはいかない。前にも書いたように、ボードゲームはすべての処理をプレイヤーが実行する。操作が煩雑すぎると、そもそもプレイすること自体が困難になってしまう。
 一般的にいえば、ゲームの複雑さとプレイアビリティはトレードオフだ。
 ただし、これは原理でも定理でもない。斬新な新発明があれば限界を破れることがある。
 あくまで、簡単に処理できること。しかしその裏側で、プレイヤーが意識せずに充分に複雑なロジックが実行されている。そんなシステムがあれば、それは限界を突破する発明ということになる。
 プレイヤーは、自分が実際になにを処理しているのかを知らないままコマを動かし、カードをめくる。その結果はルールにしたがい簡単に処理できる。だがその操作の裏に、プレイヤーが充分に知覚できない複雑なふるまいが隠されている。そんなゲームシステムを作ることができればいい。
 もちろん簡単ではない。だが、近年のボードゲームデザイナーたちは、これを実現してきた。そうして、急速に高まるユーザの要求を満たしてきたのだ。

 そのひとつの例として、ボードゲームのファンたちが「ワーカープレイスメント」と呼ぶゲームシステムを紹介したいと、思ったところで次回に続く。

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