大袈裟なタイトルでもうしわけない。でもなんか最近そんなことを思いはじめたんです。
本質なんてまあなんにだってあるんだろうけど、プエルトリコは特に、それが見やすいかたちであると思うのである。
それに有名だから話のネタにしやすいし。
プエルトリコは、どうみたってエレガントなゲームではない。ごちゃごちゃといろんなルールがつめこまれたシステムである。
ということは、このシステムはすべてが人工物であり、偶然の産物ではないということ。
ひとつひとつのロジックにはすべて製作者の意図がある。それぞれが深く結合しているわけでもないから、切り出して考察ロックスなどは、ブロックのかたちに製作者の意図がない。1〜5個の四角を並べるときの全パターンがあるだけで、いってみれば、未調整なのである。しかしファンが多い。おもしろさがあるのだ。
しかし、そんなブロックスを分析することは非常に困難なのである。
そういう意味で「プエルトリコには本質がある」と思うのである。
まず、ゲームにはリソースが必要だ。それも、マルチゲームとなると複数のリソースが必要になる。
リソースというのはたとえば「お金」とか「建物」とか「勝利得点」とか、いろいろである。そういうわかりやすいものでなくとも、たとえばブロックスならまあ「盤面と手持ちのブロック」。もう少し具体的には「角の数」とか?(厳密には「次に手元のブロックを置くパターンの総合計」。さらに厳密にはゲーム終了時まで先読みしなきゃならないけど、そこまでやるともう通常のゲームではなくなる)
そういうものが増えたり減ったりしていき、最終的に勝利条件に近づいていく、というかたちが基本だろう。
これはどんなゲームでも、ムリヤリこじつければあてはまる。
リソース間では変換がおこなわれる。プエルトリコなら「ダブロン」が「建物」になったり「商品」が「勝利得点」になったりする。
ここで重要なことは、それぞれの変換ロジックはまったく別のものでなければならないということだ。
ちょっとだけ理系ぽくいいかえれば、
「リソースの変換関数はそれぞれに相関の弱いものでなければならない」
ということになる。直交していろとまではいわないが、できるだけ似ていないロジックが使われていたほうがいい。
重要なのはこれである。
プエルトリコのえらいところは、各リソースにそれぞれ別の意味をもたせてあるところである。けっきょくすべてのリソースは最終目標である「勝利点」を増やすために使われるわけだが、そこにいたるまでのロジックが、複数用意されているわけだ。
なぜ重要かというと、プレイヤーの人数がちょっと多いからである。
4人のプレイヤーがいるなら、たぶん4個以上の勝利点獲得ロジックがなければならない。そうしないと、脱落したプレイヤーは脱落したままで逆転のできないゲームになってしまう。
勝利点を獲得するためのロジックがひとつしかない場合。これは単なる競争である。
プレイヤーが二人ならこれでもいいが、3人になるとよくない。
もちろんそれでもゲームにはなるんだけど、なにしろ道すじがひとつしかないわけだから、差がついたら基本的に追いつけないのである。
二人なら「勝った」「負けた」を決めるだけだから、大差がついたら片方が投了すればいいが、3人以上のマルチゲームで投了は許されない。
マルチゲームのデザインを一番難しくしているのはこれだろう。投了できないということは、大差がつかないデザインにするか、逆転のための手段が最後まである(あるように感じられる)デザインにするしかないのである。
で、話が戻る。
勝利に至る道すじが複数なければ、おもしろいマルチゲームにはならないんである。
それも、まったく違うロジックを経由しなければならないし、たぶん人数分用意されていなければならない(※1)。
そして、それらはすべて別のロジックでありながら、他の道すじに勝利しうるものでなければならない。強さに大きな差があれば、弱い道すじを選択するプレイヤーはいなくなり、実質的に存在しないのと同じになってしまうから。
プエルトリコの話だった。
ここでいってるロジックというのは、勝利点を加算するための関数のことである。この関数の引数には、勝利点以外の各リソースが入ることになる。
プエルトリコでいえば「商品」「建物」「ダブロン」「市民」「プランテーション」あるいは「ターン(時間)」「商船」などももちろん含まれる。この規模のゲームとしてはかなり多いといえる。
これらが、これまた複雑な変換ロジックでさまざまに遷りかわり、最終的に勝利点の加算につながっていく。
