ボードゲームの紹介です。もちろんドイツ製が中心。
ゲームのデータは公式ではなく、執筆者の主観です。てらしまはけっこう考えるスタイルのようなので、特にプレイ時間は長めになっています。でもメンツによって違うわね。
木のコマがたくさん入っていてうれしい。このゲームでもっとも重要な要素だ。
ルールは簡単。「建物」「ヤギ小屋「城壁」「人」「屋根」と5種類のコマを始めに渡される。ターンではここから、どれでもいいから2個をボードに配置する。全員が置けなくなるまでこれをくりかえす。やることはそれだけなのである。
建物はボードに置いただけでは誰のものでもない。建物の上に自分の色の屋根を乗せることで、初めてプレイヤーのものになる。
屋根を乗せてしまうと、もうその建物は拡張できない。そのため、一生懸命大きく育てていた建物が他人に奪われたりすると大ショックなのである。
というか、本当のことをいえば、自分で大きくした建物は基本的に他人にとられるものなのだ。自分の得点を直接伸ばす手段がほとんど存在しないため、いまだにどうしたらいいのかわからないゲームだ。
ボードは始め、まっさらなマス目が並んでいるだけ。そこに建物を並べていき、次第に街ができあがっていく。ゲーム終了時には、もちろん得点計算をするわけなのだが、プレイヤーはここで初めて、自分たちの街を客観的に見渡すことになる。
このときは、全員で協力して計算を進めるべきだと思う。勝敗が決したことよりもまず、できあがった街を眺めて満足感に浸る、得点計算はそのための時間である。
ここで、立体的なコマが大量に入っていた意味が生まれる。シムシティみたいな感慨がちょっとあるのだ。
いろんな過程があって立体物が立ち並んでいく、男の子はやっぱりそういうものが好きなのだという気がする。
始めはなにをしていいかわからないので、適当に建物を建てることが多い。だが乱数がなく、得点も盤面にすべて見えているので、途中からは必死で考えるようになる。
でも本来は、こういうゲームは、何百回もやりこんでできあがってきた定跡を元に、序盤から気を入れてプレイしなければならないはずだ。なにもないところに置いていくところが似ている、囲碁のような序盤展開になるまでは、本当にやりこんだとはいえないと思う。
もちろん、わたしもそこまでやりこんではいない。所有者だから、多少のセオリーはわかるのだが、それでも序盤はあまり考えずに置いている場面が多い。
いってみれば、まだ誰もこのゲームを理解していないのである。
しかし、楽しくないわけではない。それは、やはり俺たちの街が次第に大きくなっていく、そこに魅力があるからだ。プレイヤー間の綱引きがあり、その結果として、ゴミゴミとした、妙に生活臭を感じる街ができあがる。建物の間に人を配置するときなど、本当に指が届かないほど狭いわけだが、そんなところで、どこか街に愛着がわくのだ。
まあゲーム自体の評価は「佳作」という感じなのだが、もしもこれでコマがただの厚紙だったなら、「駄作」になっていただろう。
5、6人でやるわりと気軽なゲームとしては悪くない。完全に運次第のクソゲー? まったくそのとおりだが、まあパーティーゲームだと思おう。それにしてはいまいち雰囲気がないのは欠点だが。
アメリカの地図の上に鉄道を敷いていくゲームである。
鉄道を敷くゲームと書いたが、そういって『1830』などを思い描いてはいけない。鉄道ゲームというより、線路を置くゲームといった方がいいかもしれない。
やることは本当に線路を置くだけ。まず5箇所の目的地カードが渡され、そのすべてを一つの路線でつなげたプレイヤーが、ラウンドの勝者となる。自分のターンにすることは線路を2本敷設すること。自分の路線しか延ばせないが、他プレイヤーの路線と繋がったら一つになってしまう。結合すれば人が敷いた線路を全部使えるわけで、自分の勝利が大きく近づくのだが、もちろん他人も同様なので考える必要がある。
