アナログゲームではなく純粋にコンピュータゲームなんだけど。なぜ」紹介するかというと、デッキ構築ゲームだから。
ブラウザ上でできる、いわゆる基本無料というかフリーミアムというかアイテム課金のゲームだ。
中野のボードゲームショップ、ドロッセルマイヤーズが開発にかんでるらしい。そんなわけで、ボードゲームの文脈から出てきたものではあるし、ボードゲーム屋が作ったゲームでもある。
いまオープンベータテスト中なので未完成ではあるのだけど。
デッキゲームではあるが、ドミニオンクローンとはいいがたい。かなり違う。それだけで一定の評価に値するというかなんというか……。
まず、手札が5枚ではない。これは大きい。ラウンド終了時に自分の山札から5枚引くルールがある限りドミニオンと大差ない、というのは確か前にも書いたと思うけど。もちろんそれが4枚でも6枚でも同じ。
このゲームの場合、手札の枚数はなんと不定。何枚でも引いていい。
どういうことかというと。「トラブルカード」というのが、デッキ中に必ず4枚入っていて。2種類各2枚入っているんだけど、同じ種類のトラブルカードを2枚引いてしまったら「バースト」する。バーストというのはとにかく、そのターンはなにもできずに終わってしまう。バーストしないかぎりは何枚でも引いていいというわけだ。
こうなるともう、デッキゲームというよりキャントストップ系の雰囲気が出てくる。
このドロー方法とも関連するのだけど、カード獲得方法もだいぶ違う。獲得したら必ず、プレイエリアから1枚を廃棄しなければならない。つまり普通にやっていると、デッキの枚数が変わらないのだ。
ここまで違うと、もはやだいぶドミニオンではない。セオリーも考え方もかなり変わってくる。
ちなみに、その他のルールはだいたいドミニオンから流用している。アクション数、コイン、購入回数、という数値はそのまま残っている。
デッキゲーをやるとだいたい思うのは「銀貨強い」だ。なぜそうなるかというと、アクションカードが本家ドミニオンより弱いから。銀貨が相対的に強くなってしまうのだ。
本家ドミニオンのデザイナーほどゲームの構造を理解していないから「強すぎるカードをあえて入れる」をやれないんだろうと思う。まあ、ヴァッカリーノほどバカになるのはなかなか難しいのだが。
または、ドミニオンにルールを付け足して作られることがほとんどだから、その付け足したルールのフレーム上で制限が発生してしまうということもある。例えば『ハートオブクラウン』は、ゲーム中に必ず1回、6コインを支払い姫を擁立しなければならない。それが勝利条件の一部なのだ。だから、6コインが出せなくなるほど強力なアタックカードは作りづらい。ハートオブクラウンはかなり攻めている方なのだが、それでも、ドミニオンの魔女と同じカードは採用できなかった。
パイレーツオブリベルタでも、銀貨は強い。他のデッキゲームよりも強いくらいだ。アクションカードは弱めに見える。
しかし、少しやっていると意外とそうでもなくなってくる。そこはやはり、ゲームのフレーム自体が違うから。
ドミニオンはだいたい、銀貨より強く金貨より弱いアクションカードが中心のゲームなのだけど、このパイレーツオブリベルタは、銀貨より弱く安いカードがけっこう重要だ。このゲーム、ゲーム開始時の生産力では銀貨相当のカードが安定して買えない。そういう調整になっている。序盤は銅貨を買う場面もかなりあるし、1~2コストのカードの使い方が重要になってきたりもする。
また、そうした安いカードが重要だから、購入権(このゲームでは獲得数)の価値がドミニオンよりも高い。
そういう調整はもう完全にドミニオンから離れつつあると感じるし、おもしろい。
というあたりまでわかってきたところだ。
最初はよくわからないからいろいろなカードを買ってみるが、もちろん負ける。次に基本に立ち戻って銀貨を買うようにすると勝てるようになる。そして、その上で改めて考えてみると、上に書いたようなことが見えてきた。こういう学習過程は、たいていのデッキゲーで辿る。
逆にいうと、初見殺しということになる。買ったら負けるカード、罠ルートが大量にあり、それを知っているプレイヤーはものすごく有利になる。ドミニオンは経験者と初心者の差がとんでもなく大きいのだけど、原因はそこにある。パイレーツオブリベルタも、そのあたりは引き継いでいる。
こういうところはやっぱりデッキゲームだなあと思ったりもする。
なので、基本的な考え方には使える部分があるともいえる。なんだ、拙著『ドミニオンレシピ』に書いた生産力の考え方とかは有効だよとかいってみればいいのか。
