まずいっておきたいが、これは負けちゃいけない試合ではない。相手がワントップでくることがわかっていて、4バックもやれるはずのチームが3バックで臨むのだから、ジーコもある程度はそのつもりだったと思う。
始まってみれば、そういう理論どおりにサイドを突かれまくりだ。ブルガリアは守備が微妙だが、サイドアタックはやけに手馴れている。
ヨーロッパで負け慣れていて、守備を固めて一縷の望みをただただ待つ、そういうチームを想像していたのだが、ぜんぜん違うのだ。勝てないのは攻撃的に戦っているから、というチームだろう。なんか好感が持てる。
そんな相手に、なんの策もなく(試合からは特別な作戦は感じられなかった)3バックで挑むのだから。失点はして当然だ。ボランチが上がるのを我慢するとか、ウイングバックが一人、意図的に後ろでプレイするとか、やりようはあると思うのだが、この試合の日本選手がとった行動はそういうものとはまったく逆だった。
わかっててやったとしか思えない。
もっとも、国内組の試合では3バック、というのは実績のある方法だからそれにしたがったという見方もできるけど。いろんな人を試したいこの試合、ディフェンダーはもう決まっているから、ミッドフィルダーにより多くの人を割きたかった、んじゃないかなあ。
つまり、勝敗よりもテストを優先した、のではないか。
いやもちろん負けはよくない。どんな試合だって負けちゃいけない。負けた以上、この試合で「テスト」を受けた当落線上の連中は軒並み落選と思っていい。そういう重さは、当然なければならない。
そういう真剣味のなさというか「あーこの試合はダメだな」みたいなチームの雰囲気を感じさせてくれるのは川口だ。最近のこの人は、チームが乗っている時はとれないボールもとるが、今日のような試合ではミスが出る。常に完璧な奴ではなく、集中力の人なんだろう。
2点目のフリーキックも、ゴールキーパーとしては難しい判断が要求されるボールだったが、乗っている川口ならあと5センチ手が伸びていると思う。
あれは、ああいう場面を簡単に作らせるチームが悪い。本当にそうなのかどうかはわからないけど、川口はそう思っていたんじゃないか。
遠目のフリーキックが、ゴール右隅に飛ぶ。でもパスとも思えるボールで、そこには敵の長身選手が走りこんでくる。
ゴールキーパーはもともと「失敗してもしかたない」職業だ。ならばああいうときは、決定的な瞬間の直前にどちらかにきめ打ちする必要がある。と思う。どちらに飛ぶか迷っている間に、どちらに飛んでもとれなくなってしまうことだけは避けなければならないと思う。
今日の川口はそれをやってしまった。
ボールが蹴られた瞬間にどちらかに寄っておくとかでもいいかもしれない。いずれにしろ、この人が本当に集中していればあんな動きはしない気がする。
まあ本番はワールドカップだ。こんな試合ではなく本物の本番で集中してくれればいい。この試合に出られなかった連中が入った本番用チームを、川口は信用することができるだろうか。選手たちの能力から見れば予選突破の可能性は充分に高いのはわかっているが、けっきょく、チームの問題だろうと思う。
「決定力不足」もチームの問題だ。フォワードに、一人で点をとるほどの能力があれば、いくらでも得点できていると思うが、日本人にはそういう奴はいないから、チームがいい状態でなければ得点できないのだ。
そういう意味では、一人で倒れて誰もとれないフリーキックで得点する中村は一つの解決策なのだ。加えて、個人的には、なんでも起こりうる平山の頭も入れておきたかった。
2006.05.10 00:14 てらしま
クロマニョンとネアンデルタールは、どちらが生存競争に勝利してもおかしくはなかったんである。我々の宇宙では、たまたまクロマニョンが勝ったが、脳容積はネアンデルタールのほうが大きいし、ネアンデルタールが勝った歴史が、並行宇宙のどこかにはあってもいい。
というネタ。(ネアンデルタール側の)量子コンピュータの実験中に並行宇宙からこちらの宇宙にやってきてしまったネアンデルタールの男の話である。
まあ、筋だけを見れば、というかほんとに筋は、角川映画ででもやりそうなほのぼのファンタジー系の話。いや、話自体の出来でいえば、角川映画のほうが上。