いかに他人と協調し、また他人の伸びを遅らせるかという判断が重要なゲームということになる。のだが、各プレイヤーの目的地は秘密なので実際はそれほど真剣に考えない。
よくわからないのは、これを数ラウンドに渡ってくり返すという点だ。ラウンドが終われば盤上の線路はすべてとりのぞかれ、目的地も配りなおして始めからになる。一体どういうこと? 複数の時間線が存在するのか、するとプレイヤーは時間をも支配した神のごとき鉄道王なのか。
というよりも、つまりこれはゲームなのだということに気づくしかないわけで、そのへんのいいかげんさもいいとところではあるのだが、鉄道ゲームと聞いて覚悟を固めて始めると肩すかしを喰ってしまう。わたしも始めはそうだった。そのせいで、なにが楽しいのかわからなったのだ。
つまり、「アメリカの地図を使って鉄道を敷く」という題材の選び方が間違っているんじゃないのという気もする。しかし地形や地名がアメリカだからこそ親しみやすいという気もする。
このページでは何度も書いていることだし、今さらなのだが、始めからゲームと割り切る姿勢が必要なゲームだ。
さて、おもしろいのかといわれるとおもしろいとは思う。目的地カードから、盤上の目的地を捜すのが少し面倒なのだが、それもある程度憶えてしまえば問題なくなる。
複数人がからんだ単純な駆け引きが、盤面のみで、会話を必要とせずに行われる、よくできたゲームの可能性は見せている。運がないと勝ちようがないのだが、数ラウンドに渡り同じことをくり返すので、がんばっていれば報われないこともない。少なくとも信じてみることはできるので、ゲームの面では、まあ少々パーティーゲーム気味ではあるが、楽しい。
間違った行動をとったプレイヤーはほぼ確実に脱落するのだし、考えなければならないのは確かなのだ。
問題はやはりイメージのなさ。でも鉄道ゲームと聞いて1830を思い出さない人には抵抗もないだろう。鉄道ゲームなのに、鉄道に対する執着がない方が受け入れやすいんじゃないか。やはりなにか間違っていないかね。
ほとんどの場合、最後にはすべて一つの路線に繋がってしまう。そうするとアメリカの鉄道網が完成するわけで、ラウンドが終わってみて初めて、このゲームが鉄道のゲームだったことに気づくという感じだった。でもすぐに盤面がリセットされて次のラウンドである。これでは鉄道ファンに勧めてもしょうがない。
自分一人で進めてもまず目的達成はできない。だからいつか他人の路線と一緒にならなければならない。そのへんのジレンマが、単純なのに楽しい。でもいくら考えても、それをあざ笑うようにあっさり上がられてしまったりする(というかその方が多い)、そのあたりはけっきょく運なのだが、気楽でいいとも思う。今ではこのゲーム、わりと嫌いではない。
ただ、メジャーリーグのファンでアメリカの地名を知っているとかでない限り、日本人にとっては目的地が表示されてわかりやすいオンラインでのゲーム(BrettspielWelt)の方がいいという話もあったり。
中村聡が作った、と聞けば誰でも納得する、ドラフトのゲームである。ドイツでもマジック・ザ・ギャザリングの影響が色濃いゲームが次々と話題になっていて、そんな様子を見ていた日本人が「へー、あんなのでいいんだ」とばかり作ってみた、というイメージだ。
まず、各プレイヤーに5枚のカードが配られる。それでドラフトをやり、最終的には5枚の手札を得ることになる。
カードには得点が書かれている。もちろんただの得点ではなく、他のカードと組み合わせないと得点にならないとか、カードを裏返したり表にしたり、特殊効果つきのカードが大半を占めている。
で、とったカードの中から3枚を場に出す。これを4ラウンドやって、最終的に得点がもっとも高いプレイヤーの勝ち。
