ボードゲームの紹介です。もちろんドイツ製が中心。
ゲームのデータは公式ではなく、執筆者の主観です。てらしまはけっこう考えるスタイルのようなので、特にプレイ時間は長めになっています。でもメンツによって違うわね。
斬新なゲームだ。とにかく、まずはこの斬新さが求心力を持っている。
だが、そもそもこれは……このゲーム自体は、おもしろいのか?
いや、実はわたしはいま、充分にこのゲームを楽しめている。いまのところ、好きなゲームといってもいい。おもしろいのだ。
しかし、それはわたしがまだこのゲームを知らないからであって、知ってしまったらどうなのだろう。
そんなことを考えてしまうわけである。
『切り裂きジャック事件』という古いゲームを知っているだろうか。探偵たちがロンドンの街を歩き回って証拠を集め、残忍な殺人犯である切り裂きジャックを捜すゲームである。
知っている人はイメージしてもらえばいいが、あれに似た、推理ゲームである。ただし、殺人事件ではない。
探偵たちがつきとめなければならないのは「失われた宝石はどれか」。つまり、宝石が盗まれたのだがそれがどの宝石なのかがわからないという。考えてみればよくわからない設定だ(ていうかそれは事件なのか?)。
36枚の宝石カードがある。そこから一枚を抜いて裏向きのまま脇に置き、残りのカードを全員に配る。その抜いた一枚を特定するのがゲームの目的だ。
そのために、プレイヤーのターンでは操作カードというものを使う。
宝石カードには「種類」「色」「数」の3つの情報がある。種類は「ダイヤ」「オパール」「真珠」の3種、色は4色、数は「ソロ」「ペア」「クラスター」の3種(たぶん失われたのは指輪で、そこにいくつの宝石がはめこまれていたかを表している)。3×4×3で、36枚である。
捜査カードでは、このうちのどれかの項目で訊きこみをおこなう。他のプレイヤーを指定して「ダイヤを何枚持っているか」とか「赤いオパールを何枚持っているか」などと訊くことができる。
この捜査カードには2種類ある。種類、色、数のうち1項目のみのカードと、2項目の組み合わせのカードの、2種類だ。1項目のみの捜査カードなら、枚数を聞くだけ。2項目ならば、そのプレイヤーが持っているカードを自分だけが見ることができる(ただし、枚数は他のプレイヤーにも知らされる)。
注意しなければならないことがある。テーブルを囲んでいるわけだから、枚数を訊ねられて答えれば、その情報は全員が知ることとなるのだ。つまり、1項目カードでは各プレイヤーがもつ情報量に差がつかない。2項目カードで宝石の内容を見て、はじめて差がつく。
宝石カードについての情報量は膨大である。とても憶えきれるようなものではない。だから、箱の中には「情報シート」がついている。各自メモをとっていいというわけだ。
このメモの使い方が、非常に重要になる。誰がなにを持っているか、なにを持っていないか、そうした情報を、的確に記述できた方が有利になる。
そして「これだ」と思ったら、シートに失われた宝石を書いて宣言する。まずは自分だけが脇にどけておいた一枚を確認し、正解だったら勝利である。ちなみに、不正解だったときは敗北となって以後の捜査をおこなえない。
普通のゲームではプレイヤーの頭の中にしかない「情報」というファクターを、明示的にゲームのリソースとして扱っている。より多くの情報を手に入れたプレイヤーが有利なのは間違いないが、加えて、その情報をどう処理するか、どう紙に記述するかといった情報処理能力も問われることになる。
考えないでやれるゲームではない。まあたいていのゲームは、ゲームに参加すること自体には思考を要求しないわけだが、つまりダイスを振っていればゲームをやること自体はできるのだが、これは違う。ただ白紙のまま渡されたメモとペンと、カードから情報を拾い出し、自らの手でゲームに参加しようとしなければならない。
正直にいって、考えることが苦手なプレイヤーとはやる価値がないゲームだ。
メモをとる、あるいは情報を処理するという行動には、やはりある程度の創造性が必要だ。与えられたものではなく、自分でものを考えることのできる人間でなければ、このゲームには参加することさえできないのである。
そういう意味では、敷居の高い、不親切なゲームといえるかもしれない。
だが、幸運にもそういうプレイヤーと卓を囲むことができたならば、これは非常に知的で創造的な、思索のきっかけを与えてくれる。具体的には、メモをどう使えばいいか、考えるのはとても楽しい。
さて、しかし、難しいのはその先の話である。
このゲームの斬新なところは、情報そのものをゲームのリソースと考えたところであるとは書いた。しかし、そうして見た場合、つきつめて考えて、これのゲームそのものの部分は楽しさを持っているのだろうか。
例えば、ゲームに慣れてきて、必要な情報をすべて、簡単に記述できる方法を全員が習熟したとして。そのときもまだ、このゲームはおもしろいだろうか。
なんとなく疑問に感じてしまうのだ。
わたしにとっては、いまはまだ充分におもしろい。でもそのおもしろさの大部分は、どうやったらうまくすべての情報を記述できるかを考えることにある。