ああ、そういえばあったねそういうD級映画が。もっとも、ソウヤーユニバースの北京原人は×××だったようだが(ネタバレ回避のため伏字)。
短編でできそうな話である。
しかしそれが、920円分の本一冊じっくりと書きこまれている。そのあたりはさすがだ。異星人(ではないが)の進化過程から宗教、文化、椅子やベッドの形までとにかくいろんなことを考えるのが、好きなんだろう。
そういうのをいろいろ説明したりしているだけで、我々SFファンには充分に楽しいのである。
裁判の場面が出てきたりもして『イリーガル・エイリアン』を連想させる。まあ印象としては、イリーガル・エイリアンよりも一回りスケールが小さく、一つ一つの設定の迫力も薄いが、それでも充分におもしろい。
個人的に、宗教のくだりに納得がいかなかったり、ネアンデルタールの社会システムに疑問があったりもする。イリーガル・エイリアンではそういうことが少なかったという意味でも、やっぱり縮小版という感じは否めない。
なんとなく「本気で書いてない」雰囲気があるようなないような。全体的に、いつものソウヤーと比べると説得力がない。量子コンピュータについての説明だってもっとやれるだろうし。この本で描かれたネアンデルタールのたどってきた歴史には、やっぱりどうも矛盾点がありそうに感じてしまう。
が、それでもおもしろいのである。
そういえば、量子コンピュータの多世界解釈を最大限に拡大適用したこういう話は、日本では二十年くらい前にずいぶん流行った気がする。むこうでもそうだったはずだ。ネタとしてちょっと古臭い感じがあった。
日本では山田正紀とかがだいぶ使ったし、これを使えばなんでもできることがわかってしまっている。SFファンはもうかなり飽きてると思うんだけど。SFファン以外の読者を想定しているんだろうか?
いいゲームのいいシーンやってると中断したくなる病
T-ruth氏の日記経由。ネタ元少ないねー。
うわ悪スレ荒れそうとか思ったのに、意外とまともに話してるのがすげー意外。こんな人たちがいるのか。
個人的に思ったのは、こういう人たちがMMOをやってるんだなあと。いくつ手を出しても飽きてしまうわたしには想像できないことを感じている人たちが、どうやらいるみたいだ。
珍しく知人たちと読んだ本がかぶり、それで話をしたりして、久しぶりにネット書評を検索してみたりした。やっぱりブログが増えてるせいだろう。ネット批評のレベルは強烈に低下してるなーという印象だ。
googleで検索しても、役にたつ評を捜すにはすごい手間がかかる。以前はこれほど大変じゃなかったと思う。
5行ほどで誉めてるか、1行でけなしてる文章ばっかりなのだ。個人的には、そういう文章は検索性を落とすだけなので書かないでほしいんだが、しかしこれはマクロな現象なのでわたし1人が叫んでみたところでどうしようもない。
レビューを書くためのコストが激減してるせいで、それだけ、まあなんというか気軽な、魂の入っていない文章が多くなってしまっている。
本に関してはだいたい、誉めてるサイトとけなしてるサイトをいくつか眺めればどんな感じか想像できていたのだが、先日書評を書いた某本では、それがまったく効かなかったのである。
はっきりいって驚いた。ネット評を検索したイメージと、現実に読んで受けたイメージがまるで一致しなかった。
ネット書評には傾向がある。つまり、はじめから話題になっている本は酷評され、まだ話題になっていない本は誉められる。そういう傾向だ。前にどっかでそんな記事も読んだが、これは毎日ネットを見てる人はたぶん、みんな気づいている。
つまり、そういう傾向とか強いサイトや2chの影響とかを差し引いても内容が残る文章にしか意味がないのだが、それがなかなか見つからない。今回のわたしの場合は、けっきょく見つけることができなかったということだろう。ちゃんとしたものもあるはずだが、埋もれてしまっている。
googleマンセーではダメになりつつあるんである。
まあしかたないんだろうけどねえ。ちゃんと自分が気に入ったコミュニティを捜しておかなきゃダメということか。うーむ。