とまあ、ルールは非常に簡単なのだが、ちょっとわかりにくいところがある。カードの効果はすべてアイコンのみで指示されているのだが、これがかえってわかりずらい。せめて日本語のテキストを加えてほしかった。まあたぶん、外国に輸出することも考えたデザインということなのだろうが。
とはいえ、2、3回やって慣れれば苦にならなくはなる。テンポよく進むし、つまらないわけではない。
さて、ゲームをやっている感じとしては「あっさり」である。考えてみれば、マジックでドラフトをやるときは15枚から選んでいるわけで、例えば2周目になにが残ってくるのかというところまで考慮に入れる必要がある。しかしこれはたったの5枚。人数が多めだと2周目はなくなってしまう。どうしてもマジックと比べてしまうから、印象がちょっと淡泊なのだ。
他人に干渉できる部分が少なく、考えてもしかたないという場面が多い。いや、ドラフトをやっているのだから干渉が少ないなんてことはないのだが、なにしろ見えていない情報が多い。必死で人を邪魔しようとしても、けっきょく我が道をゆくプレイヤーが勝つ。引き運も大きい。だからすぐにみんな他人のことをあまり考えなくなるし、それで大きな影響があるわけでもない。
なにしろ、100枚ほどあるカードのうち配られるのは5枚。ソートが決まっているわけでもない。見えないところで他人がなにをやっているのかなんて、考えたところで数パーセントの効果しかないのだ。
完全にドラフティングに特化したデザインになっている割には、ドラフトのおもしろさを再現しきれていない、と思う。こういってはなんだが「操り人形」の役職選びは考えるべき点が多く、秀逸なものだった。あれくらいの深みがほしいところだ、と思う。
複数枚のカードを組み合わせる役づくりのゲームということになる。ラミー系ということか。そうすると、例えばだ。カード一枚一枚に麻雀の牌の絵が描いてあって、それで同じようにドラフトで役を作っていくゲームだったらどうだったのか。まあ多少、細かいルールに変更は必要だろうが、ひょっとしたら、妖精奇譚よりもこの「ドラフト麻雀」の方がおもしろいんじゃないかという気がしてしまう。
別にやっているときは楽しめるのだが、淡泊すぎてゲーム自体の印象がほとんど残らない。一番の問題はそこだろう。注目すべき点が、まったくないのだ。だからつい、他のゲームと比べたくなるのである。
おもしろいことはおもしろい。いや、それだけではない。斬新なところもあるし、基本的なルールはすべてよくできている。
これは、名作……になっていたかもしれないゲームなのだ。
ひとまず紹介。ボードには、全部で15個のマスがある。まあボードには絵が描かれているだけなので、説明されないとどこにマスがあるのかすらわからないわけだけど、とにかく、マスがある。
ついでだが、考えてみれば15マスしか使っていないのに、日本のちゃぶ台に乗り切らないほどでかいボードは不満だ。まあたしかに、この大きさのおかげで楽しい気分になれるという部分はあるのかもしれないが、このせいで箱も大きいので持ち運びが不便なのである。
とそれは余談。プレイヤーは、1から9までの数字が書かれた8枚の(3がない)チップを持っている。これは部下を表していて、数字が大きいほど有能な部下。この8人の部下を、ボード上の15箇所に送りこんでいくのである。
さて、ゲームの目的は、宮殿で買うことができる「アーティファクト」を集めること。そのためにはまず、ドラゴンの巣から宝石をかっぱらってこなければならない。その宝石を、アーティファクトと交換するのだ。
先ほどから書いている15箇所だが、それぞれに意味が違う。まず一番下の5箇所はドラゴンの巣。中段の4箇所は街で、そこにいくといろいろと特殊な効果を得られる。上段には宮殿が並んでいる。
各ラウンドは二つのフェイズに分かれている。第1フェイズは部下を送りこむフェイズ。全員が一つずつ、すべてのチップを配置し終えるまで続く。