例えば、メモではなくノートパソコンを使っていいとなれば、おそらく全員が、自作の専用プログラムを用意してくるだろう(そうできるメンバーならばだが)。もちろん、必要な情報はすべて完全に処理できる。人間にとっては多いかもしれないが、コンピュータにとってはたいした量ではない。
そのときプレイヤーがすることといえば、コンピュータにしたがって機械的に捜査カードを出すだけではないか。
もちろん、ノートパソコンは反則かもしれない。では、あらかじめ完璧な表をメモ欄に用意し、簡単にすべての情報を整理できるようになったときはどうなのか。
これはなにも、荒唐無稽な話ではない。人間が普段、紙とペンでどれほど多くの情報を処理しているかを考えてみればいい。星の動きから地動説を導き出した人もいる。飛行機を設計した人もいる。このゲームに習熟するとはそういうことなのだ。
紙とペンを渡されているということは、そこまでやれる可能性があるということである。人間の脳だけでは処理できない情報を、外部メモリーを使って機能的に処理することができてしまうということである。
そして、そこまでプレイヤーとしてのレベルが上がったとき。これはまだおもしろいゲームだろうか。
もちろん駆け引きは残っているだろうし、どのプレイヤーがどれだけの情報を持っているか、それは決定的な情報だろうかと考えながら質問を変えるといった、マルチゲーム的な要素は残るだろう。だが、それだけで「おもしろいゲーム」でありつづけることはできるだろうか。
『原始スープ』というゲームがある。あれがそうだった。どうしたら勝てるか、どういった戦略がありえるか、そうしたことを、考えているときは楽しかった。だが、それが一つの結論にたどりついてしまうと、もうやる気にならなくなった。ゲームとしての駆け引きや、その場の判断や、そういったものは残っているのだが、それだけではもう、あえてプレイしたいと思わせるほどの引力を維持できなかったのだ。
このゲームもそうなる気がする。そういう懸念がある。いまのところ、メモのとりかたを考えるのが楽しい。だがそれが完成してしまえばもう、あえてやろうとは思えないかもしれない。
でもとにかく、まずはこうした、普通のボードゲームをやっていては使わないような脳の領域を使わせるような、斬新なデザインはえらい。一度プレイしておくことをオススメしてみてもいい。
すぐそこに滝がせまった川のまわりに、なぜか宝石がたくさん落ちている。轟々たる滝の音が聞こえている激流に、いまボートで乗り出そうとする者たちがいる。
なんといってもこの舞台設定がいいじゃないか。まあ多少ムリヤリな感じもあるけど、これだけでスリリングな場面が予想される。
アクション映画で、手を変え品を変えいろんなシーンが出てくる、あれと同じようなものである。カーチェイスとか、レイダースの電車とかトロッコとか、マトリックスのエージェントスミス100人でもいい。とにかく現実的じゃなくても楽しくてスリリングならいいのである。
例を挙げるのに本物のB級アクションは適さない(定義上マイナーなので)わけだけど、なぜか吊り橋の上での戦いとか、なぜか火が吹き出してたりとか、飛行機の翼の上とか車の屋根の上とか、いろいろあるじゃないか。確信犯のB級映画ほど無茶な場面があって楽しいものだ。
ああいうのと同じで、滝というのは、一目でわかるわかりやすさと無条件のスリルがある。「ファイトー」「いっぱーつ」である。
それを表現するために、用意された舞台が、これだ(写真)。
非常にわかりやすい。
ボードは裏返した箱の上に置く。それで高さができる。なるほど、確かに滝だ。納得せざるをえない。
川には透明で丸いプラスチックの板を並べてある。その上に、ボートを乗せる。川が流れるときはプラスチック板を上流から押してやる。一番下のタイルは滝に落ち、もちろん上に乗っていたボートも落ちる。これはもう、まさに比喩でもなんでもなくほんとに落ちる。
この雰囲気だけで勝ったようなものだが、ゲームシステムもスリリングにできている。
移動はダイスではなく、移動力が書かれた札をまず全員が裏向きに提示しておこなう。ここで出されたもっとも小さい数字が、同時に川の流れの速さになる。速いかもしれないし、遅いかもしれない。
ボートは一番上流のマスから川に入り、宝石をとってまた上流まで上ってこなければならない。これがまた、いくら漕いでも流れに押し戻されたりする。
加えて、せっかくボートに乗せた宝石が盗まれたりもする。それを回避するためには、さっさと上陸してしまうか、あえて下流に留まるかである。
とにかく、すべてが「滝」というテーマをいかに盛り上げるかという一点に集約されているのだ。
ただし、実は乱数を一度も振らないので、見た目からは意外かもしれないが一番考えた人が勝つゲームである。だいたい終了前3ターンくらいには詰んでいるので、終わりかたは少し拍子抜けかもしれない。残念な点といえばそこか。