「初見殺し」というか習熟度が勝率に反映されるところは、デジタルゲームだと思ってみるとそのほうがいいという気もしてくる。デッキゲームはそもそもデジタルゲーム的なのかもしれない。
ドミニオンよりもずっと運ゲーだ。リスクを犯してドローに成功してしまえば、例えば序盤に金貨が取れてしまう。拡大再生産するゲームだから、そうなったプレイヤーは非常に有利になる。バーストし続けたプレイヤーはどう考えても勝てない。そのあたり、ここまで運ゲーにシフトさせる必要あるのかとはまあ感じる。つねに勝てる可能性が残るので、これはいいところでもあるのだけど。
あと、キングメイカー問題も気になる(勝利点が表示されてる!?)。
そういう、なんか気になるところはそれなりにある。まあそういうのはあるものだし、ユーザには見えない理由があったりするんだけど。
とはいえ、そういうことを語れること自体が、オリジナルのゲームである証拠というか。デッキゲームの日本での受容のひとつのかたちとして、歓迎したいと思う。デッキゲーマーとしては(笑)。
惜しいのは、というか別に惜しくないけど、デジタルだというところか。アナログゲーマーとしてはもちろん、アナログで出てほしかったりはする。
そういえば、そのあたりも話さないといけない。このゲームはデジタルゲームである必要があるのか。
いちおうルール上は、アナログで実現できそうな感じになっている。カードの中にいくつか、デジタルでなければ実現できないものはあるのだけど。
では、この同じシステムを使ったアナログゲームを作って成立するかというと、怪しい。
例えばこのゲーム、勝利点が表示されているのだけど。このためには勝利点トラックが必要で、これはカードを獲得したり廃棄したりするたびにやらなければならない。かなり煩雑になるだろう。また、毎ターン必ずシャッフルするルールも面倒だ。ドミニオン流のコイン、アクション、購入権の管理は、このドロールールと併用するには複雑すぎ管理できないと思う。
そういういろいろな(アナログでやるには)煩雑なところがあって、アナログにしてしまうとおもしろさが損なわれてしまうだろうと思う。このゲームはデジタルでなければならないのかといえば、YESだ。
じゃあ、デジタルゲームとして、はじめからデジタルゲームの戦場で戦う力があるのかどうかというと、それは難しい問題だ。わからないけどどうなんだろう。
話を広げるなら。このゲームだけの話ではなく、そもそもゲームがアナログである必然性はどこにあるのか。
この問いは、最近かなりリアリティを帯びてきている。それこそドミニオンの最近の拡張カードの中には、アナログでやるには無理があるほど複雑な効果もあったりする。ドミニオンはとっくに、デジタル環境のほうが多く遊ばれているゲームなのだ。
たとえば最近のゲームでいうとテラミスティカは、ブラウザ上でAI相手に対戦するツールがある。こういう腕が勝率に直結するゲームでは、AI相手のソロプレイはとても有効だ。なにしろ試行回数が桁違いになり、習熟度に大変な差ができてしまう。そうして習熟したレベルが前提になったとき、それはアナログで完結したゲームといえるのか。あるいは、最初からデジタルではダメだったのか。
そんなことを考えていくと、アナログゲームのアイデンティティを保つのはけっこう難しい。実際、ウォーシミュレーションゲームやロールプレイングゲームはかなりの部分デジタルに取って代わられたわけで。
というあたりの話が、先日行われた沢田大樹氏の講演で話されていた。
いわゆるドイツゲームのアイデンティティは、彼の論の中では「ポリティクス」になるだろう。これは政治や駆け引きなどを意味する言葉だが、ゲームでいえば、プレイヤー間の政治がゲームに影響を及ぼすような要素、つまり誰か他のプレイヤーを指定して攻撃したり助けたり、変化を及ぼすことができる要素のことだ。
インタラクションといってもいいのだが、それよりも明示的に対象を指定するニュアンスが含まれている。
このポリティクスがあるのなら、対面のコミュニケーションが重要な意味を持つことになる。デジタルではまだ実現できない領域は残っているわけだから、アナログであることに意味はある。確かに。
そして近年のゲームではポリティクスが失われている、という話も講演で語られていた。
なるほど、すべてに賛成というわけでもないが、たしかにそういうところはある。コンピュータ上で遊べるようになり、ポリティクスが失われ、そうした状況で、ドイツ式ボードゲームは果たして自立し続けることができるのかどうか。たしかに考えてしまう。