このゲームでもっとも重要なポイントだが、この部下チップは裏向きに配置する。裏からでも誰のものかはわかるようになっており、ここでいろいろな駆け引きが生まれてくる。
第2フェイズは、配置し終えたチップを一箇所ずつ開けていく。場所によって解決法が違うが、基本的には、配置されたチップの数字の合計が大きいプレイヤーがその場所の効果を得る。ドラゴンの巣なら宝石を得るし、宮殿ならアーティファクトを買う権利を得る。
アーティファクトと交換する目的のために、わざわざドラゴンの巣までいって宝石をとってくるばかばかしさも楽しいのだが。なによりこのチップ配置が楽しい。
局面によってプレイヤーごとに価値が変動していくそれぞれのマスに、すべてのプレイヤーが同時に(時計回りだが)配置していく。もちろん複数のマスで他人の配置とかぶるわけで、盤面のいろいろな場所で、あらゆる組み合わせの、プレイヤー対プレイヤーの紛争が勃発していく、この過程がなんとも楽しい。
どこで手を抜くか、どこに力を入れるか、裏向きの他人の配置を見ながら決めていくわけなのだが、もちろん絶対に引けない局面もあったり、そういうところで意地をはったり、実はブラフだったりの駆け引きを、複数同時にやっていくわけである。各プレイヤーがとっている戦略、価値観(というより顔色)、状況が、いろいろな場所で同時に綱引きをはじめる、このシステムは実によくできていると思う。
15箇所に8枚ずつというチップの枚数も絶妙だ。多少複雑と感じられてしまうこともあるようだが、それぞれに解決法の違ういろいろなマスがあるのもおもしろい。そのおかげで、様々な選択肢のすべてに、まったく違う意味を持たせることができている。チップ配置に、プレイヤーの意志を乗せることができるのである。
例えば『ブラフ』などでは、けっきょく宣言がウソかどうかを判断する基準はない。むろんあれはあれでおもしろいのだが、ああしたゲームには、宣言をした本人の「意思」が存在しない。宣言がウソなのか本当なのか、判断するのは相手プレイヤーであり、その判断基準は、ゲーム上には示されていない。だいぶ複雑にアレンジされたジャンケンをやっているのと同じだった。しかしモルゲンランドには、どのマスにどのチップを送りこんだか、推理する基準がある。このチップをここに配置すればそれは彼にとってこういう意味になるだろう、というものが、つまりプレイヤーの意志があるからだ。
プレイヤーの意志をボードに表現することができる、こういうゲームを実現するのは、実は非常に難しい。貴重なシステムなのはたしかである。
ではなぜ名作になれなかったか。
名作という人もいるし、現におもしろいのだからそれでいいじゃないかといわれたら反対する気もないが、わたしは、これは名作になりそこねたと思っているのである。
ちなみにこのゲーム、「サイコー!」という意見の一方で、「なんだかなあ」とか「イマイチ」とかの意見もある。評価のわかれるゲームである。
まだ紹介していない部分なのだが、勝利条件でもあるアーティファクトには、持っていると特別な効果がある。いつでも1ターンに一度だけ、アーティファクトと使うと宣言すると、特殊効果を起こすことができるのだ。
その中に「アラジンのランプ」というものがある。これを使うと、そのターンは何度でも「魔法カード」を使うことができる。
これも説明していなかったが、魔法カードは、街にある「アラジンのテント」という場所でチップの競り合いに勝てば一枚もらえるものだ。戦略に多様性を持たせるため、つまり5人でプレイしたときに敗北確定のプレイヤーを出さないために導入されたのだろう。
魔法を使うといろいろなことが起こり、まあ楽しい。だが……。
弱いのである。わざわざチップを派遣してまで集めた魔法カードが、なんとも、弱いのだ。
もう少し正確に書くなら、他人を邪魔することはたしかにできるが、自分は損をしている、である。
