オリジナルはずいぶん昔のゲームのようだが、2009年に幻冬舎エデュケーションがリメイクした。デザイナーはあのアレックス・ランドルフ。いまでは本屋で売ってるので、たぶんそこらのボードゲームよりも手に入りやすいだろう。
ルールはいたって簡単。
1から7までの数字が書かれたタイルを、何枚か、裏向きで渡される。それを自分の前に、あちらをむけて立てる。
インディアンポーカー方式だ。自分のタイルだけが見えていないんである。
幻冬舎エデュケーション版はプラスチック製で、しっかりとした厚みがありちゃんと立つようになっている。裏がへこんでいて、そこを指で押さえればさらにがっちりと安定する。
このゲームをプレイするための用具として、このかたちは非常にマッチしていると思う。こういうのに触れると気分がいい。
で、その、見えていない自分のタイルの数字を当てるのが目的。
それだけだ。
手番がきたら、数字を1個宣言する。それが当っていれば、他のプレイヤーがそのタイルを倒す。
配られたタイルを全部当てたら勝ち。である。
推理の材料となるのは2つ。
ひとつはもちろん、見えている他人の数字だ。
各数字タイルの枚数は、もちろんルールブックに書いてある。必ず何枚かは使わないタイルがあるから、確実にはわからないのだが、情報はだいぶ見えている。
だから、
「5があまり見えてないから、自分の手にあるに違いない!」
とか、そういう推理を働かせることができる。
このタイルの枚数が、非常によくできている。なんといってもこのゲームの、デザイン上の肝ではないかと思う。
たとえば「1」のタイルは1枚ある。「2」は2枚。「3」は3枚。
数字と同じ枚数である。わかりやすい。
すべて同じ枚数ずつ、ではない。そこが重要だ。タイルごとに枚数の差をもたせた。これはいいかたを変えれば、それぞれのタイルにキャラクターを持たせたのだ。
人間は、平坦な分布を嫌う。カタンがおもしろいのは、使うダイスが1個ではなく2個だから。
1個のダイスの出目の分布は平坦だが、2個の合計は平坦ではない。8は9よりも出やすい。だから、8に置く選択と9に置く選択は違うのだと、はっきり認識することができる。
違うから、脳の中で個性を加えて、一つ一つを別のモノとして認識できる。
平坦な分布では、それぞれの出目を区別することができない。2であることと3であることの間に差がなければ、どれを選んでもいいことになる。そういう選択は、人間にとっておもしろくないんである。
ドメモだって、平坦な分布としてもよかったはずだ。
もしデザイナーが違えば、たとえば数字ではなく色で「赤」「青」「黄色」……が4枚ずつ、というゲームになる可能性もあった。そういうゲームでも、充分にありそうではないか?
そこはさすがランドルフ、といったところだろう。おそろしくシンプルかつエレガントに、ゲームのおもしろさを倍加してみせたんじゃなかろうか。
そんなタイル枚数の事情があるから、他人の宣言にも意味をもたせて聞くことができる。
もうひとつの推理材料は、他人の宣言だ。
たとえば他人が「1」と宣言したなら。それはきっと、その宣言者から「1」の数字が見えていない。なにしろ「1」は1枚しかないのだから。
つまり、自分のタイルに「1」はない!
そういう推理を、それぞれの数字についてすることができる。
やることは数字を宣言するだけ。それなのに、さまざまな推理を働かせることができる。
または、ときにはブラフを交えた宣言をしてみてもいいかもしれない。
非常におもしろい。
我々素人から見れば、こういうゲームは「神の手」が作ったんじゃないか。とさえ思える。
すべてがぴたりと収まるべきところに収まっていて、極限までシンプルで、なおかつおもしろい。そんなこと、狙ってやれるわけがないという気がしてしまう。つまり、デザイナーの意図した以上におもしろくなってしまったんじゃないかと。
傑作というのはなんでも、あるていどそういう面はあるだろう。
しかし、それを何度もやってみせているデザイナーがいるのもたしかだ。
彼らの頭の中にはなにかがあるんだろうなと思う。
そんなことを考えてしまう、そういう領域にいるゲームである。
すぎもと -2010/03/15 22:59
8は9よりも出づらい。
逆です。
てらしま -2010/03/16 00:51
あどうも。なおしました。