ここまでで、基本的には「商品を出荷して得点に変換する」派と「商品を売ったダブロンで建物(勝利得点)を買う」派の二つの道すじが存在することになる。
プエルトリコのおもしろいところは、これらのロジックを実行するために「役割カード」を選択するという点だ。これにより、プレイヤーの選択次第でゲームがいくらでも変化できることになる。
非常に明確に各ロジックを(極めて人為的に)定義したデザインで、エレガントではないが解析しやすい。オブジェクト指向だ。
さらに、建物の効果でロジックが拡張されたりもする。これは、ここまでのルールで発生している二つの道すじをさらに細分化している。同じ建物派でも「ギルドホール」と「市役所」は共存できるのである。
この二つの建物は、本当に明確に勝利までの道すじを増やすために実装されたものと思えるわけで、製作者の試行のあとがうかがえておもしろいわけだが。
ただし、プエルトリコが理想のゲームというわけでは決してない。リソースは多すぎだろうし、そのわりに勝利得点を得る手段はたった二つに集約されてしまっているわけで、これは5人プレイ時には少し足りないと思う。
それにやはり、天才的なひらめきで作られたゲームの、単純さや美しさやとっつきやすさはない。
でも、だからこそシステムの中に、必死に調整した「筆の跡」みたいなものがみえるわけで。それを追うことで、ゲームデザインのことやマルチゲームのことを考えてみることができる。
そういうわけで。
おもしろいゲームに必要なものは、プエルトリコを考えてみればわかる。という気がしているわけである。
……あ、でも「天才的なひらめき」があったならそっちを使ったほうがいいかな。
「遅くなってきたら場当たりでなんとかする」という、これまでもしたがってきたコンセプトにより、ちょっとチューンした。トップページで0.3秒くらい(dprofppによれば)速くなったそうだけど、なったんだろうか。
つーかまだそんなに速くなるってことは、いかにヘボーなプログラム書いてたかってことでもあるわけだが(汗)。しかも2行足しただけだし。
それにしても、チューンすればするほどわけわからないソースになるのはわたしの腕のせいなのかPerlのせいなのか。
さて、そろそろmod_perl(とかそういう系のなにか)導入とか考えるべきという気もしてきました。やってること考えると劇的に速くなるはずなんだけど、めんどくさいから手を出してなかったわけですが。……いややっぱめんどくさいし、また遅く感じてきたらでいいかー。
しかし、こういうことやってても仕事(実はPGの卵)に役立つ気はまるでせんのですな。
結論:そんなものはない(ぉ
基本的に、マルチゲームは「一番乗ってる奴」とどう戦うかだ。4人もプレイヤーがいると、一人くらいは「なにもかもうまくいっちゃう奴」がいる。そいつと戦うために、あるいは自分がそいつになるためにはどうしたらいいだろうかということを考える必要がある。
もちろんこれは、必ず1位のみを目指してプレイする場合の話で、まあ一般的には「2位かー。惜しかったな」などという感想をいうものなので、そういう場合はまた別のプレイスタイルになるんだろうけど。(2位になるのはリスクを避けた人で、もっとも1位から遠いプレイをしていたという場合も多いのだ)
で、その「うまくいっちゃってる奴」と戦うことを考えると、ゲームの戦略ががらりと変わってしまうことがあるんではないかと思った。
たとえばプエルトリコで、積極的に買うべきでない建物というのが出てくる。
というわけで、一個目の建物として建てていいのは、小さい市場、石切り場、インディゴ桶、サトウ生産所のいずれかしかなくなってしまう。まあもちろん、がんばって大きな市場かタバコにいく手もあるが、それくらいだ。
そして、こうして建物を限定してみると、ただの生産施設というのは非常に強い建物だということに気づく。
ということは、このゲームでもっとも勝利に近いのはやはりギルドホールか港なのだ。
さらに。その「うまくいってる奴」ならいつギルドホールを買えるのかということを考えれば、工場ですら無駄かもしれない。建築を一回見送って、自分が先にギルドホールを買わなければ勝てないかもしれないのである。
でも、こういうゲームのおもしろさというのは「それはわかってるけど俺は農地の可能性を切り開くぜ」がやれるところなんだよなー。
というのはともかく。