魔法を使うためには「アラジンのテント」にチップを配置しなければならない。つまり貴重な自分のリソースをつぎこんでいるのだから、それだけ他人より伸びが遅くなる。その上、使っても自分だけが伸びられるわけではなく、むしろ後退する。その結果得られるものは、せいぜい一人のトップをとめることができるだけ。
勝利を目指すならば、魔法は買うべきでない。
魔法カードという要素は不要だったのだ。しかも、この魔法のルールが一番複雑だし、わざわざカードがついてくるわけでもあるし。そのあたりが「イマイチ」とかいわれてしまう要因になっている。
しかしだ。実は、だからといってゲームが壊れているわけではない。「強すぎる選択肢」があるのは大きな問題だが「弱すぎる選択肢」は選ばなければいいだけの話。他の部分がよくできているゲームならば、ゲーム自体のおもしろさは変わらない。
でもやっぱり「名作」であるためには、無駄な要素はすべて排除されている必要がある。
そういう意味で、これは名作になりそこねたのである。残念といえば残念。魔法カードの効果をもっと吟味するか、もっと容易に使えるようにするか、他の要素とのかねあいをもう少しなんとかするか(このルールでは、魔法を使うよりも他のアーティファクトを使う方が数倍も強い)。いずれにしろ、あと一歩だったのだ。
まあでも、おもしろいシステムは素直に評価すべきだとわたしは思う。名作ではないかもしれないが、おもしろいのである。
潜水艇を使って深海に眠る宝を引き上げるゲーム。とりあえず、ボードの絵と船の形のコマが雰囲気を盛り上げていていい。
ルールは多少複雑なのだが、いろいろと斬新である。
とりあえず目を引くのは、各自に渡される山札。手札の補充はこの自分の山からおこなう。山札といったら普通はまん中に置かれていて、全員でそれを使うものだが、このゲームはその固定観念を砕いてみせるわけである。
この山札、実はそれぞれ十数枚しかない。宝物を回収するには宝物と同じ色の手札を使わなければならないので、放っておくと、あまりに偏った山札のために立ち往生してしまったりもする。最終目標は12種類の宝を集めることなのだが、そのために渡される山札が、15枚。足りないのだ。
で、その不足分はどうするか。おもしろいところなのだが、自分ではどうしようもないのだ。
潜水艇は宝のある深度まで潜って回収作業をおこなうわけなのだが、この回収をやるときに、自分の潜水艇の上方に他人の潜水艇があると、そのプレイヤーに山札を支払わなければならない。というルールがある。
この支払いかた、自分の山札のトップのカードを、相手プレイヤーの山札のトップに、支払うのである。斬新だ。
つまり、ゲーム理論っぽくいえば、もともと足りないリソースをそうやって流動させることで、なんとか勝利条件を満たすことができるようになる瞬間ができるというわけで、これはなんとも、真剣にやると大変そうなゲームじゃないか。
もちろん、山札が足りなくなると大変なので基本的には支払いたくない。けれど、なにしろ盤面が狭い。支払いたくないからといって宝をとらないわけにはいかず、けっきょく支払うことになる。このリソースの流動は不可避なのである。
ただし、いつ、誰に支払うかを選択することは可能だ。自分の山札など15枚しかないわけで、すぐに1周するし、本気で記憶しようと思えば憶えられる。さらに、自分の山札から相手の山札に送ったカードも、情報として憶えることはできるし、コントロールすることも、やればできる。もっとも、そこまでやるのはちょっと大変すぎるけど。
基本的にカードが足りないので、ゲーム終盤には煮詰まる。他人の妨害以外なにもすることができないプレイヤーが出てきたり、妨害されてなにもできないプレイヤーが出てきたりする。
その中でも、上記した山札の流動が少しずつ起こり、誰かが勝利に近づくことができる瞬間が生まれる。最終局面でうまくその流れに乗ることができたら、勝つことができる。そういうゲームなのだ。