ところでこれ、ドイツ年間ゲーム大賞をとったらしい。まあ別におもしろいからいいのかもしれないけどさあ……ジャン・クロード・ヴァン・ダムとかドルフ・ラングレンとかウィル・スミスとかがアカデミー賞を獲っちゃったー、みたいな空しさがあるような。
写真撮ってくるの忘れた……。こういうバカゲーには写真が必要だと思うので、そのうち機会があったら撮ってきます。
ちなみに原題は『Monsters menace America』。そのままモンスターメナスアメリカと呼ぶのに一票。
ラドンでもキングギドラでも、ましてやガメラでもモスラでもアンギラスでもない。登場する怪獣は、ゴジラ、キングコング、へドラ、カマキラス、エビラの5匹。な、なぜ……って感じのキャストだ。
びっくりするほど日本の怪獣映画を下敷きにしたゲームだ。まず怪獣たちがつぎつぎと現れ、各地を思うがままに破壊して回る。自衛隊ならぬアメリカ軍が必死に対抗するが、もちろんまるで歯がたたない。
そうこうするうち、怪獣たちは出会い、なぜか怪獣大決戦を始める。
このストーリーに、理由なんか必要ない。我々日本人にとってはもう、遺伝子に組みこまれている展開だ。怪獣は軍と戦うし、それが複数いれば、最後には大決戦をやる。世の中にこれほどあたりまえなことはないし、もし違う展開を見せたら許せない。
そんなバカ怪獣映画精神が、アメリカにもあったんだなあということが、このゲームで実感できる。
いや、正確に書こうか。もちろん、アメリカにだって怪獣はいた。『キングコング』とか『恐竜百万年』とか、そもそも日本のゴジラよりも歴史は古い。だいたい、ゴジラの元ネタはあのレイ・ハリーハウゼンの実質的デビュー作『原子怪獣現る』だとされている。
着ぐるみではなくストップモーションだったり、違いはいろいろあるとはいえ。人間の手に負えない大怪獣が街を襲うというイメージは神話のようなもので、国籍はあまり関係ないのかもしれない。
しかし、いまのアメリカにこの神話はない。なぜかといえば、ハリウッドゴジラが登場してしまったからである。なんだあの弱い怪獣は。なんで新兵器でもマッドサイエンティストでもなく、ただのアメリカ軍に負けなければならないのか。あれはもう怪獣じゃないのである。
日本人からみれば、あれはヤーウェがミサイルで殺されるようなものじゃないか。そんなこともわからないのかアメリカ人は。そんなにアメリカ軍を誇大に見せたいかよ。
そもそもあんな、人も入っていないような怪獣は認められない。ハリーハウゼンのストップモーションなら認めてもいいけど。
なんて思っていたのだが、わかってないのはブッシュだけだったのかもしれない。よくわかっている、こんなゲームもあるじゃないか。
このゲーム、実は復刻で、もとは『Monsters Ravage America』というタイトルでアバロンヒルから出てたものらしい。そっちの発売年は1998年? でいいのかな。思ったより新しい。ぐぐる様でいろいろ調べてみるに、コンポーネントなどは復刻版のほうが格段によくなっている。どうもゲーム自体も細かく変わっているようすだが、しかし大筋は変わらないようだ。登場怪獣も変わったが、ゴジラは登場していたらしい。
このしょーもないストーリーに、この軍の弱さ。これはたしかにアメリカ映画ではなく日本の怪獣映画なのである。『怪獣王ゴジラ』(ゴジラのアメリカ輸出版)がどれほど話題になったかは知らないが、少なくとも日本のくだらない怪獣映画をおもしろがっているアメリカ人が作ったことは間違いないと思えるのである。
ああ、ゲームの紹介してないや。
プレイヤーは、怪獣と軍を一つずつ担当する。怪獣は最初に書いた5匹。軍は、陸、海、空軍と海兵隊。よく知らないんだけど、海兵隊って海軍と違うの?
軍のユニットは各地の基地から登場して怪獣に戦いを挑み、木の葉のように蹴散らされる。メカゴジラとかスーパーX(いや、カード名はXファイターだしイラストは前進翼機なんだけど)とかも登場するが、もちろんそれでも怪獣は倒せない。せいぜいが、足止めになるかどうかくらい。
国連軍なんてのもあるが、これはたぶんアメリカが拒否権を発動してるから、基本的に動けない。
なんかもう、この軍の弱さは泣けてくる。せっかくプレイヤーが操っているというのに。怪獣は、そんな人間たちの抵抗など歯牙にもかけず観光地や大都市を破壊する。
破壊すると体力が増えたりちょっとパワーアップしたりする。それはすべて、最後の決戦に備えるためである。
都市が一定数破壊されたら怪獣大決戦が起こる。ここではわかりやすく、つぎつぎと怪獣が呼び寄せられ1対1で戦っていく。最後に生き残った怪獣が勝者となる。
ってつまり、徹頭徹尾バカゲーである。てきとーに突然変異して触手が生えたり、せっかくの新兵器があっというまに壊されたりするのをゲラゲラ笑ってればいいのである。本気でやったってしかたない。
だるくもならず、最後に大決戦があるからちゃんと盛り上がって終わる。考えてみれば途中経過は半分くらい必要ないような気もするけど、まあいいやそんなこと。
なんともてきとーなゲームデザインなのだが、楽しめちゃうのは怪獣へのファン根性かねやっぱり。