自分が「なにもかも〜」の人じゃないなら、逆転の秘策を準備しなければならないのである。トップに得点が入らず、自分には大量の得点が入る方法を捜し出さなければ勝てないのだ。
プエルトリコには、(一応)それがある。ただし、かなり早い段階で不利に気づかなければならないけど。
いいゲームというのは、その準備をする手段が残されるゲームのことなんではないかなあ。
いやもうほんとにいってるだけなんで無視してほしいんだけど、昨日の記事の続き。
たとえばわたしは、なんだかんだといっても『スターウォーズ』を見てない人とはわかりあえない。いやそんなにすごいファンというわけじゃないけど、でもまちがいなくこれは本当だ。ということはスターウォーズを見てない人がラーメンについてなにを書いてても、わたしにとっては無意味な情報なんである。
究極的には
「スターウォーズを見てて(当然エピソード1〜3には否定的な意見をもっていて)、ガンダムよりボトムズでボードゲーマーで、サッカーが好きな喫煙者で、いま聞いているのはPolysics」
という人の好きなラーメンはなんだろうというのを検索できるのが理想だろう。しかしそこまでの情報をWEBに公開してる人がそうそういるはずもないし、そんなサイトのページランクは低いに決まってる。
だいたい、スターウォーズについていまさら書く必要なんて普通はないし、だからたぶんそんなワードで検索したってわたしのサイトがでるはずもない。スターウォーズとラーメン両方のファンは、ほんとは少なくはないだろうが、両方の有用な情報を同時に発信している情報源はないだろうし、あっても見ない。
そこで思った。JIS規格みたいなもので「コアワード」みたいなのを指定して、それを登録しておくと、その人が発信するあらゆる情報にメタ情報として付加されるというのはどうだろう。コアワードとしてはもちろん「スターウォーズ」「ボトムズ」「喫煙」とか「ミラニスタ」「ファッション誌はJJ」「すき家派」「蕎麦にはわさび」とかがある。(ちなみにわたしのことじゃない)
……いや、けっきょく「ヤングガン・カルナバル」や「満腹ボクサー徳川。」がコアワードになるはずもないし。ダメか……。
[2006.11.25 02:08]おうめ :
SNSってそういうニーズに答えるはずだったし、一部答えてんのかなあ。でも機能主義じゃないから、検索ってのとは別だなあ
[2006.11.25 15:51]てらしま :
たしかに一部答えてるし、そういうことするためにあるものだとは思うけど、趣味の合う人を捜すのとちょっと必要な情報を検索したいのとは手間のレベルが違うんだよね。
[2006.11.26 01:24]なかた :
いわゆるSNSが目指してるのとはちょっと違うよね。交流とかぜんぜん目的とせずに、粛々と自分の好きなことを記録し続ける必要があるから。
あ、もしかするとライフログの方が方向性としては近いかもだ。
[2006.12.02 20:05]anonymous :
生活全般のジャンルをクロスオーバーしたlastfとかamazonのおすすめみたいなもんが必要なのかな。
天下一品に良く行く人が見るTVみたいな。
窮屈な感じもするね
インターネットというのはたぶん本質的に、無難なものが評価される場所だ。誰でも参加できるわけだから。最高点がいくつついても、一つ気にいらないところがあった人が0点をつけると評価ががくっと下がる。
たとえばラーメンデータベースなんてものを気まぐれに見てみたりしても、正直まったく信用する気になれないんである。評価低いなと思ってコメント読んだら「灰皿があったから二度といかない」って書いてあったり。苦手な人もいる油多い系が総じて評価低いのは当然だし。
でもこってりなラーメン喰ったあとにタバコ吸いたい人もいるんだよな。
こういう統計のとりかたにはいろんな試行錯誤があるようだ。最近よく聞くベイズ統計とかもそう。でもだいたい、そういう統計はサンプル数が充分にある場合にしか有効にならなくて、しかしウェブで調べたい情報というのは雑誌に載っていない情報なのである。「こってり好きの喫煙者に絞った評価」がほしいんである。
あるいは、本なら「青背読みが好きなライトノベル」とかそういう情報でないと、ウェブにある意味がない。もっとも、本の場合は種類があまりにも多いから「青背とライトノベルが好きな人しか読まない本」に関してなら信用できる評価になっちゃうわけだけど。
なにやら知人が本に関してそういうプロジェクトに着手してるらしいなんてことに関係して(やってるのはこの人じゃないけど)、そんなことを思った。それだけ。