とまあ、本気の本気でやると2日くらいかかりそうなルールなのだが、まあそこまでやらなければ、普通に宝を引き上げるゲームとして楽しめる。パッケージに表示されている、プレイ時間45分というのはかなりウソだけど。
潜水艇が、きれいな海の中を、宝を持って海面の母船に上がってくる(浮上する場面は再現されていないけど)。斬新なルールの数々だが、決してこの雰囲気を壊してはいない。意外な傑作なのかもしれない。
植民地を作ってスパイスを生産したり、いろいろやる。植民地に入植者を送り、船を造り、未開の土地を探検し、そうして得た収益をもとに技術開発し、という感じだ。
非常に個人的に、連想したのはコンピュータゲームの『ヨーロッパユニバーサリス』。でもまあ、昔から、このテーマをあつかったゲームはいくつもある。というかもちろん、『シヴィライゼーション』(あるいは文明の曙)を挙げておくべきだ。
ただし、そうした雰囲気がちゃんと表現できているかといえばかなり怪しい。植民地といったってどこにどう作ってんだかわからないし、さまざまな要素は地図の上ではなく、単に集められたチットやカードの形でしか表現されない。まったくビジュアルのないゲームだ。
内容、というか、プレイ感としては「オークションするプエルトリコ」って感じである。うげー。
つまり、かなり考えなければならない戦略ゲームである。
とりあえず、各ラウンドの開始時にはオークションがある。まん中のオークションボードの中から、プレイヤー人数+1個の商品が順にオークションにかけられる。
オークションボードには5×5のマス目に1個ずつ商品が置かれている。オークショニア(順番に回ってくる)はまず、どの商品をオークションにかけるかを決める。この時のルールがまた謎なのだが、選べる商品は「前回のオークションにかけられた商品の、縦横斜めとなりにあるどれか」。
オークションボードが現しているものがなんなのか、ぜんぜんわからないわけなのだが、ともかくそういうルールにしたがって、商品は買われていく。
ちなみに、オークションは値付けが1回だけのお手軽ルールである。そうじゃなかったら、たぶん丸一日かかるゲームになっていただろう。
オークションが終わったら、各プレイヤーが順に、なにかを生産したり投資したり、入植者を派遣したり、いろいろやる。
各人には「開発ボード」なるものが一枚ずつ渡されていて、これは5種類のいろんな技術力を表している。造船技術とか、生産力とかいろいろ。それぞれがいろんな役割を持っていて、発展するほどゲームを有利に進められる。あと、この発展度合いはゲーム終了時に勝利点としても計算される。
まあ、プエルトリコの建物が、ゴアの開発ボードに相当する。やたらと様々なリソースをそれぞれに変換したり、投資して拡大再生産を目指したり(これが、中盤を過ぎるまではなかなか拡大しない)、たしかに、いろいろとプエルトリコに似ている。
とにかく、ごちゃごちゃといろんな要素を考えながらやるゲームである。ルールも、ちょっと必要以上に複雑だ。でもやっぱり、こういう戦略ゲームというのはおもしろい。
プエルトリコもそうだが、要素が多すぎるゲームというのはたぶん、ゲームの美しさを度外視してバランス調整をする、という思想に基づいて作られたのではないかと思う。たぶん、デザインにはかなりの手間がかかっている。名作にはなれないかもしれないのだが、しかし、プレイヤーがルールを把握する手間を惜しまなければ、こういうゲームは信用できる気がする。
ゴアは、ちょっと信じられないくらいバランスのいいゲームである。かなりいろいろなプレイスタイルが考えられるが、そのどれもに勝ち筋がある。
プエルトリコ以上に複雑なルールでは、さすがにプレイヤーを選ぶと思う。オークションがあるため疲れるし、雰囲気は抽象的すぎてなにがなんだかわからないし。時間もかかる。しかしだ。これほど緻密にバランスがとられた戦略ゲーム、おもしろいのは間違いない。
『フィレンツェの匠』のクラマーとウルリッヒコンビ。96年の大賞受賞ゲームである。
舞台はスペイン。プレイヤーは、その中の一領土の大公。九個ある領地に自分の騎士を派遣して、国内での自分の影響力を増やすのがゲームの目的だ。
似た感じのゲームを捜せば、作者は違うが『王と枢機卿』である。このゲームも、実は傑作なのだが。
『王と枢機卿』の方が四年ほど後なので、あれは実は『エルグランデ』を単純化してみたゲームだったのかもしれない。各領土について「1位に何点、2位に何点」と得点が入るシステムは同じだから『王と枢機卿』を知っているプレイヤーは、効率的な得点方法がわかって有利だと思う。実はこの方式、少しだけ、直感から外れている。経験がものをいうシステムである。
ちなみに、同じ作者のクラマーのゲームに『ワイルドライフ』がある。盤面にいくつかある土地について、配置されたコマの多寡で得点が入るシステムは同じ。得点計算タイミングも似ている。ただオークションがない分『エルグランデ』のほうが早く終わる。
ラウンド開始時、五つの山に分けられた「アクションカード」がそれぞれ一枚、めくられる。プレイヤーはそれを見て「パワーカード」なるものを順番に出す。このパワーカードは使い捨てなのだが、ここで高い数字のカードを出したプレイヤーから、順番にターンをおこなう。
このパワーカード、ストックから補充できる騎士コマの数も示されている。大きい数字のカードほど、補充できる騎士数は少ない。
自分のターンがくると、場の五枚のアクションカードから一枚を選ぶ。ここには、盤面に配置できる騎士コマの数とともに、いろいろな特殊効果が示されている。
あと「王さま」という大きなコマが一つ、盤面に配置されている。これを動かすアクションカードもあるのだけど、騎士の配置には「①王さまのいる領土には配置できない」「②王さまのとなりの領土にしか配置できない」という制約がある。
まあようするに、たくさんの騎士をストックから補充してたくさんの騎士を配置すればいいわけなのだが、アクションカードで騎士を移動させられたり、王さまが動いたりと、なかなか簡単にはいかない、とそういうゲームだ。
得点計算は、3ターン目、6ターン目、9ターン目の終了時に起こる。この3回目の得点計算が終わったらゲーム終了である。わかりやすい。
なにしろ領土を奪い合うゲームというと、どうしても重いものを想像してしまう。しかも、デザイナーはクラマー。ものすごく細かいところまで計算して読んでいかないといけない、がちがちのゲームかと思ったのだが、意外とそうでもなかった。実プレイ時間は2時間強という感じだが、わたしは、3〜4時間くらいのものを覚悟していた。
アクションカードの中には「〜のマスで得点計算をおこなう」なんてものがあったりする。そのあたりはクラマーっぽい。勝利得点をプレイの結果とは考えておらず、時には『ティカル』のように、勝利得点をオークションの材料にしてみたり『ワイルドライフ』や『トーレス』のように、プレイヤーの行動として直接勝利得点を得るものがあったり『フィレンツェの匠』みたいに金と勝利得点を変換できたり。直接、勝利得点をいじる選択があるのは、この人の特徴の一つだ。
そのせいで、プレイヤーの意識ははっきりと得点を稼ぐことに向かう。けっこう、漫然とプレイしていると、勝利得点を稼ぐという最終目標を忘れてしまったりするプレイヤーは多いわけなのだが。
と、いろいろなところを評価してみても、欠点が見つからないゲームである。さすが大賞受賞作。
強いていえば、はじめての時はゲームの流れが把握しづらいかもしれない。多少、ルールが複雑すぎるきらいがある。
ターン進行をパワーカードのオークションで決めたり、アクションカードを選んでからターンの行動があったりといったところが、見慣れた普通のゲームと少し違うから、ルールブックを読んでも流れをイメージしづらい。でもそれは、すべてゲームをおもしろくするための工夫である。一度やってみれば、意外と簡単なことに気づく。
これは実際、かなりの傑作なのである。
ただし、ちょっとだけ地味すぎ。地図が描かれたボード上に騎士を配置していく、というネタのとりかたが、すでに目新しいところのない、地味なゲームを予感させてしまう。箱の外からもわかるようなアピールポイントがないところは残念。
なんか最近はやりの?嘘をつくゲームである。でもこの手のブラフ系ゲームの中ではかなり良質だ。
まず、ラウンドのスタートプレイヤーに3枚のカードが渡される。カードには0〜9の数字が書かれている。この数字を大きい方から並べ、3桁の数を作って、宣言する。例えばカードが2と9と5なら、「952」。3と9と3なら「933」である。
で、そのカードを下家に渡す。渡されたプレイヤーは、カードを見る前に、その宣言が嘘か本当かを考える。嘘だと思ったら「嘘だ!」といってカードを表にする。嘘だったら嘘をついたプレイヤーが失点、本当だったら渡されたプレイヤーが失点である。このあたりはブラフと同じ。
カードを受けとってしまったプレイヤーは、手にきたカードを好きな枚数、山札と交換することができる。もちろん、引いてくるカードはランダム。で、またなにか3桁の数を宣言して下家に渡す。ただしこの数は、上家の宣言よりも大きくなければならないのである。
もちろんだんだんと苦しくなっていくので、そのうち嘘をつかなければならなくなる。そのへんもやはりブラフと同じ。
違うのは、選択肢の幅が大きいことだ。嘘だというかカードを受けとるかの選択はもちろん、何枚交換するのか、なんという数を宣言するのか、とにかくさまざまな戦略を考えられる。
極端な話、いきなり嘘をついて「988!」などととんでもない数を宣言してみてもいいわけである。あるいは「1枚交換します〜」といって9を捨ててしまうとか。
そして、なんと本当にそういう作戦が成立しうるのである。
ここがおもしろい。下手に半端な数で回すよりは「988」の方が信用されやすいかもしれないし、9を捨てておいて900番台の数を宣言すれば、実際は全然そんな数ではないわけだから、下家は嘘をつかざるをえなくなる。ちゃんと意味があるのだ。
もっともそんな極端な行動は、あまりやっていると痛い目を見るに決まっている。しかし意味がある以上、やることが間違いというわけではない。
選択肢が多いということは、それだけ、プレイヤーの思考が反映されやすいということ。同じカードが回ってきても、人によってやることは全然違う。こういったブラフ系ゲームでは、けっきょく判断材料が少なすぎてジャンケンをやっているのと変わらないことが多いものだが、このゲームではそうならない。
嘘つきゲームは基本的に好きなのだが、少し物足りないという感じがずっとあった。最終的に判断材料が減っていき、ジャンケンになってしまうのが気に入らなかったのだ(それでもブラフはおもしろいと思うし、好きだが)。
ファブ・フィブは、それを解決してみせたのである。そうか、足りないのはプレイヤーの選択肢だったのだ。
嘘か本当かの2択ではなく、嘘のつきかたにもいろいろあるのである。騙されてもリスクが少なそうに見える嘘、いかにももっともらしい嘘、あまりに極端すぎて嘘とは思えない嘘など。一度など、前の宣言よりも高い数字を引けなかったので、しかたなく「777」と宣言してみたら通った、なんてこともあった。
考えれば考えるほど、慣れれば慣れるほど嘘のつきかたにバリエーションが生まれる。性格の悪い人間が強いゲームだ。が、それはそもそも嘘をつくゲームなわけだし。
いろんな嘘を考え出すと強くなれる。嘘つきゲームという表現がぴったりである。